二月 04
さて。
私はいずれここにやって来る唾棄すべき相手を待つ間、食事をとろうとした。だがしかしここでも問題が発生する。
外に出ればワンコインで牛丼やカレーが食えるであろう。今の私の巫女姿ににふさわしき和食でさえも。だがそのようなチェーン店での食事はいかにも黒髪の乙女には似合わないように思えてならなかった。
さりとて自分で食事を作るにしても、男子厨房に入らずを二年近く実践し続けてきた現在、私の部屋に据え付けられている小さな流し台はさながら腐海のごとき様相を呈している。そんな迷い込めば遭難必至の魔界に黒髪の乙女を無防備なまま送り出すことは私の良識が許さなかった。
そう気づいてしまえば、自身を取り巻く環境のすべてがこの理想の乙女にはふさわしくない。
見よ。この世紀末核兵器戦争後もかくやという荒れ果てた私の牙城を!!
畳からはカビの臭いが立ち上り、その畳に乱雑に積み上げられた猥褻、非猥褻書物の山々。その奥に覗いている押し入れの中には、乙女の口から表現するには余りにもおぞましき性的欲求のはけ口となる宝物殿が隠されている。腐海たる流し台からは見るもおぞましき黒いあんちくしょうが時折顔を出しており、一言で言ってこの部屋は生活感に溢れすぎている。この部屋の主である人物のだらしなさが見て取れた。
一念発起し、掃除でもしてこのちゃらんぽらんな生活感をどうにかしようとも考えたが、どこから手を付けていいのか皆目も見当がつかない。三日坊主ならぬ三分坊主であきらめて、私は窓の外を眺めながら盟友であり、悪友であり、その実、宿敵である高槻を待つことにした。
高槻。私の中学三年生時代からの友人であり、それまでトンネルを抜けるとそこはまたトンネルであり、それでも薔薇色恋愛体験という光明を求めているうちに阪急電鉄京都線のごとく光の差さない地下へと潜り込んでしまった私に対して「新しい世界を見せてあげる」と甘言を弄して近づいてきた悪辣なる男でもある。彼の言葉に従った結果、私は地下に潜ってしまったとはいえ兎にも角にも前に進んでいた成果をいつの間にか打ち捨て、逆走し、梅田地下街もかくやという人生の大迷宮に迷い込まされてしまった。
今となっては、戻ろうにも元来た道すらわからず、脱出しようにも複雑に入り組んだ現代社会のごとく絡みついてくる高槻の黒い運命の糸からは逃れられそうにもない。
深窓の令嬢を気取って窓の外を眺めながら高槻を待っていたが、古アパートの一階では深窓も何もまず絵にならぬと気付いた頃、彼は到着した。アパートの来客用駐車場に特徴的な排気音をさせている型落ちの中古車を止める音がする。そしてしばらくして高槻が部屋を嵐のように訪ねてきた。ノックもなく扉を開け「不用心ですねえ」とのたまい、靴を脱ぎ散らかして六畳間に上がり込むなりこう言う。
「やあやあ。どうしたのですか。こんな朝早くから」
「馬鹿。世間一般では今は昼前と呼ぶんだ」
「ははあ。あなた、童貞をこじらせにこじらせて、ついにはそんな見目麗しい少女になってしまいましたか」
高槻は変わり果てた私の姿を見ても驚きもしない。不思議に思って問いただしてみると、高槻はその憎たらしい、女性に言わせると整っているらしい顔を歪めながら「茨木先輩から聞いたのです」と答えた。
「面白いものを見れると聞いて、のこのこあなたの誘いに乗ったわけです。先輩はいい加減ですけれど嘘は言いませんからね。で、何か御用ですか?」
「この美の極致たる黒髪の乙女を面白おかしく見ることは許さん。――このちんこを祀るための神棚を用意したいのだ。早急に手に入れて来てくれ」
「お初にお目にかかる。私は討性黒子男神と申す。今日よりこの女の氏神となった」
「これが噂の男神様ですか。僕は高槻といって、こいつの親友です。それと初めましてじゃないですよう。サークルの新人歓迎会で一度お目にかかったことがあります」
「なんとこれは失礼した」
「気にしないでくださいよう。そのとき男神様はただのちんこだったんですよ。覚えていなくて当然です」
この空間は一体なんなのであろう。乙女とちんこと悪魔のような男が一つ所に集まってきゃあきゃあと騒いでいる。ちんこと彼との掛け合いをとりとめもなく眺めていると「じゃ行ってきますか」と高槻がホンダのカギを軽く振って立ち上がった。
「で、高槻殿はどこに行くのだ?」
「神棚を用意するんでしょう。ならホームセンターです。京都には神具店もいくつかありますがあれはいけない。値段は高いですし、近寄ると僕はアレルギーが出てしまいます」
「それはお前が邪悪だからだ」と私が指摘すると高槻はきいきいと鳴きながら反論した。
「違いますよう。店員の態度がいけないのです。彼らは地元民にしか売らないオーラを垂れ流しています。いかにも京都人らしい」
「そんなことより」と高槻は付け加える。
「どうせ童貞をこじらせたあなたのことだ。『男物の下着をつけるなんて許せない』とかなんとか言っちゃって下に何もつけていないんでしょう。そんなあなたの理想の乙女像は結構ですが、その行動はあなたの文明人としての良識を腐らせます」
「黙らっしゃい」
「いいえ黙りません。会話とは全てのコミュニケーションの基本です。それを疎かにするからあなたは童貞をこじらせて美少女にまでなっちまったんだ」
ぐうの音も出ないほどの正論を吐かれて私は黙り込んだ。確かに私は女性と話をするのは苦手である。母親と祖母以外の女性と話すことすらままならぬ。叔母や従姉妹との会話ですらカチコチになってどもってしまうのだ。況や血のつながらぬ赤の他人をや。
辛うじて茨木先輩とは普通に会話をすることができたが、それは彼女が女性の前に仙人という生き物だからである。もし先輩が仙人でなかったならば、私は彼女のことを思い夜な夜な布団で悶々とし、報われぬ思いに涙と精を流していたであろう。
「貴君。気にすることはない。ちんこであった私ですら神となることができたのだ。人間である貴君が少し努力すれば女子との会話など軽い物だろう」
そう一人懊悩とする私を見かねてちんこが慰めの言葉をかけてきた。
なんという気づかい。なんという包容力。私が今の姿でさえなければ抱かれても掘られても良かったかも知れぬ。
だが私は黒髪の乙女。理想の乙女は誰にも穢されてははならないのだ。
たとえそれが私のちんこだったとしても!!
○
「神棚を据える場所、ちゃんと確保しておいてくださいよ? それと一般的日本人の嗜みとして下着もつけておいてください」
「でないと破廉恥罪で捕まりますよ」と言い捨て、中古車の特徴的な排気音を響かせながら高槻は再び嵐のように去っていった。
先ほどまでの騒々しさが嘘のように静まり返った部屋でちんこへと私は問いかける。
「ちんこよちんこ。やはり下着は必要であろうか」
「ふむ。私と女性器は全く違う形状ゆえ参考になるかはわからぬが、いまだ私がただのちんことして貴君の股間に収まっていた頃、下着から与えられる心地よい緊張感によって身が引き締まる思いだったことは確かだ」
「そうか。ならば――」
「ところで貴君。高槻殿に一緒に連れて行ってもらう予定ではなかったのか」
「――っ!!」
どうやら私のちんこは私以上にしっかりしている。これも性の芽生えの頃より日夜修行に明け暮れた成果だというのか。
私はなぜその成果を得られていないのか。やはり勉学に打ち込み、肉体を鍛え、精神を健やかに育まんとしなかったことがいけなかったのか。勉学を放り出し、肉体を甘やかし、精神を腐らせてきた日々を呪って私は嗚咽した。
これもすべて高槻が悪い。
私を車に相乗りさせなかったのも。私に猥褻作品の奥深さを見せ語り理解させたのも。高校の頃「文学部の少女が私に気があるかもしれない」などとデマを流し私の気をそぞろにさせた結果、私の学業成績が右肩下がりになったのも。世界情勢のように私の未来も混迷としているのもすべてあの男が悪い!! 即刻謝罪を要求する!! 私はその旨のメールを悪魔のような男に送った。
だが平成十六年より強化された道路交通法により、高槻が目的地に着く前に、彼が私の送ったメールを読み、なおかつその返事が届く望みはいなりやのきつねせんべいより薄かった。
ならば私は涙を呑んで一人で行動せねばならぬ。例えこの街が凡そ五百と数十年ぶりの業火に包まれるとしても。
○
杞憂したほどの出来事は起こらなかった。せいぜいが道行く人々の好奇の視線に囲まれ、カメラを向けられ、寒空の下、青っ洟をたらした小学生のような格好の半袖短パンの外国人と記念写真を撮るように要求されただけであった。だがそれは私にとっては天が落ち、地が割れること以上に深刻な問題であった。
私は黒髪の乙女をそうそう気安く他者の目に触れさせることはしたくないのだ。だが、これまで他者とのかかわりを極力持たないようにしてきた私には彼らの不躾な行為に抗議するだけの根性はなかった。母国語でさえもこれなのに異国間コミュニケーションなど。私は適当な愛想笑いと共に「ゆあうぇるかむ」と無礼者に教養のある所を見せつけることでしか遺憾の意を示すことができなかった。
だが遺憾の意を見せつけたにもかかわらず、私との旅先での素敵ツーショットを望むものは後を絶たず、やっと彼らの魔の手から抜け出した頃には私はいつのまにやら周囲の目を気にせぬふてぶてしさを身に付けるにまで至っていた。
そうして人を育てる物は逆境であるらしいと少年漫画的ご都合主義展開に納得した結果、地下鉄の中でも、四条通でも、河原町でも気にならなかった他人からの視線とスマホのカメラだったが、今、百貨店の下着売り場に来て、いやに体に刺さる気がしてならない。
それもそのはず。ここは私にとって未開の大地なのだ。
女性用下着。
ショーツ。ブラジャー。ストッキング。ガーターベルト。その他諸々。
女性の幻想的な部分を覆い隠す最後の砦は、いつだって男たちの憧れの的であり、多くの男たちが衣服という城壁の奥に秘められた、その神秘の布きれを見たいと願う。
その魔力に憑りつかれた男たちは、いつしか本丸たる女体そっちのけで下着を求めるようになり、果ては下着との合体を求めるにまで至るという。
僥倖にも、性欲魔人であった私がその魅力に溺れることがなかったのは、なんでも買えるというオンライン取引を信じることができなかったからであり、盗んだり購入したりする根性がなかったからでもあった。だがしかし今ここに至ってはその幸運も幸運にはならない。女性用下着を持っておらずオンライン取引も信用できない私は、私の下着を自力で手に入れなければならないのであった。
未知なる領域への不安感から足を踏み出せない私に、ちんこが「心配するな」と腕の中から元気づける。
「毛利の三本の矢の逸話もある。あいにく一人と一柱で数は足りぬが、少なくとも貴君は一人ではない。気負うことはないぞ」
「なるほど、さすがは私のちんこ。ありがとう。気が少し楽になった」
そうちんこへ感謝の言葉を述べ、小さい一歩だが私たちにとっては偉大な一歩を踏み出そうとした時、
「あの……お客様……そのような物のお持ち込みは……」
おずおずと女性店員が私に注意をしてきた。
ちんこを持ち込むな、というわけか。だがこのちんこはただのちんこではないのだ。
「私は物ではない。神だ。討性黒子男神と申す者。この女の氏神である」
呆気にとられた様子で私の腕の中、ぴょこぴょこ動くちんこを見つめる女性店員。彼女は今まで喋るちんこを見たことがなかったのだろうか? かく言う私も今朝までなかった。
そんな店員にちんこはあくまで紳士的に語りかける。
「接客業には『お客様は神様である』という言葉があると聞く。ならば逆説的に『神も客である』ということも成り立つのではないか?」
「……そのお客様のお姿が……」
「卑猥である、というわけか。なるほど。これはドレスコードを守らなかった私の落ち度であるな。……ふむ、すまないが適当な召し物を見繕ってくれ」
「少しお待ちください……」
「上役に判断を仰ぐ、というわけか? ならば私もついていこう。私がいた方が説明もしやすいだろう」
そう言ってちんこは私の腕からぴょんと飛び降り、「すまない」と私に頭を下げてくる。
「大見得を切っておいて悪いが、一人でなんとかしておいてくれ。私のことは……後で従業員にでも聞いてくれ。私は特徴的だからすぐに居場所もわかるだろう」
>店員の態度がいけないのです。
>彼らは地元民にしか売らないオーラを垂れ流しています。
>いかにも京都人らしい
この話はフィクションです。
4/22 市バス→地下鉄 に変更。