一月 02
バー『秘密基地』は小さなレンガ造りのビルの前にぽつんと看板を出していた。先ほど私は上から下までこのビルのテナント、一階の喫茶店、二階の焼き肉店、三階の探偵事務所、すべてをチェックしたつもりだった。すべてチェックしておきながら、なぜこの存在しない店の看板を疑問に思わなかったのか。自分の阿呆っぷりに呆れながらも、上牧達磨の忠告通り自分の瞼に唾を塗る。
唾を塗った瞼を再び開くと、そこには地下に続く階段が現れていた。その階段の奥にある磨りガラスの扉には確かに『秘密基地』との文字が書かれている。
いかにも年代物の扉を開くと、静かながらもどこか楽しそうな空気が私の頬を撫でた。そして私は店内の不思議な間取りに目を見張る。『ウナギの寝床』とよく評される京都の店構えだが、この店の間取りはウナギどころか大怪獣マンダの寝床にすらできそうなほどに奥まで続いている。ちなみにマンダとは龍のような姿をしたムウ帝国の巨大な守護神である、と天下の円谷プロが記していた。かっこいい!!
バーの入口で立ち止まったまま、どこまでも続くトンネルのような店内を見通そうと私が目を凝らしていると、カウンターの向こうから清潔なワイシャツに身を包んだバーテンダーが「申し訳ありませんが、今日は貸し切りなのです」と声をかけてきた。
「お引き取りください」
「こちらに桂様がいらっしゃるとか」
「あなたは何者ですか?」
恐る恐る尋ねる私に彼はそう答えた。「そもそもあなた人間ですよね。ここはただの人間の来るところではないですよ。食べられてしまいます。もちろんいろんな意味で」
私は人間であるが乙女であり、仙人であり、ちんこの巫女だ。そう主張しようとした時、「そいつは儂の知り合いだ」という大声が店の奥から響いた。驚いてバーテンダーと共にそちらのほうを見やれば、ジョッキを片手にアロハ姿の天狗――嵐山が怒ったような顔をして、こちらを睨んでいる。
「だから通してやれ」
「ですが――」
「こいつは討性の巫女だ。ただの人間じゃあないし、こいつが食われても問題はないだろう。どうせただの阿呆だからな。おいお前、こっちに来い」
と言って有無を言わさぬ調子で、彼の隣の丸椅子を叩く。
「……よく私なんかのことを覚えていらっしゃいましたね」
十月、彼は茨木先輩に桂川に叩き落された。実行犯は彼女とはいえ、私もその顛末に関わっていたのだ。八つ当たりに巻き込まれるのは遠慮したい。彼の機嫌を損ねないように慎重に言葉を選びながら指定された椅子に私が座ると、嵐山天狗はその顔を獰猛に歪めて笑った。
「貴様には以前の礼をせねばと思っておったからな」
「ちょっと待ってください。私はルールにのっとってあなたと勝負をしたし、あなたを桂川に叩き落したのは茨木先輩だし、下駄に接着剤を塗り付けたのは私の後輩だし……。お礼参りをされるような筋合いはない」
「……どうしてお前はいけしゃあしゃあとそんなことを言えるのか。茨木もあの娘もお前の仲間であろう。……これだから人間は妖怪よりも神よりも始末に負えん」
「私がまるで下衆であるかのような物言いはやめていただきたい」
「自分で言っていて気づかんのか。度し難いな、お前は」
そう言い捨てると、嵐山は残っていたビールを一息にあおった。そして忌々し気な様子を隠そうともせずに再び口を開く。
「仙薬だ」
「は――?」
「茨木が持ってきおった。あれはお前が作ったものであろう」
「おお、そういえば」
「まあ、儂ならあんな薬などなくとも、天狗熱などどうとでもなったがな」
「そんな意地で京都の町をくしゃみで吹き飛ばされてはたまりません。それにお気になさるほどのことでもありませんよ。あれは烏丸さんに渡すついでだったので」
「ふん、若い者は目上の物に対する躾がなっとらん。まずは愛宕山の大天狗である儂に薬を献上すべきであろう」
「薬がなくとも構わないと、自分で言っておいて。なんて言いぐさだ」
「この若造め、うるさいわい」
「この老害め、うるさいわい」
私の悪罵に眉間のしわをますます深めた嵐山は、無造作にアロハシャツの懐に手を突っ込んだ。強力な神通力を発揮する天狗の羽扇で、私を怒りに任せて吹き飛ばすつもりか、と身構える私に、天狗は少し溜飲を下げたような顔をして「そう恐れるでない、小心者め」と言った。
「礼をすると言ったであろう」
「言葉のあやか、何か天狗流の言い回しかと思っていました。なんというか、こう『それはそれとして、やっぱりてめえは許さねえ』という感じの」
「やはり茨木の弟子だな。阿呆だ」
彼はぴかぴかと光る三つの小判の束を懐から取り出して、私の前に重ねた。「受け取れ、仙薬の礼だ」と続ける。
「いえ結構です」
「受け取れ。儂らのような存在にとって契約や貸し借りと言うものは、非常に重要なものだ。これをないがしろにすると、ある日突然『自分』が自分でなくなる。空から落ちる、岩の中に閉じ込められる、名前や姿を変えられる、挙句の果てには、いつしか忘れ去られて塵すら残らん。死とは縁遠い儂らの恐れるものだ。だから――受け取れ。これは幽世のルールなのだ」
「……もし私に礼をしていただけるというのなら、ちんこを助けていただきたい」
「どうした? 討性に何かあったのか」
「どうやら私の病を治すために神通力を使いすぎたせいで、ただのちんこに戻ってしまったらしいのです。ちんこはもう動きません、喋りません」
「――ふん。器物も百年経てば付喪神となる。いずれただのちんこである奴も――腐りも干からびもしなければ――また神となるであろう。何十年、何百年かかるかわからんがな」
嵐山天狗はバーテンダーにビールをもう一杯要求して、そう言った。少し口を付けた後、私をちらりと見て「何か飲むか」と少し柔らかい声音で訊いてくる。自分でも聞き取れるかどうかというほどに小さく「いりません」と答えた私に、天狗は「そうか」とだけ言うと、残りのビールを一気に喉に流し込んだ。
「お前は討性をすぐにでも戻したいのか? 巫女としての義務か? それとも男に戻るための修業を続けるためか? はたまた――」
そう嵐山が訊ねてくるが、私に答えられるわけがない。乙女の心は複雑怪奇なのだ。乙女心がわからず乙女との接触交際機会を逃し続け、童貞をこじらせた私に、乙女となった自分の心を理解、説明するなど到底不可能だ。黙り込む私から目線を切ると、嵐山はジョッキを置いてカウンターから立ち上がった。
「どうしても討性をなんとかしたいと言うのならば、桂を紹介してやる。神のことは神に聞くのが一番であろう、これで貸し借りは無しだ」
「……紹介、だけですか。遠慮はいりませんよ? 今夜、私に桂様を紹介して、次に先ほどの小判を――」
「いいからついてこい。……お前との付き合い方のコツは話を聞かないことだな」
「茨木先輩があなたを嫌っている理由は人の話を聞かないところだそうです」
「まったくどいつもこいつも度し難い!!」
嵐山天狗は、ぷりぷりと怒りながら店の奥へ奥へと進んでいく。私も彼の後に続いた。後ろに引っ付きながら気にかかったことを訊ねる。
天狗とは妖怪である。しかし山岳信仰における神でもある。ならば神のことにも精通しているのでは? と。
そう私が天狗に問いかけると、彼は相変わらず怒ったような顔をしながら、
「天狗とは魔道を極める者だ。神にも負けぬ力を持っているというだけで、妖怪でも神でも、ましてや人間でもない」
「よくわかりません」
「儂らが神か、妖怪か、などはお前たち人間の決めることだ。儂も以前は神だった、だが今は妖怪でもある。多くの人間が天狗は神である、という事を忘れてしまったからな。もはや純粋な神のことなどわからん」
と言った。
「それは先ほどの契約やなんやかや、にも通じる話ですね。大丈夫です。私は嵐山様のことを――えーと……とにかくすごい天狗だと思っていますよ」
「儂がすごいのは当然だ。……が、もちっとお前は言葉を選べんのか。『えーと』だのは余計だ」
「とにかくすごい天狗だと思っていますよ」
「うむ」
「本当ですよ」
「うむ」
少し下駄の音が軽くなったような気がした。
奥に進むにつれて、暖房の熱も、飲んでいる妖怪変化やよくわからない存在などの静かな酒席の熱も薄れていく。天狗の下駄の音以外の物音がなくなり、辺りの気温が冬の夜の京都と同じくらいにまで下がった頃、黒子のような――色は白だが――何やら文字の書きつけてある布を顔の前に垂らした、覆面の平安貴族が一人酒を飲んでいる場面に出くわした。
桂だ。
どのように用件を切り出したものかと思案する私に、天狗は軽く身をかがめて耳打ちをしてくる。
「かの神と対話をするには審神者が必要だ。お前は黙っていろ。儂がうまく取り計らってやろう」
「神であるちんこは誰とでも会話をしていましたが」
「……桂は新しいものに疎いのだ。携帯電話どころか、現代語すら使えん。いまだに神代の言葉で話すのはあいつくらいだ。それを儂がお前のような阿呆にでもわかるよう審神者として翻訳してやろうというのだ」
「なるほど。これは嵐山様からの素晴らしい報酬です。ですが、桂様がタクシーに乗るときどのようにしているのか新しく興味も沸いてしまいました」
「――?」
「――」
「『ズーチーでパツイチよ』と言っておる」
「割とナウいんじゃないですか? このお方」
天狗の原型の一つである猿田彦は『天孫降臨』において、天津神と国津神の橋渡しをした神様です。なのでこのお話でもメッセンジャーになってもらいます。
と蘊蓄を披露して自分は馬鹿じゃないぞ、と背伸びをする小人のかえりみちさん。
ちっちぇえな。
そんなちっちゃい私ですが、最終話もかき終わったのでTwitterを始めてみました。
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