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一月 01

 一月。

 年末からずっと私は高熱を出していた。鍋焼きうどんを食べ、生姜湯を飲み、バファリンを飲む、それでも熱は引かない。

 やはり半分のやさしさでは足りないのだ。もっとこの私に全力の愛を!! そんなことを考えるくらい私は熱にやられていた。

 おそらくこれは鳥インフルエンザが、鳥から豚を介して人間に感染するように、天狗熱ウイルスが、カラス天狗でありカラス仙人でもある烏丸からすまを介して、仙人である私に感染したのだろう。神通力に満ちちた天狗さえもダウンさせる天狗熱。一介の華奢な乙女である私がひとたびそれに感染すればどうなるか。

 立ち上がろうとすれば眩暈で倒れこみ、布団に倒れこもうとすれば目測を誤って机に頭をぶつけた。体を動かそうとしても節々の痛みで身動きするのも辛い。意識は朦朧もうろうとし、自分が何をしているのかさえ分からない。トイレに行こうと立ち上がったはいいが、気づいた時には下半身丸出しで座り込んで、便器を抱えていたこともあった。

 いっそ死にたい、とまで思った。

 そんな私が死なずにすんでいたのはちんこのおかげである。身動きできない私に水分を摂らせ、汗を拭き、新しい襦袢に着せ替え、すりリンゴを食べさせた。バファリンで足りぬ愛はちんこによって補われていた。

 ある夜、私は寝床の中でゲロを吐いた。思いがけなくそろりと口から噴出したそれは快感を伴うもので、私は酸っぱい匂いに埋もれながらも恍惚としていた。

 そして、ああ死ぬのかな、と思った。


 私は夢を見た。

 なぜ夢だと理解できるのかわからない。夢とはそういうものだ。

 ありえない出来事だから夢だとわかった、とかそういうことではない。


 下宿先へと向かう三条会商店街のアーケードを歩く夢の中の私は男だ。喫茶店の薄暗い窓に映る私の姿を見るに、勉学に打ち込み、肉体を鍛え、精神を健やかに育んでいるようだ。端的に言って爽やかでいい男だ。隣には美しい乙女が歩いており、私と手をつないで、アパートを目指して歩いている。お互い口を開くことはないが、手だけではなく心までつながっていることが感じられる心地よい沈黙である。これから私たちはいよいよ桃色遊戯を私の部屋で執り行うのだ!!

 ――待て。桃色遊戯に必要なものは何か?

 愛情。彼女とはこの一年間、清い交際を続けてきた。塵も積もれば山となると言うが、積もり積もった愛情は今や成層圏を突破するほどにはある。

 雰囲気。鴨川土手で他愛のない世間話をし、三条河原町の喫茶店で最近読んだ恋愛小説の感想を語り合った二人の間には、初めての行為への期待が爽やかに渦巻いている。

 ちんこ。桃色遊戯のメインイベントとして、彼女の凹に私の凸をテトリスのように組み合わせるのに必要である。

 さりげなく彼女とつないでいない方の手をズボンの股座に当てて確認すると、二十一年間連れ添ってきたちんこがちゃんとそこにある。ちんこは動くことも話すこともなく私の股間に収まっていた。

 ならば。理性も性欲もゴーサインを出している。我を阻むものなし。私は意気込んだ。

 意気込みすぎて――そこで目が覚めた。

 

 冬の月の光だけが差し込む私の部屋は薄暗かったが、壁にかけてある時計の文字盤もしっかりと読める。体を起こしてもふらつくようなこともない。久方ぶりに食欲も戻ってきていた。私の天狗熱は癒えたのだ。

 そして――。


       ○


 目覚めると高校時代から愛用している机の上にちんこが横たわっていた。こちらに裏筋を向けているため印象は異なるが、カリ首の少し下にチャームポイントとでもいうべき小さな黒子ほくろがあるそれは、およそ二十一年間苦楽を共にしてきた私のちんこであった。

 一方、私の部屋の北側に置かれている姿見には黒髪の美少女が写っている。

 それはまさに私が夢にまで見ていた理想の乙女であった。

 黒く濡れたような長い髪を腰まで垂らし、スラリとした肉体を汗で湿った襦袢の下に隠している。

 ――これは何が起きたのか。喋るちんことの日常を送りすぎたせいで私の脳が新たな刺激を求め、ありもせぬ幻覚を見せているのか。

 そのとりとめもない休むに似たりの考えは、ちんこの言葉によって中断されることはなかった。


「ちんこよちんこ。どうして黙ったまま、動かないままなのか」


 ちんこは何も言わない。その体を動かすこともない。討性黒子男神キサノクロコマラオは――ただのちんこに戻ってしまっていた。


       ○


 私は布団を蹴立てて立ち上がった。汗を吸った襦袢を着替えるのも煩わしく、白衣びゃくえと緋袴を素早く身に付け、外へと飛び出す。

 下宿の二階に駆け上って、茨木先輩の部屋の呼び鈴を鳴らす。が誰も出ない。

「くそっ」と私は乙女にあるまじき言葉を発した。

 先輩がいない。年始の休暇を利用して実家に帰っているか、大学の研究室でひっそりと実験しているか、教授と鍋をつついているか。おそらくそのどれかだとは思うがここにはいない。電話で呼び出してみても「電源が入っていない」という案内音声が流れるだけだ。ここ数か月きちんとしているかと思えばこれだ。先輩の一分の隙もない隙だらけっぷりに感服しながら、私は古アパートの階段を駆け下り、次善の策を練った。

 ――祇園ぎおん、木屋町、先斗ぽんと町。

 以前ちんこに連れられて何度か参加した、妖怪や神、彼岸の存在がうごうごする酒の席を思い出す。ちんこと仲の良かった彼らならなんとかしてくれるかもしれない。


 正月休みで静かな商店街のアーケードを横断し、地下鉄に飛び乗り、四条へ。地下鉄の運転手の後ろで「早く速く」とせかしながら、私はふと致命的なことを思い出した。私は彼らが集まっている店を知らない。それどころか今日彼らが集まっているのかもわからない。

 孫子曰く、拙速は巧緻に勝る。そんなものは嘘っぱちだ。後先考えずに飛び出した結果がこれだ。やはり巧緻は素晴らしいのだ。しかし巧緻のための下準備に奔走した結果、すべてがおじゃんになった記憶もある。ダメな完璧主義者とは私のことだ。

 ならば活路はやはり拙速にあるのだろうか。しかし情報がない。ならば情報収集をするべきだ。だが、これまで他者とのかかわりを極力持たないようにしてきた私に、そのようなことはできるのか。

 ――できる。できるのだ。

 ちんことの買い物。ちんことの散歩。ちんことの酒席。ちんことの語り合い――私の脳裏をこの一年の出来事が走馬灯のように駆け巡った。

 問題に挑むにあたっては石橋ノック、人と相対するにあたっては理論武装。屁理屈と曖昧笑顔という鉄面皮で身を固め、身の守りも抜かりない。そして武装の超過装備によって一歩も動けず踏み出せない。そんな私だが、ちんこのためならば無防備丸腰丸裸になることも厭わない。ちんこのためならば一歩と言わず、何歩でも踏み出せる。踏み出せるのだ。


 四条大橋を渡り、彼岸の酒盛りを探して木屋町に駆け込む。まずはちんこに連れて行ってもらった小さなビルを訪ねた。店員に猫やダルマ、天狗や神の酒盛りについて質問したが「何を言っているんですか」というような顔をされたし言葉を返された。


「ちんこ――討性黒子男神キサノクロコマラオ――に案内されたんです。覚えていませんか?」

「阿呆か」


 店の奥から店長らしき人物が出てきて、私の悲痛な訴えを一刀両断にした。まことに鋭利で的確な批評である。しかし理解はしても納得することはできなかった。

 私は阿呆であると同時に乙女であり、乙女であると同時にちんこに仕える巫女である。ここで立ち止まって、ちんこを物言わぬちんこに変えるわけにはいかない。

 ビルを飛び出した私は、新年会シーズンの繁華街をちんこを救う手がかりを求めて走り回った。ゲロを高瀬川に流す酔漢の横をすり抜け、裸になってズボンを振り回す大学生を押しのけ、店に息せき切って突っ込んでは店員の失笑を買い、宴席に乱入しては客の不興を買った。祇園のお座敷に飛び込んでは独特の遠回しな嫌味を受け、一見さんお断りシステムに呪詛の声を上げた。

 三条五条間を何度も何度も往復し 疲れ果てた私は湯気を立ち昇らせながら、高瀬川畔の石のベンチに座り込んだ。私の横では大学生のグループが一列に並んで「捧げえ、つつ!!」の号令と共に、淀川水系の住民たちに一方的飲尿プレイを秘密裏に執り行っている。ちんこの品位を貶しめる行為だ。彼らを高瀬川にドミノ倒しのように突き落とすことができればどんなに気持ちいいだろう、と考えていると、私の背後から「おや」との声がかかった。


 振り向けば、達磨だるまを抱えた老婦人がこちらを悪戯っぽく見ている。聞き覚えのある声、どこかで会ったような雰囲気に私が首をひねっていると、老婦人の抱えていた達磨が口を開いた。


討性キサノさんの巫女だろう?」

「ああ、上牧かんまきさん」


 私が以前の記憶をほじくり返しながら答えると、上牧達磨は嬉しそうに老婦人の腕から飛び降りると、私の前に転がってきた。


「よく覚えていてくれたね」

「喋る達磨など知り合いに一人しかいませんので。ところでそちらのお連れの方は?」


 と私が訊ねると老婦人はニヤニヤと笑いながら私の顔を覗き込むようにしてきた。そして酒臭く生臭い口を開いて「アチシだよ」と言う。


「もしかすると淡路さん」

「正解。さすがに元の姿じゃ大きすぎて京阪電車には乗れにゃいからね。化けてるのさ。ところで今日は一人かい? 討性キサノちゃんも過保護にゃ方針を改めたのかねえ」

「いえ、その――」


 ちんこは私の六畳間で冷たく動かない。私は彼らにそのことを伝えた。そしてちんこを元に戻すために力を貸してほしい、ということも。彼らは私の言葉を聞くと、私の方へずいと一歩近づいた。先ほどまでの気のいい酔っ払い、といった彼らの雰囲気はいつの間にか消え去っている。


討性キサノさんはいい友人だから助けてあげたいけど――」

「タダ、というのもねえ――」


 そう言うと二体の妖怪は「ここしばらく人なんか喰ってなかったから……恋しいねえ。味見でもしたいもんだねえ」と声を揃えて、達磨は私の足袋に、化け猫は私の鼻に生臭い息を吐きかけてくる。

 やはり妖怪は妖怪なのか。この乙女の体を物理的にむさぼりたいのか。この美術品のような乙女の肉体を傷つけるなど言語道断!!

 言語道断であるので私はそれ以上を言語にすることを放棄した。

 決意を固めて妖怪たちを睨み返す。達磨の息の当たるつま先のくすぐったさに耐え、苦手なアルコールの匂いをまき散らす化け猫の息に耐えながら、左手――利き手はいろいろと不便なので勘弁してもらおう――を差し出す決意を固める。指の二、三本。おまけにおまけして腕一本まで。その程度ならば、ちんこを救うために支払ってもいいだろう。


 そう決意を固めた矢先、妖怪たちは私の体からすいと離れた。彼らの意図が分からずあっけにとられる私を微笑ましそうに見ながら淡路猫は


「でもアチシたちは妖怪だからねえ。神様のことは専門外」


 そうのんびりとした調子で言うと「くあぁ」と体全体であくびをした。そして達磨を拾って腕に抱える淡路猫老婦人。彼女の腕の中で上牧達磨が「だから神様のことは神様に聞くといい」と続けた。


「ですが私には神頼みをする相手がいません。私の仕える氏神だったちんこはちんこに戻っているのです」

「桂ちゃんがいるじゃにゃいか」

「しかし私はあの方がどこにいるのか知りま――」

「この先の『秘密基地』ってバーにいるよ。そこを借り切って新年会を開いている。小さな看板だから見落とさないようにね」

「アチシたちは京阪電車の時間もあるから早めに抜け出したけどね。桂ちゃんはタクシーでいつも通っているからまだ残っていると思うよ」

「ありがとうございます」

「にゃんのにゃんの」


 再び駆け出した私の背中に上牧達磨の声がかかった。


「入るときにまぶたに唾を塗ることを忘れちゃいけないよ。でなきゃ招待されていない君の前には入口は現れないからね」


 迂闊。ちんこの教えを忘れていた。

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