十一月
腹というものはとかく大事である。
立てれば気分がむかむかともしようし、黒ければよからぬ噂を立てられる。
割って話せば親交を深めることもできるであろうが、痛くもない腹を探られるのは気分が悪い。
痛くもない腹でこれなのだから、十一月は冬間近の木の葉の色を染める寒風に冷やされて、なおじくじくと私を責めさいなむ腹ならば。
私はそうした不機嫌万来の顔を隠そうともせずに大学生協へと続く道をまっすぐに歩いていた。何人かが驚いたような顔をし、道を開ける。そして何やら後ろでこそこそと話す声がするが気にしない。
そんな私を出雲から帰ってきたばかりのちんこが彼を抱えた腕の中からなだめる。私はそんなちんこの声に曖昧に返した。
私は乙女である。気高い乙女である。乙女は何物にも迎合しない。
東にいまだに『モロッコ』と私を呼ぶ者があれば徹底的に栄光ある孤立を貫き
西に私をこっそりと盗み見る者があればやはり徹底的に栄光ある孤立を貫き
南に私とちんことの噂をするものがあればさらに徹底的に栄光ある孤立を貫き
北に私の写真が地下競売にかけられているという噂を聞いても栄光ある孤立を貫いた。
そうして、誇り高い乙女が生協で買い物をしようと入り口に立ったところ、
「大宮――さん? だったよね。よかったらこの後一緒に食事しないか?」
との声をかけられた。
その男には見覚えがあった。いつも大学で多くの人物に囲まれて、何らかの活動の中心となっており、どんな相手にも分け隔てなく接し、美人の恋人を持ち。高い学業成績を維持しているが鼻持ちならないところが一つもない、鼻持ちならない男であった。
なぜ私に声をかけたのかと問いかけると、彼はまったく嫌みのない顔でくすりとして「君のことが気になっていたんだ」と言った。
「ずっと真面目に女性らしくあろうとしている君に惹かれたんだ。他の人たちの視線にも動じない気丈なとことかね」
「何を言っているんだ」
「いわゆる愛の告白ってやつかな」
「私は男だ」
「知ってるよ。大学中の噂だよね。一番の美人が男、だってさ」
「なら――」
「でもそんなことは関係ないだろう。最近はみんな君が女性だって認めているよ」
私は混乱した。他人からの愛の告白を受けたことなど私の人生において皆無だったからだ。しかもその初の相手が男だとは!!
混乱して混乱して。混乱しながらも、あなたの人生は素晴らしい。勉学、スポーツ、桃色体験! 多種多様な素敵なことが入り乱れていらっしゃる。だからと言って私という乙女をその素敵乱舞に放り込むことはやめていただきたい。なぜ私がこんなことを言うのか。特に意味はない。意味はないのだけれどもとにかくやめていただきたい。
というようなことをもごもごと言った。
「女性になろうとしている今の君だったらチャンスもあるかな、と思ったんだけど」
「ないな。悪いな」
「いや、こればっかりは個人の問題だからね。謝る必要はないよ。でも……僕の友人たちに君を紹介してもいいかな? 以前『モロッコ』って呼んでたことを謝りたいんだってさ。ずっと言う機会をうかがってたらしいんだけど……君に近づきにくかったんだって」
ヘタレだよねえ、とさわやかに笑う。
そしてその笑顔を崩さないまま、またね、と軽く手を振って去って行ってしまった。
その姿を見送った後、ちんこがからかうように口を開いた。
「貴君は乙女として精進してきたのだろう。この際、付き合ってみては? 恋をする乙女は美しくなるとの言葉もある」
「だからと言って、必ずしも男と付き合うことで乙女の位階を上げることができるというものではないだろう。いい男と付き合うのならば話は違うのだろうが」
「客観的に見て彼はいい男なのでは?」
「いや――」
頭がいいとかお金があるだとか顔がいいとかで男の価値が決まるわけではない。そのように、劣悪な成績と薄っぺらい財布としょうもない顔を持ち合わせていた私は日々自分に言い聞かせていた。
では男の価値というものは何を基準に判断すればいいのであろう。答えは簡単である。私が適当に決めればいいのだ。
「というわけで元の私のようないい男が私に告白をするのならば、その案件について悩むこともあるだろう。受けることもあるだろう」
「そのような男がいたとして、どのような思想動機行動結果をとるのか身を持って体験しているではないか。結局何もしないのだ。貴君は反省をしないのか。己を顧みないのか」
「そんな恐ろしいこと!! 過去の己を肯定しろと言われれば、肯定するだけの言葉を並べるのも吝かではないが、そのためだけに幾百幾千もの言葉を並べるなんて!! しかもその全てが無意味かつ空虚だ。そしてそれを自分で理解しているだけ質が悪い」
「成長したのかしてないのか。客観的に自身を見ることができるだけマシというものか」
「うるさいな」
少しぶっきらぼうにちんこに答えてしまった。冷たい風に晒され下腹がじくじく痛む。
ちんこに「ここで待っていてくれ」と残し、生協に入り、目当ての物を購入する。梱包されるのを待つのもまどろっこしく、商品をひっつかんでトイレに入ろうとし――足元にいたちんこに驚いて、たたらを踏んでしまった。幸い私はずっこけることはなかったが、購入した物が落ちてしまった。ちんこの目の前に。
「貴君、どこか具合でも……これは――」
ちんこが私の購入した物――生理用品を見て声を上げる。そして素早くそれを拾い上げ、私の腕の中に這い上がってきた。そして私に顔を近づけてぼそぼそと小声で語りかける。その声は心配そうだ。
「貴君、月の物が来たのか? 一人で対処できるか?」
「別に初めてじゃあない。もう九度目だ。慣れたものだよ。そううろたえるな」
だが心配するちんこの声に、私はやはりぶすっとした顔を隠そうともせずに答える。自分でもみっともないとは思う。だが秘密のままにしておきたかった。
「まったく気が付かなかった」
「私のモノは軽かったからだろう。今までは動くのにも問題はなかったが、十一月の急な冷え込みで腹に響いた」
そのせいで注意力がおろそかになり用意すべきものを用意しなかったとは阿呆どころか馬鹿の所業だ。今までこっそりと処理していた努力が台無しである。
「ちんこにだけは気づかれたくなかったんだがな。不浄、というくらいだから神に接するには適切じゃあないだろうし」
「そのようなことを気にしなくてもよいのに」
「私が気にするのだ」
私は黒髪の乙女という理想像を目指しながらも、いまだ男の姿を取り戻すことはあきらめていなかった。
桃色遊戯を達成するためだけではない、二十年以上積み上げた、みっともないとはいえ、男である私のアイデンティティの問題でもある。私は捨てるに捨てられぬ性分の結果、散らかり放題の部屋を作り上げる天才でもあった。そんな私が今まで積み上げてきた日々をほいほい捨てるのはどうにもやるせない。
捨てるに捨てられない理由。それは私とちんこ双方の心中に自分は『男』という確固たる共有概念があったからだ。だがちんこに私が完全な女性である証を気づかれてしまった。私は姿形だけではなく生物学的にも女性となっている。子供を作れるのだ。――自分の胎の中で。
ちんこが私を子供を作れる女性と認識した今。
周囲が私を『モロッコ』ではなく女性として扱い始めた今。
「それでも私は男である」と認識しているのは私一人だ。
これは栄光ある孤立なのだろうか。答えは出ない。
次回から最終章。




