十月 02
勝負法はいたって単純。神通力や仙術を使わずに渡月橋を走り、早く中ノ島公園側に到着した方の勝ち、である。
渡月橋。一級河川桂川にかかる長さ百五十メートルあまりの鉄筋コンクリート製の橋であり、嵐山を代表する建築物でもある。他の代表的な建築物として天龍寺が挙げられるが、生い茂る竹林に飲み込まれてしまった。げに恐ろしきは竹の成長速度である。
さて。
そんな渡月橋で先輩の大学卒業をかけたレースが始まろうとしていた。どうして先輩の問題に私が巻き込まれているのか理解しがたいが、これも何かの縁であると割り切る。どうせなんだかんだと喚いても結局のところは先輩のたくらみに巻き込まれてしまうのだ。素晴らしきキャンパスライフを送るという高い志を持って大学に入学してきた私に、人生迷宮案内を施し、あっという間に堕落させた先輩の手腕はいまだ衰えるところを知らない。
渡月橋北詰で、観光客の奇異の視線を受けながらも巫女装束で入念な準備体操をしていると、私からの連絡を受けて駆け付けた変態娘水無瀬嬢が「どうしてブルマ姿でないのですか」と不平を漏らしてきた。
「せっかくスポーツの秋だというのに。いつも通りのそのお姿では走りづらいでしょう。ぜひお着替えを」
と言って紙袋に入った何かをこれ見よがしに振ってアピールをする。
「私は自他共に認める美しき黒髪の乙女だ。そんな黒髪の乙女が紺色ブルマを履いていたらどうなるか。治安の悪化、人心の荒廃が叫ばれる昨今――」
「各色取り揃えております。紺色がお嫌いでしたらえんじ色でも。私は心が広いので何色でも受け入れますよ」
「……心が広いのならば巫女装束を受け入れてくれ」
「馬鹿なことを言っていないで準備はよいか」
と、アロハ天狗、嵐山が下駄を鳴らしながら私たちの傍にやってきた。馬鹿と呼ばれた私たちはその言葉に憤慨を覚えながらも頷く。
「確認するぞ? もしこの勝負にて儂が勝ったならば茨木はすぐにでも愛宕山に連れていき、天狗修行を施す」
「私たちが勝ったならば」との質問に嵐山は
「潔く手を引いてやるわい。まあお前のような小娘ごとき、束になってかかってきても負ける気はせんがな」
と勝ち誇った笑い声と共に答える。得るところの全くない勝負に私は首をかしげるが、仕方がない。私は暴虐にあらがえるほどの力を持っていない。
そして私たちは水無瀬嬢によって指定された場所に立った。
私が車道側、天狗が川に面した側である。私たちがきっちりと指定された場所に立っているか、跪いて丁寧に調べている。私も天狗も足の位置を微調整された。ふと私と水無瀬嬢の目が合う。彼女は軽く頷く。私も彼女に頷いて返す。
「位置について」と水無瀬嬢が声を上げた。タイミングを計り「よーいどん」と続ける。
そして私は横に滑り込んできた車に飛び乗った。
「いいタイミングだったな」
「まったくあなたの頭の中には正々堂々という言葉が存在しないのですか」
と車を再発進させながら高槻がぼやく。ちらりと横を見ると嵐山が地面とキスをしているのが見えた。
「私はルールにのっとって戦いを挑んだんだ。神通力も仙術も使っていないし」
「代わりに接着剤を使ってますけどね」
「使ったのは私ではない」
私は水無瀬さんに接着剤を渡し、高槻が以前私に対して行った、草履を地面に貼り付けるという許しがたい悪行の思い出を語っただけである。
「うへえ」とバックミラーを見やった高槻が驚いた顔をした。「あのお方もの凄いガッツですねえ」
その言葉につられて後ろを見ると天狗が鬼気迫る形相で裸足になって走っているのが見えた。ただでさえ赤い顔を真っ赤にしている。私はもっとスピードを上げるように高槻に言ったが「バスが邪魔ですから」と取り合わない。
そうこうしているうちに追い抜かれてしまった。慌てる私に
「まあまあ。これは茨木先輩と嵐山とかいう天狗様との勝負なのです」
とのんびりと高槻は言う。何を、と訝る私の横目をすり抜けて、無人の原動機付自転車がもの凄いスピードで天狗に突っ込んでいった。天狗は吹っ飛び、勢いを保ったままの原動機付自転車と共に桂川に落ちていく。そしてあっけにとられる私たちと通行人を尻目に悠々と事故現場に歩いて行く人影。それは茨木先輩であった。
「だから茨木先輩がご自分で決着をつけるのです」
「これはひどい」
とりあえず高槻に車を止めてもらい、先輩の隣に立って天狗の落ちた先を確認すると、水面からこちらを見上げるアロハ天狗がいた。ずぶ濡れで針金のような髪もべたりと頭に張り付いており、雨に濡れた犬のようである。
「貴様!! 何をする!!」
「獅子は愛する我が子を千尋の谷に突き落とすと言います」
と木製の欄干の上に仁王立ちになり、落ちた天狗を見下ろす茨木先輩。その顔は今まで見せた先輩の表情の中でも、もっとも晴れやかだ。
「特にあなたを愛してはいませんが、そのようなものだとお考えになっていただきたい!!」
そう叫び欄干から飛び降りる先輩。いつものいい加減な美女の面影などどこにもない。彼女はおそらく冷たくなっているであろう秋の桂川に躊躇することなく飛び込んだ。
そうして川の中で取っ組み合いのけんかを始める二人。水面から頭を出したり足を出したり鼻に指を突っ込みあったり。私がそのみっともないシンクロナイズドスイミングを観戦していると、後ろから追いかけてきた水無瀬嬢が「今のうちです」と手を引く。彼女に手を曳かれるまま南詰は中ノ島公園に着き、桂川の水面を振り返ると、水面の上に立って睨みあう天狗と仙人がいた。ほとんど半裸と言っていいくらいのお互いひどい格好である。何やらわめいているようだがこちらまで声は届かない。
そうこうしているうちに先輩が突然天狗の頭を捕まえて、自分の方へと引き寄せた。噛みついたのかとも思ったが、それにしては不意の珍事に戸惑っているかのように天狗が無抵抗である。しばらくそうしていた後、やはり不意に先輩が天狗から離れ、いくらか残った服の袖で先輩が口を拭ったのが見えた。一方天狗は呆然としている。
ふと呆然としていた嵐山天狗が岸でわいわいと言っている私たちの方を見た。ずぶ濡れだというのに彼の針金のような髪が燃え上がりそうな程にざわめくのを私は確かに見た。
そして天狗はズボンの尻から羽扇を出し一閃する。その一閃は目を開けていられないほどの豪風と共に、やっとほんの少しだけ色づいてきた楓の葉を散らし、秋の嵐山の観光収入に大打撃を与え――。
再び私たちが目を開いた時には天狗の姿は消えていた。
先輩は北西の空をしばらく睨んだ後、水面をぺたぺたとこちらに向かって歩いてきた。満身創痍である。血を形の良い鼻から垂らし、髪は乱れ、服は破れ、体のあちこちにひっかき傷や蚯蚓腫れを作っている。だがその顔は晴れやかである。
「あのクソ天狗は」とにこやかに先輩は口を開いた。
「ここ嵐山はあいつの地元だからな。負けたとあっては恥ずかしさからしばらくは愛宕山から降りてはこれまい」
さらに上機嫌に続ける。
「私たちが束になっても敵うまい、とタカをくくっているからこうなるのだ。本当に束になってかかってこられたらどうなるか、などと考えもしない。だから私は天狗が嫌いなのだ」
「ではなぜ嫌いな相手にあんなことを?」
なぜ口づけをしたのだろう。そう訝る私に先輩は「あいつは人としての道を踏み外して魔道に落ちたんだ。人としての私の気持ちを考えて、ついでに魔道からも足を踏み外すといい」と答えた。
「先輩は何を考えているのですか?」
「考えているのかもしれないし、考えていないのかもしれない。私は仙人だったからな。だがそれもここまでだ。今からは大学卒業に必死な八回生だ」
先輩は歌うように節をつけて答える。そうして「考えているのかも考えていないのかも」と口ずさみながら嵐電の駅へ方へと一人歩いて行ってしまった。私が唖然として彼女の後姿を見送っていると、水無瀬嬢が私の隣に来て口を開いた。
「さあ高槻先輩が車で待っています。駐禁を食らう前に合流しなくては」
「茨木先輩をあの恰好で一人で帰すのか」
「先輩にも考えがあるのでしょうし、ないのでしょう」
「茨木先輩がああ言っていますので、そういうことにしておくべきなのです」とぽつりと言った水無瀬嬢の声が印象的だった。
だが。
「どうして水無瀬さんは私の腰を撫でまわすのだ」
「考えているのかもしれませんし、考えていないのかもしれません。人間とは度し難いものなのです」
そう言って私の体を這いまわる変態娘の手の方がもっと印象的であった。




