九月 05
私は慌てて八幡宮に駆け戻り、矛先舞鈴を持って逆方向に神楽を舞った。
何度か失敗し、その都度初めからやり直し、幾度目かの挑戦の後、再びあの――世界が閉じていく感覚を得た。
鈴の音を響かせていくうち、聞き覚えのあるちんこの声がし――
――目を開くと、私を心配そうにのぞき込みながら声をかけてくるちんこの姿があった。
「よかった。戻ってきたか」
ちんこが大きく体をたゆませ、ため息をついた。
どうやら私は境内に寝かされていたらしい。体を起こして周囲を見渡すと、一緒に秋祭りを行っていた大人たちの姿があった。皆、安堵の表情を浮かべている。彼らにもう大丈夫だと伝えたが、おっさんたちが大事をとって休んでいろというので、とりあえず社務所で休ませてもらうことにした。
わいわいと私の引き起こした珍事件とちんこのことを語り合いながら、秋祭りの後片付けを始める彼らに礼を言い、ちんこを抱えて社務所に向かっていると、
「貴君が神楽舞の最中に突然倒れたと、父殿から電話を受けてな」
とちんこが申し訳なさそうに語りかけてきた。「傍についておくべきだった」
「待ってくれ、ちんこ。細部が違うとはいえ、私はいつも通り毎朝舞っているちんこへの巫女神楽を披露しただけだぞ」
「貴君は私と再合体をしたいと言っていたではないか。だから神である私と合体を容易にするために、神との合一を目的とした舞を踊らせていたのだ。――だがその結果、貴君は八幡殿をその身に下ろしてしまった。私がついていれば深いトランス状態に陥る前に貴君を現世に引き戻すことができたはずなのに――」
ちんこは「つまらぬ八幡殿に対する嫉妬心から貴君の傍を離れてしまっていた……」と続けた。ちんこはうつむき、ふるふると震えている。
そんな彼に「ちんこよちんこ」と私は声をかけた。ちんこはゆっくりと顔を上げ――「なぜ危険な目に遭わされたというのに笑っているのだ」と呟いた。「私は氏神失格なのだぞ」
気が付かなかった。私は笑っているのか。だがその理由は――
「実は私も、自分の知らないちんこの非人間交遊録を聞かされた時、嫉妬したのだ。ちんこに私以外に親しいものがいる、と。――だがこうして大変な時には必ず駆けつけてくれる。だからそれが嬉しい」
それが理由だ、と締めくくった。
「だが貴君は目覚めることがなかったかもしれないのだ。それほどまでに貴君は深く八幡殿を下ろしていた。突然、復活した私と貴君のつながりが無ければ、私の声を貴君に届けることもできなかっただろう」
ちんこは相変わらずふるふると揺れながら続ける。
つながり――。もしかすると夢の中の風呂場での出来事か。
夢の中とはいえ、私がちんこに正直な思いを伝えたから、ちんこの声も私に伝わったのだろう。
「ちんこよちんこ。実は私は夢の中でちんこに出会ったのだ。その時にちんこと語り合った――お前に私が一方的に語りかけていただけなのだが――おかげでこうして戻ってこれた。やっぱり私を助けてくれたのはちんこなのだ」
「だから自分を責めるのはやめてくれ」と続ける。「お前は時に荒ぶるやんちゃちんこだ。いつまでもうつむいているんじゃない」
「……そうか。そうだな……。まずは貴君が戻ってきたことを喜ぶとしよう。おかえり、我が巫女よ」
「うむ。ただいま。ちんこ」
「それで……貴君が夢の中で私に語った言葉というものは一体どのようなものなのだ?」
「沈黙は金、と言う。だから秘密だ」
「そうか」
「だが沈黙は金、雄弁は銀。ちんこよちんこ。お前は私の大切な存在だ。一番と言ってもいい」
「それは屁理屈真理によるものか」
「そうだ」と私が答えると、ちんこは「私もだ」と恥ずかしそうに返し、「どこか懐かしいやり取りだな」と少し笑って続けた。
「もしかすると私が見ていたものは夢じゃなかったのかもしれない」
「どういうことだ?」
歩いているうちに気付いたのだ。神楽を踊る前まで確かに身に付けていたはずの――下着の感触がない。
つまりは――
「夢だけど、夢じゃなかった」
○
めっきり暑さも引いて、九月もあと少しで終わるという日の朝、京都の下宿先に戻るために家を出ようとした私とちんこを、居間から父が呼び止めた。駅まで私を送ってくれるという。そのまま玄関で待っていると車のキーをちゃらちゃらと鳴らしながら、大きな茶封筒片手に父がやってきた。そして父は私の胸にその茶封筒を押し付けてくる。中を開けば何枚かの書類。訝る私に
「お前の診断書だ。知り合いの医師に無理に頼み込んだ」
白髪頭を空いた右手でがしがし掻きながら、むっつりと父は言い捨てた。
「お前は性同一性障害だということにして書いてもらった。それをどう使うのかはお前が決めろ。決めたら――今度は黙っていないで、すぐに連絡を入れろ」
と続ける。「帰ってくるころまでには受け入れる心の準備を整えておく」とも。そんな父に「息子であり黒髪の乙女の言うことを信じないから母の前で秘密を暴露されて醜態をさらすのだ」と悪態をつきながらも、私はほんの少しだけ気になっていたことを彼に訊ねた。
「おとんは――私が男のままだった方が――」
「一人息子にそれなりには期待していたからな……。まあ……なってしまったモノは仕方がないさ。阿呆阿呆だとは思っていたが、女になるほど突き抜けた阿呆なのだとわかればむしろ笑えてくる」
そう言って父は不器用に微笑んだ。だが女性になった私を受け入れようと努力する父もまた、突き抜けた阿呆なのである。
私の阿呆は父から受け継いだものであった。
「阿呆はおとんのせいだ」
「いや阿呆をこじらせたのはお前の責任だ」
そんな言い合いを続けていると、奥の和室から母がぱたぱたと玄関に走ってきた。手には高島屋の紙袋を提げている。そのまま父の隣に立つと、母はその紙袋を私に差し出してきた。
「本当にいつも巫女服だったから、私少し驚いたわ。これ私の着物用コートなのだけど、よかったら持っていく? 京都市内って底冷えがひどいってぼやいてたわね?」
「着物と巫女服はまた違うと思うのだが」
「我が巫女よ。母殿の好意だ。素直に受け取るのも孝行だ」
ちんこに諭され、それもそうか、と私が紙袋を受け取ると母はにっこりと笑った。
「今度腹巻を編んで送ってあげる。女の子はお腹を冷やすといけないから」
「おかんは私が乙女でも男でもあまり気に留めないのだな」
「あなたのいい加減なところにそっくりでしょう。親子だもの」
心外だ。私がいい加減であるのは現在仙人修業中だからである。いい加減でなければ仙人は務まらないのだ。
そして仙人になった暁にはちんこの神格を押し上げ、神通力を得て――
だが――茨木先輩の言葉を思い出してみれば、私は仙人修行をする前からいい加減であったようだ。
いまや、男だろうが乙女だろうがどちらでもいいと思ってさえいる私のいい加減さは、やっぱり母から受け継いだものであった。
「さて行くか」と靴を履き、私の荷物を持って駐車場に向かっていく父と母の後ろについて行こうとすると「貴君、嬉しそうだな」と私の腕の中からちんこが声を出した。その言葉にのんびりと返す。
「秋晴れで涼しくていい気持だからな。厚い生地の巫女装束にちょうどいい」
実際、私のくだらない考えを吹き飛ばすほどにいい天気なのだ。何を考えていたのかなど忘れてしまった。
沈黙は金。言わぬが花。慣用句的真理である。
これでシリアス展開もおしまい。
あとはラストまで阿呆展開です。
シリアス(笑)とか思った方は、そのまま笑いながら楽しんでいってください。




