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九月 03

 陽も中天を過ぎた頃、再び一行は八幡宮の境内へと戻ってきた。

 神輿が定められた位置に置かれた後、私は家々を回っている間に境内の中心に設置された、御幣で飾り付けられた結界の中に、祭祀器である鉾先舞鈴ほこさきまいすずを両手に持って入る。

 その結界の中心で目を閉じ、息を整える。再び目を開け、正面を見据えると同時に見事な音の笛や太鼓、手平鉦かねが演奏され始めた。――ラジカセからではあるが。

 音楽に合わせ、すり足を意識しながら右に左に回転する。そしてそのまま大きな円を描くように結界の中をぐるぐると回る。

 右に回って。左に回って。

 ――しゃん。

 右回り。左回り。

 ――しゃんしゃん。

 右左。右左。

 右右。左左。

 右右右右右右右右。

 ――しゃんしゃんしゃんしゃんしゃんしゃん。


 踊っているうち、す、と目の前が暗くなった。音も遠くなった。

 周囲の世界が自分を中心として閉じていくような感覚に襲われる。

 まただ――。

 俗に言うトランス状態とかいうものだろうか。今までも神楽を舞っている間、この感覚は幾度か味わった。

 その時は私と共に居たちんこの声により、ほんの一瞬で奇妙な体験から現実へと引き戻されたが、今はどうだろう。現世うつしよでも幽世かくりよでもない中途半端なこの結界の中には、男でも女でもない中途半端な私一人ではないか。私を現世に繋ぎとめるものも、行動理念その他諸々を縛るものも何もない。

 何もないのなら――舞を止めてはいけない。なぜかそう感じた。よって私はくるくると回り続ける。

 鈴の音だけが響き、自分の意思で踊っているのか、響く鈴の音に踊らされているのかわからなくなっていく。

 くるくるくるくると回った後、巫女神楽の最後の締めとして、大きく跳躍し――、再び世界が元に戻った。木々の隙間から差し込む陽の光や、低く響く鳩の鳴き声なども再び感じられる。


 荒くなった息を整えながら額に浮かんだ汗をぬぐう。

 自身でも会心の舞を披露して秋祭りに貢献したというのに、私の周囲には誰もいない。不可議に思って見回すと、八幡宮の小さな社務所の中から笑い声が漏れてきている。どうやらおっさんおばはん連中は、既に祭りの打ち上げを始めているらしい。

 今日のMVPたる私を除け者にして宴会を始めるとは!!

 そうぷりぷりと怒りながら、結界の中から出て社務所のほうへ向かう。だがその途中、小山の麓からこの境内へと伸びる石段に人影があるのを見かけた。よくよく見れば、先ほど私の肛門を蹂躙したガキと同じくらいの年頃のガキである。彼は石段に座り込んで麓の色づいた田んぼをぼんやりと眺めていた。


「おい」と彼の後ろから声をかけると、びくりと肩を震わせた後、その男の子は恐る恐るといった様子で私のほうを振り向いた。だが声をかけたのが不審者ではなく、絵にも描けない美しさの黒髪の乙女であったことに安心したのだろう。ほっ、と体全体から緊張が抜けたのがわかった。


「お前は何をしているんだ。もしやと思うが、お前もまたこの乙女の肛門蹂躙作戦を立てようとしているわけではないだろうな」


 私が不機嫌さを隠そうともせずに問うと、


「そんなことしないよ」


 とガキはにこやかに笑った。

 どうやらこの少年は紳士のようだ。邪念のかけらもないその顔には知性の光まで宿っている。私は自身の不明を恥じた。


「家にいても暇だから秋祭りを見に来てたんだ。お父さんもお母さんも祭りに出ちゃってて、家で一人だったから」

「友達は?」

「さあ」

「出店も何もない祭りなど子供には楽しいものではないだろう」


 乙女にふさわしい幾分柔らかい声で「それに神事も終わったことだし、ここにいても大人たちの酒盛りの声が聞こえるだけだ。とっとと家に帰れ」と続けると、少年は何も言葉を返さず素直に立ち上がって尻をはたいた。そんな少年に私は「待て」と声をかける。


「いくら田舎とは言え、治安の悪化、人心の荒廃が叫ばれている昨今、子供が一人で歩くのも危険だ。家を教えろ。送り届けてあげよう」

「……知らない人に付いて行っちゃダメだって学校で教わったよ」

「付いて行くのは私であって、君ではない。先生の教えに反してないじゃないか」

「それってもっとダメなことなんじゃないかな」

「賢しげな奴め。人の好意はありがたく受けるものだ。この黒髪の乙女が不埒なことをすると思うか。それに黒髪の乙女に不埒なことをされるのは、むしろご褒美ではないか」

「何それ」


 少年は大げさなため息をつき、石段を降り始めた。その後ろに私も続く。色づいた田んぼの中を伸びる農道を二人してぽてぽてと歩いていると、少年は沈黙に耐えかねたのか口を開いた。


「ところでお姉さんは何者なのさ」

「この紅白の服装を見てそう訊ねているのなら、君はよっぽどの阿呆だな」

「巫女さん?」

「さっきまで神楽を踊っていたのだ。こんなにも美しい乙女が会心の舞を披露したのだ。今年の豊作は間違いないな」

「でもそれって僕の質問の答えになっていないよね」

「世の中簡単に答えを得られるようなことばかりではないのだ」


 そんな戯言をお互い交わしながら、私が秋晴れの空の下、なじみ深い故郷であるど田舎の風景を楽しんでいると


「ここが僕の家だよ」


 と少年が一軒の古い民家の前で立ち止まり、そう言った。

 田んぼの中にぽつんと建つ、大きな柿の木が印象的な、なかなかに大きな家。奇遇である。実はここは私の家でもあるのだ。「おい」と私は平静を装いながら少年に声をかけた。


「君の名前は大宮か」

「そうだよ」


 ここで一つの問題が提起される。

 私の記憶においては生き別れの兄弟姉妹など存在しなかったし、下宿先を借りるために用意した戸籍謄本には私に妹もしくは弟がいる事実は記載されていなかった。つまり私は主観・客観・公的の全てにおいて一人っ子であり、そのような私の前で、私の実家に住まう「大宮だ」と名乗るような少年は、頭に致命的な欠陥を抱えているか、虚言を弄してこの黒髪の乙女に近づき、その神秘の結晶である処女性をむさぼろうとする変態であるかのどちらかだ。

 ――だが、この純真無垢かつ目に知性の光を宿す、愛らしい少年はどちらでもないように思われて仕方がない。

 そんな私の、この数か月に得た不思議経験値、そして茨木先輩直伝の仙人的合理主義――一般社会では『いい加減』と称すらしいが――は新たな答えの可能性をはじき出した。

 これは完全無欠の乙女が完全無欠の神楽舞を披露したことでトランス状態に陥った、私の見る夢。

 そしてこの邪念のかけらもない紅顔の美少年は――昔日の私ということだ、と。


       ○


 私の実家であり、夢の中でもあるのだから遠慮はいらない。見知らぬ黒髪の乙女を家に上げまいと渋る幼き私を、とうとうと形の良い唇から流れ出る屁理屈論理で丸め込み、私は夢の実家に帰還を果たした。

 私が台所へ直行し、冷蔵庫を開け、冷たい麦茶を飲んでいると幼き私が胡乱な目で見てくる。


「他人の家に上がり込んで冷蔵庫を真っ先に漁るって、人としてどうなのさ」

「私は乙女であり元男であり巫女であり半仙人でもあり阿呆大学生でもある。阿呆大学生や仙人に人としての論理は通じないし、それに何度も言ったようにここは私の家でもある」

「違うよ。僕の家だってば」

「登記簿によれば、おとんが七割、おかんが三割、この家の所有権を持っている。つまり厳密に言えば君の家ではない。それでも君がここは自分の家だと主張するのならば、おとんとおかんの血を分けた息子であり乙女である私の家であるという論理が成り立つというわけだ」

「さっきからよくわからないことばっかり言って――」


 と言葉を荒げた幼き私の腹からくうと音が響いた。


「なんだ腹が減っていたのか。ちょっと待っていろ」


 男子厨房に入らずを約二十年間実践し続けた私だが、黒髪の乙女となった今、乙女としてふさわしき調理技能は備えている。

 幼き私に黒髪の乙女の手料理を食す、という望外の幸せを、夢の中とはいえ噛みしめさせてやるのもいいだろう。

 そう勢い込んだはいいが、冷蔵庫をのぞいても、戸棚を開けてもロクなものがない。台所を隅から隅までひっかきまわして、そうしてなんとか見つけたのは――サバ缶、沢庵、そしてスパゲティ。

 まさかまさかの展開である。

 茹でた麺と刻んだサバと沢庵をあわせて炒めた料理を皿に盛って出してやると、幼き私は初めは恐る恐る、そして二口目からはぱくつきだした。


「うまいか?」

「……まずくはないよ。白ご飯で食べたいけど」

「そうか。私も同じ意見だ」

「お姉さんは食べないの?」

「私は食い飽きた」


 十年間、実家で母親の作ったとんでもスパゲティを食べていたのだ。自分で作ったとはいえ、夢の中でまで食べたくはない。それに私の今日の昼食もソレだったのだ。

 うっぷ。

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