八月 01
八月。月日が経つのは早いもので、私が黒髪の乙女となってから既に半年が経過している。
暑さはいよいよもってひどくなり、昨日などはお堀の鯉が煮魚になっているのを見かけた。そんな京都盆地のど真ん中にある、西日が直接差し込み風は通らずエアコンという文明の利器が存在しないちんこの神殿、兼私の部屋で夏の間中過ごすことなど、猥褻物陳列罪として訴えられても仕方がないほどに窓と肉体を解き放ったとしても不可能である。
ならばプールで涼むのはどうかと考えたが、ただでさえ美しいこの黒髪の乙女が刺激的な水着姿によって、さらに引き立てられた美を晒したならば、嫉妬と獣欲にかかれた者どもが血で血を洗う抗争を繰り広げ、プールサイドが古の刑場である三条河原のごとく真っ赤に染まることは確実かと思われる。
よって私は乙女の良識と貞操と京都の平和を保つために、よく見知った場所への戦略的撤退を選択した。
平たく言えば里帰りをすることにした。
○
「カギはちゃんと閉めましたか」
「問題ない。すまんな」
「男神様に頼まれましたからね」
「うむ、我が巫女が着替えやら身嗜み用品を揃えていたら、とんでもない大荷物になっていたのでな。高槻殿、重ねて感謝する」
「そんな畏まらないでくださいよう。僕も一年以上帰っていませんでしたからね。いい機会です」
まだ陽も高くないうちに私のアパートへと高槻が訪ねてきていた。私とちんこは同じ地元出身である彼の車に相乗りさせてもらって里帰りをするのだ。
私の実家は京都府の地方都市にある。だがそこは市とも呼ぶのも憚られるほどの田舎であり、バスなど一時間に一本。そして家から最寄りのバス停まで一時間は歩かなければいけないという僻地だ。そんな陸の孤島まで大きな荷物を担いで、ひたすら田んぼの中を歩くなどお断りさせていただきたい。それが万死に値するような悪行三昧の高槻を呼んだ理由の一つだ。
高槻の車のトランクルームに大きく膨らんだスポーツバッグを投げ入れた後、助手席に座る。そんな私に運転席に乗り込んだ高槻が「シートベルトを締めるように」と注意をしてきた。「最近警察の取り締まりが厳しくて嫌になっちゃいます」とボヤく高槻に生返事をしながら、彼の言葉に従ってベルトを締めていると「私はどうしたらいいのであろう」と私の膝の上にいるちんこが高槻に問いかけた。高槻は少し考えるような素振りを見せたが、すぐにちんこへとにこやかな返事を返す。
「人間ならシートベルトをつけなきゃいけませんが、男神様は神様ですからね。そのまま大宮の膝の上に座していらっしゃってもいいんじゃないですか?」
「そうだなちんこ。道交法に明記されていない以上、警察もとやかく言えないだろう」
そうして準備も整ったので私たちは故郷へと向かってポンコツ車を走らせた。
○
「そういえば今日は巫女服じゃないんですね」
しばらくして京都特有の細々とした小路から片側三車線の大通りへと出たことで、幾分会話をする余裕ができたのか、高槻が私に話しかけてきた。彼の言う通り今日の私はTシャツにジーンズという格好である。髪もいつもとは違い、結っていない。しかしその美貌は翳ることはない。まことにラフな姿の美女である。
「そんな恰好、あなたが女性になってから初めて見ましたよ。どうかしたんですか」
「単なる気分転換だ。前を見ていろ。事故を起こして乙女の肌に傷でも付けたらぶっ殺してやる」
高槻にこうは答えたが、私が神通力を得るための巫女装束を着ていない理由はちゃんとある。
私はいまだに家族に自分が黒髪の乙女となったことを伝えていないのだ。
知らない人物が息子を名乗って登場したならば、たとえそれが美しき黒髪の乙女だとしても、うさん臭さは拭いきれないだろう。その人物が巫女装束という一般社会から乖離している服装をしていたならばさらに倍率ドンである。良くてイタズラ、悪くすれば新手の詐欺と思われるに違いない。
そういった危険性を少しでも抑えようとする悪あがきにも似たみみっちい理由である。
そしてあまりにもみみっちすぎて口にできないだけだ。
「ひどいなあ。男神様もなんとか言ってやってくださいよう」
「すまぬ、我が巫女なりの照れ隠しなのだ。高槻殿にお礼を言いたいのに言えない我が巫女の気持ちを汲んでやってくれ」
「違う。適当なことを言うな」
私は憮然とした。
高槻との五年以上に及ぶ確執は断ち切りがたく、私が薔薇色の未来をつかみ取るためには、もはや宿敵たる彼を撃滅せねばならぬところまで来ている。だが私は押しも押されぬ紳士であり、いまや淑女でもある。紳士淑女が気安く暴力に訴える訳にはいかない。ならば敵性目標を撃破するためにどうすれば良いのか。自身の意見を多彩なボキャブラリーで理論武装させ、ウィットに富んだ語り口で果敢に攻めるのだ。そういった信念に基づき繰り出した「ぶっ殺してやる」という言葉である。
だがそれは世間一般では口先野郎と見なされる上、ツンデレなるものに誤解される危険性もあった。まったくもって失礼千万。
○
山の合間を抜けながら、二時間ほども走っただろうか。小山と小山の間に青々とした田んぼが広がっている。その田んぼの中、ぽつんと伸びる細い一本道へと車は進路を取った。幹線道路とは違い、ロクな整備がされていないため車内にガタガタと振動が伝わってくる。私がちんこを車の振動で飛び跳ねたりしないように膝の上で優しく抑えていると、高槻がにやにやとしているのがわかった。
「あなた随分と男神様に甲斐甲斐しい世話をしていますね」
「当然だろう。これも修行だ。そもそも文字通り血肉を分け合った分身なのだ。これくらい当然ではないか」
「それだけなんですかね」
「いいから前を向いて運転しろ。事故を起こして乙女の肌に傷でも付けたらぶっ殺してやる」
「あなたの返し言葉も芸がない。もっとこうオブラートかつユーモアに包まれた言葉を返さないとコミュニケーションというものは成り立ちません。そんなだからあなたは童貞をこじらせて美少女にまでなっちまったんだ」
「お前の言葉こそ芸がないだろう」
「ふふふ。さてそろそろ到着しますよ」
不気味に笑う高槻の言葉に前を向くと、確かに現代社会における陸の孤島、私の実家の姿が見えてきていた。
庭に生えている柿の木の下の適当なスペースに車を止めてもらい、トランクルームから荷物を降ろしていると高槻が少し残念そうに話しかけてきた。
「そういえば僕の友達に、久しぶりに実家に帰ろうとしたら実家が跡形もなく無くなっていた方がいるんですけど。そこまで面白いことにはならなかったみたいですね。残念」
「うるさい。ただでさえ私の姿が跡形もなく無くなっているのだ。これ以上とんでもないことが起こってたまるか。それにメールで今日帰ることは伝えてある。もし引っ越していたとしたらその旨の連絡が来ているはずだ」
メール。若干ではあるが双方間コミュニケーション能力に難のある私にとっては、己の意思を手前勝手に伝えることのできる素晴らしい利器である。女性に対し、石橋を叩きに叩いて安全性を確かめ、おもむろに行動をしようとした頃には万事手遅れとなる私であっても、メールを通じてのコミュニケーションをとることができれば、桃色恋愛体験など簡単に手に入れることができるであろう。――女性の連絡先さえ手に入れることができれば。
引き戸を開けて「ただいま」と言いながら、スポーツバッグを上り框に放り出して居間へと向かう。ここから先はスピード勝負である。居間の扉を開けると、テレビを見ていた両親が黒髪の乙女たる私の姿を見て目を白黒させていた。
「久しぶりだな。おとんにおかん」
私がとりあえずの挨拶をしていると「こいつこんな恰好ですけど大宮です」と高槻が付け足した。宿敵である高槻とわざわざ一緒に里帰りをした理由のうちのもう一つがこれである。私と中学生時代からの付き合いであり、私の家族とも面識がある彼が一緒にいたならば、美しい乙女とは言え正体不明の人物でもある私が門前払いされる可能性は低くなるのではないか。
しょうもない理由と笑いたくば笑え。しょうもない小市民である私が用意できる策などこの程度なのだ。
「私たちを騙そうとしているのか」
そう言って私を異物を見るような目で睨んでくる父。「高槻君、このような冗談は困る」と続ける。母は私の姿を見つめたまま何も言わない。
「まさか。そんなわけはないだろう」
高校時代の頃には私の膂力は父親を上回っていたため、どうということもなかったが、か弱き乙女となった今ではまともにやりあって勝てるだろうか。若干の恐怖を感じたがここで目を逸らしてはいけない。真剣な対決の場で目を逸らすという行為は自身の非と敗北を認める行為である。これは野生動物の常識である。暴力的非合法犯罪集団の常識でもある。一般社会では――よくわからぬ。
よくわからんが私は毅然と睨み返した。
どれくらいの間、睨み合っていただろうか。父は白髪の目立ち始めた頭をかきむしりながら「うちの子は男だ」と唸るように言った。
「そして女体の神秘に悶々と思いを馳せながら女体の神秘に踏み込むことを恐れる、手の施しようのないエロでヘタレなのだ」
失礼千万。私は憤然として反論した。
「失礼な。私は安易に女性に手を出すことによって生じる問題と責任の所在について、勘案に勘案を重ねた結果、むやみやたらと女性に手を出すことを良しとしなかった紳士だ。だが手を出さないだけでは、私の性欲を司る視床下部が桃色体験を求めて暴走し、この肉体と理性そして社会倫理に対して反乱を起こす危険性があったため、やむなく緊急避難として猥褻図書や猥褻映像作品を鑑賞していただけにすぎない。それをエロでヘタレと評すとは。おとんの目は節穴か」
「私の眼は節穴などではない。およそ十八年間、阿呆息子を観察してきた私に言わせてもらえば、私の息子は、異性との出会いや学問的意義のある薔薇色キャンパスライフに思いを焦がしながら初めての一人暮らしを始めるも、およそ半年でその夢破れ、その容貌のごとく冴えない破廉恥堕落な生活を送っているに違いないのだ。あなたのような美しい女性が、そんな息子の名を語るなど、宗教か詐欺か犯罪の片棒かいずれにせよ何か裏があるとしか思えない」
「実の息子に対して何たる言い草だ!!」
「あなたのような女性は汚い汁で煮しめたような私の息子ではない!!」
「親子ですねえ」とのんびりと呟く高槻。その言葉に父はふんと鼻を鳴らし「高槻君の顔に免じてこうして話し合っているだけだ」と言う。「そうでなければ追い出しているとも」
「待ておとんよ。姿はこのような目もくらむような美しさの乙女となっているが、中身は正真正銘のおとんとおかんの息子だ。嘘だと思うのならば何でも質問するがよい。全て明朗簡潔に答えてくれよう」
「田舎者と思って甘く見てもらっては困る。実は私は、相手の反応から情報を引き出すコールドリーディングや、綿密な下調べによって相手の情報を得るホットリーディングなる物の存在をテレビで見て知っているのだ」
「耳をかっぽじって聞くがよい。小学六年の頃、私は二人の結婚記念日を祝うためにホットケーキを焼いた。褒められて味を占めた翌年の私は再びホットケーキを焼いたが、今度は勉強に集中しろと怒られた」
父親の言葉を無視し、私は私と家族の思い出をできる限り詳細に説明を始めた。
「五歳、七五三の千歳飴を食べていたら歯と歯にくっついて口が開かなくなった。六歳、田んぼに落ちて靴を無くして泥だらけのまま帰宅した。廊下も泥だらけにしたので怒られた」
私と家族の思い出において、私の情けない情景ばかりが出てくるのは何故であろう。その事実に首をひねりながらも私は記憶をほじくり出す。
呆然と事の成り行きを見守っていた母が息を吹き返したかのように目を見開いて、言葉に言い表せないような、憐憫と憤怒とやるせなさがごた混ぜになった顔を私に向けた。その様子に驚いたのか父親が取り乱す。その隙を突き、なおも私は言霊を繰り出す。
「おとんは阿呆学生の頃、借りたカメラで手当たり次第に女性を撮影し桃色欲求を満足させていた!! 小難しい哲学書のカバーをかけて猥褻加虐被虐書物を読みふけっていた!!」
「コールド……でもない。ホット……でもない。嘘だ。嘘っぱちだ!!」
「嘘ではない。おとんの部屋の書棚の下から二段目だ」
「嘘だ。嘘っぱちだ!!」
母の憐憫と憤怒とやるせなさがごた混ぜになったような顔が今度は父親に向けられた。
○
なおも父の秘密を暴露しようとした私に、父は「まいった」とでも言うかのように手をかざして止めた。
母親を妙に気にしながら、父は言葉を選びつつ口を開く。
猥褻作品の隠し場所程度で慌てふためくとは未熟なり。
「あなたが私の息子と並々ならぬ関係性を持っているということは認めよう。だが私の息子はどうなったのだ」
「並々ならぬ関係性ではなく息子そのものだというのに頭の固いやつめ」
「その件については私がお答えしよう」
私の腕の中で今まで沈黙を保っていたちんこが声を上げた。
「お久しぶりです。父上、母上。私はあなた方の元息子のちんこ。彼から離れ、神となった今では討性黒子男神と名乗っております」




