二月 02
何をするにもまずは動かねばならぬ。
私は万年床から立ち上がり、姿見の中の黒髪の乙女と相対した。
絹のように艶やかで腰まで伸びた黒い髪。
顔はもちろん私好みの完璧に目・鼻・口のバランスが取れた、怜悧な印象の美少女である。
少し下に目を落とせばほっそりとした手足が古びたTシャツから覗いている。
シャツの下の神秘はどうか。
慎ましい乳ではある。
だが乳に貴賤はない。大きな乳は豊かな母性をその柔らかい神秘の奥底に隠しているのであり、小さな乳は新雪の大地のごとき処女性をその侘び寂びの中から慎ましやかに主張しているのである。
そしてそのさらに下の神秘やいかに。
そんな下劣な探求心を私は鋼の意思で抑え込んだ。
目の前にいるのは私が夢にまで見た理想の黒髪の乙女だ。一時の激情に身を任せてはいけない。乙女を穢してはならない。
たとえそれが私であっても!!
「てっきり貴君が鏡の前で性的探究心を存分に発揮してしまうのかと心配していたのだが」
「私はそこまでゲスな男ではない」
私は性欲の権化のような男ではあったが、同時に社会的良識と一端の羞恥心を併せ持つ普通の男であったのだ。――今は黒髪の乙女となっているようではあるが。
兎にも角にも。
まずはちんこの要求通り、神棚を作るための買い物に行こうとして私ははたと足を止めた。治安の悪化、人心の荒廃が叫ばれる昨今、このような美少女がでろんでろんのシャツ一枚でサンダルをつっかけて歩いていたならば、それはもう言葉にも映像にもできないような物凄い目に遭ってしまうのではないか。遭ってしまうに違いない。遭うのだ。それは避けねばならない。
私は床に放り出してあったスマートフォンからアドレス帳を呼び出し、数少ない登録者の中から一人を選んで助けを求めるメールを送った。
茨木先輩。もうすぐ八回生となる、私の住むアパートの二階に住む住人であり、私が所属するサークルの会長であり、仙人でもある女性だ。
仙人なので霞を食っていれば食費はいらないのだが、電気、水道、ガス、電話代に家賃に遊興費と文明化された社会においては万事金がないとやっていけないため、年中ピーピーと言っている。ピーピー言うくらいならさっさと卒業して仕事を見つければいいとも思うのだが、地に足のついていない生活をしていないと仙術を使えなくなるため。いまだ計画的に単位を落としながら大学生をやっている。そんな女性だ。
すぐに先輩から返事が来た。「いつでも来るように」とのことだ。ありがたくその言葉に甘え、両手で胸の前にちんこを抱え、二階へと向かう。自分の部屋の真上に位置する、先輩の部屋の扉をノックするとすぐに「入りなさい」と声がした。
「失礼する」
「失礼します」
ちんこと共に一言断り、六畳間へと足を踏み入れる。
先輩の部屋は端的に言えば魔窟である。門番のように玄関に立ちはだかる巨大な信楽焼のタヌキの脇を抜ければ、古びたインクの匂いを立ち昇らせる古本が迷路の壁のように部屋を占拠しており、その上にはケロヨンのタライがトロフィーのように飾られている。古本の壁と壁の間には脱ぎ捨てられた衣類やら化粧品のビンやらのガラクタが所狭しと並べられている。そして部屋の中心にはどこから拾ってきたのか、座るもの全てを旧エキスポランドのジェットコースターに乗っているような気分にさせる、破れてスポンジのはみ出た壊れたマッサージチェアがでんと置かれている。
「君は誰だ」
そのマッサージチェアの陰から、いい加減な声と顔をした美女が這い出してきた。このいい加減な美女こそが茨木先輩である。いい加減な美女はいい加減な声でいい加減に私たちに語り掛ける。
「ここには金目のものは何一つない。唯一価値のあるものはこの私くらいのものだが、女性である君には必要のないものだろう。君が同性愛者だというのなら別だが。わかったらさっさと出て行きたまえ」
「先輩。私です。先ほどメールをした、一階に住む大宮です」
「なんだ大宮君か。どうしたというのだ? そんな美しい少女の格好をして。そして男性器をとても大事そうに抱えていることにも興味を惹かれる」
さすがは茨木先輩である。私は快哉した。
最初の相談相手として、このような非常識な出来事をあるがまま受け止めてくれる先輩を選んでよかった。
「これこれこういうわけでして」と今朝起こったことを、彼女に虚飾なく手短に説明する。
「なるほど。昨夜近くで新たな神が生まれた気配がしたが、そういうことだったのか」
そう一人で納得したかのようにうんうんと頷くと先輩は居住まいを正し、私とちんこに向き合った。そうして先輩は私の腕に抱かれたままのちんこに頭を下げる。
「ご挨拶が遅れて申し訳ありません。私はこの界隈で仙人をさせていただいている茨木、と申すものです。よろしければそなた様の名をお伺いしてもよろしいでしょうか」
「丁寧な挨拶、まことにかたじけない。私は討性黒子男神と申す。本日より、この男――今は女だが――の氏神となった。以後よろしく頼む」
「大宮君、討性黒子男神様は君よりもよっぽど紳士的で知的なお方じゃないか」
先輩は頭をひょいと上げ、先輩とちんこのやり取りを見守っていた私に向かってそう言った。
もちろん私は憮然とした。
失礼千万。私は押しも押されぬ紳士である。他者に迷惑をかけることなく溢れんばかりの性欲を内に秘め、ひっそりと脳内桃色遊戯の世界に舞い遊ぶことで己の獣性をこの二十年間コントロールし続けてきたのだ。
だが世間一般ではそれを、己の意思と欲望を他者に伝えることのできないヘタレと呼ぶらしかった。
「して君はどうしたいのだ?」
「神となった私のちんこを祀るための神棚を作る材料を買いに行こうと思ったのですが、材料を買いに行くための服がなく、服を買いに行くための服もないので、助けを求めるためにここへ参上しました」
「なるほど。では少々待っていたまえ。ちょうど大枝山にそういったことの得意な知り合いがいる」
そう言うと先輩はスマートフォンを操作し、誰かと通話を始めた。
――そう。その通りだ。サイズ? 適当でいいだろう? プロ意識が許さない? では写真を送るのでそれを参考にしろ――
通話を終えた先輩はガサガサと古本の迷路を崩してスペースを作り、私にまっすぐに立つように言ってきた。私が先輩の言うとおりに立つべき場所を確認している中、ちんこが心配そうに身を揺らしながら、スマホのカメラを操作する先輩に対して質問した。
「私は外れた方がいいのではないか? よもや猥褻写真になってしまわないか」
「いえ、討性黒子男神様は立派な神であらせられる。卑猥などと申す者の頭が卑猥なのです」
そう言って先輩は、彼女の確保したスペースに立つ私に向かって何度も何度もシャッターを切る。
もう一枚。ポーズをとってもう一枚。笑顔を見せてもう一枚。
十何枚もの写真を撮った後、先輩はどこぞへとアップロードし、大枝山に住むという人物へとメールを送信した。その様子を確認して私は問う。
「先輩。こんなに写真を撮る必要があるのですか。サイズ合わせのためならば直立不動の全身像だけで良かったのでは」
「あるとも。大ありだとも。彼は職人気質だ。そんな彼を手っ取り早く動かすにはエサで釣るのが一番早い」
そう言うと先輩は私たちに楽にするように伝え、コーヒーを勧めてきた。
京都の二月の朝は寒い。足の先から這い上がってくる冷気から逃れるために、ありがたくそれを受け十分ばかりのんびりしていると、どこからかギャアギャアという声が聞こえてきた。
「ふむ。早いな」と先輩が立ち上がり、日焼けして黒ずんだカーテンを引き開ける。驚いたことにそこには先輩の部屋の窓を覆い尽くすほどのカラスが飛んでいた。
どうやらそのカラスたちは何やら運んできたらしい。
「どうもありがとう。烏丸にいずれ礼は必ず返すと伝えておいてくれ」
と荷物を受け取り、先輩はねぎらいの言葉をカラスたちにかける。彼らは揃ってギャアと鳴くと再びどこぞへと飛んで行ってしまった。
「さてこれが君への助けとなるだろう」
そう言って先輩は何かの包みを私へと放ってきた。私はそれをあたふたとしながらも受け取り、包みを開く。
果たして中には紅白のコントラストも鮮やかな、袴やら白い衣やらが入っていた。
「先輩。なんですかこれは?」
「君は物を知らないやつだな。それは巫女装束という。それぞれ白衣、緋袴、そしてその上着のようなものを千早と呼ぶ。君の大好きな猥褻作品にもよく出てくるだろう?」
「それは知っています。私が聞きたいのはなぜこれがここにあるのかということです」
「君は討性黒子男神様のもとで修業をするのだろう? 神に仕えるならばそれなりの格好をせねばならん。そのための巫女服だ。それと入っているのはそれだけじゃないはずだ」
カラスが運んできた包みをさらに開くと、黒い長袖セーラー服が出てきた。そして小さな紙片に妙に達筆な字で書かれた「ヨロシクオネガイシマス」の一文。
「今回の報酬としてそれを着た君の写真が欲しいそうだ」
「いい加減な方ですね」
「当然だ。いい加減でなければ仙人にはなれないさ」
茨木先輩はそう言って、いい加減にため息をついた。