六月 03
水無瀬嬢に案内された銭湯は、彼女の言った通りとんでもない古さであった。少しの地震でコントのセットのように崩れ去ってしまいそうなボロさである。すっかり日焼けして色の落ちた暖簾をくぐり、番台に金を支払いタオルやら何やらを借りていると、水無瀬嬢がこっそり耳打ちをしてきた。
「ためらいもなく女湯に入るのですね」
「? 当然だろう。今の私は黒髪の乙女だ。治安の悪化、人心の荒廃が叫ばれる昨今、このような美女が男湯に入ったならば、それはもう言葉にも映像にもできないような物凄い目に遭ってしまうのではないか。遭ってしまうに違いない。遭うのだ。それは避けねばならない」
「女湯に入ることに抵抗と恥じらいを感じつつ、それでも入らなければならない、というジレンマに苦しむお姉さまを見たかったのですが……」
変態娘が何か残念そうに言っているが、私は無視して適当なロッカーを陣取った後、緋袴を落とし、白衣を脱ぐ。
二月の頃ならばいざ知らず、今の私は黒髪の乙女として四か月間過ごしてきたのだ。女湯に入ること程度、造作もない。恥じらいに関しても、私は着替えや風呂などで毎日、理想の乙女の裸体を見ているのだ。今更有象無象の女性の裸身でうろたえるようなことなどない。ないのだ。
「では入りましょうか」
「――!!」
全ての衣服を脱ぎ去った後、彼女の言葉に振り向き、浴場へ向かおうとして私はうろたえた。
包容力に溢れた胸部がある。私はうろたえた。
鳩尾から下腹部へと続く絶妙なラインがある。私はうろたえた。
スラリと伸びた足がある。私はうろたえた。
私は一糸まとわぬ水無瀬嬢の姿にうろたえた。
そんな私に「どうかしましたか?」とにやにやしながら訊ねてくる水無瀬嬢。そんな彼女に「なんでもない」と言い捨て、私は冷静を装って浴場へと入る。餌付けされた犬猫のようにまとわりついてくる水無瀬嬢を適当にあしらい、体を手早く洗って、赤くなった顔を誤魔化すために湯船へと逃げ込む。
女性の裸身には耐性がついていたはずなのになぜこんなにもうろたえるのか――。
私の優秀な頭脳は、高校時代に話しかけることもなく終わった初恋の経験からすぐにも答えを出した。
美人の女優が桃色映像作品に出演しているよりも、知り合いが桃色映像作品に出演している方が興奮することと同じ現象である、と。
思い出すも忌まわしい裏桃色映像作品の記憶である。
水無瀬嬢が体を洗い終えた後、湯船に浸かる私の隣へとやって来た。
湯船に氷山のように浮かぶ、その豊満な胸部に目を奪われていると私の前頭葉が「黒髪の乙女はそのようなことをしない!!」と警鐘を鳴らした。しかし視床下部が反論をする。「いやいや。男子、外に出れば七人の敵がいるという。敵を知り己を知れば百戦危うからず」と。
そうだ。私はこの四か月間で己のことを知ったため、次はこの乙女の肉体を虎視眈々と狙っている敵のことを知らねばならない。これは情報収集であり、やましい気持ちなど何もないのだ。
私の視線に気づいたのか「触ってみますか?」となおもにやつきながら水無瀬嬢が問うてきた。視床下部は「ヒャッハー!! いけいけー!!」と大盛り上がりである。
だが肝心の性感伝達回路が、私とちんこが切り離された結果、分断されてしまっていたため、私は辛うじて理性を保つことができた。
私が何も言わないまま彼女を見つめていると、彼女は照れたように「お約束というやつです」と弁解をした。
「お姉さまが元男であったならば興味がおありかと」
「私はともかく、黒髪の乙女がそんなことを欲するわけがないだろう」
勝利を収めた前頭葉が冷静に水無瀬嬢に言葉を返す。もっとも――第二の脳たるちんこがこの体に付いていたならば、結果はわからなかったが。
「ではお姉さまのを触っても――?」
「助けて。この娘話が通じない」
「冗談です。お姉さまはどこか間抜けなんです。なんとなく付け込みやすさが見て取れるんですよ。こうして銭湯にほいほいと付いてくるような人ですし」
「私は汗も流したことだし帰らせてもらおう」
「冗談です。待ってください。このような裸の付き合いでこそ話すことのできる話というものもあります」
様子の変わった彼女を不思議に思い、私は湯船に再び身を沈める。彼女はざぶざぶと顔を洗った後、大きく息をついてから口を開いた。
「お姉さまの将来のことについてです。あくまで冗談として私はお姉さまをこれから四年間大学にとどめ置く、と宣言しましたが――」
「冗談じゃないだろう」
「まあ真意のほどはさて置いて」
「さて置くな。私にとっては重要な問題だ」
「お姉さまは三回生なのですから就職活動もそろそろ始めなければならないわけです。ところがお姉さまは元はお姉さまでなく、Y染色体に起因する生物であったとか。戸籍と容姿がかみ合っていない現在、お姉さまはどのような道を歩みになられるのですか」
水無瀬嬢は先ほどまでの黒髪の乙女の裸身にニヤついていた顔を引き締めて痛いところをついてきた。
「私たちの大学については『性転換手術をした』などというアクロバティックな嘘で誤魔化せたようですが、まともな社会ではそれは通らないでしょう。戸籍の性別と見た目の性別が一致しないのならばそれは十分に偏見の対象となりえます。まともな職業に就くことは難しいんじゃあないでしょうか」
彼女の言葉に、大学でいまだに私に向けられている、大多数の人物の無関係を装うとする微妙な空気を思い出した。
突然女性に変化した私に対する消極的ながらも拒絶の視線。この乙女の肌は普通の垢すりタオルでは赤くなるほど敏感なのだ。同回生たちから向けられる「気持ち悪い」といったオーラを肌で感じることなど造作もない。
一般社会でもこのような扱いは変わることはないだろう。大っぴらに批判こそされないだろうが、それだけだ。積極的に受け入れてはくれまい。
男か女かよくわからないような奴を受け入れるためにあれこれシステムや設備を整えるよりは、初めから受け入れないという選択肢の方がコストも時間もかからない。その上、受け入れた先に何か問題が起きれば、そのゴタゴタを片付けるための労力や、他者からの批判を受けて評判を落とすなどのリスクまであるのだ。
だが仕事をしなければ私は金を稼ぐことができない。己自身で自分を受け入れる場所を作り上げ、社会を渡っていくための金を稼ぐという選択もあったが、私にはそんな甲斐性も根性も才能もない。
だが文明化された社会においては、霞を食っていれば食費のいらない仙人でさえ万事金がないとやっていけないのだ。仙人でもない私はそれ以上に金がないとやっていけない。
ならば。
「修行をして神通力をため、男へと戻れば――」
「忌々しいことですが男に戻る方法はあるのでしょう。ですがいつ戻れるのですか? 一年後ですか? 十年後ですか? それまでお姉さまは男性でありながら女性の格好をしている変態とみなされるわけです」
何も言わない私に「変態を積極的に雇おうとする方は少ないでしょう」と水無瀬嬢は続けた。
「理由を正直に伝える手もありますが、そもそもお姉さまは他人との交流が苦手ですよね――まともに話しているのはサークルの会員の皆さんくらいじゃないですか?――そんな方が他人に、男が女に変わるなどという突拍子もない話を簡潔に説明することができますか?」
他者に対し、自身の体の変化を正直に伝えることによって生じる各種多様な具合不具合を勘案した結果、石橋を叩きに叩いて結局渡らぬ紳士たる男として導き出した結論が「黙っている」や「性転換をした」と述べるという選択だった。面倒臭い、いつか男の姿に戻れる、命に別状はないという思いもあったからでもあるが。
私の事情を正確に知っているのは『仙術研究会』のメンバーとカラス仙人や化け猫などの人外の物どもだけである。私は親にさえ私の体が女性となったことを伝えていなかった。
そんな他者に語ることのできない秘密を抱えたままできるような仕事と言えば――
「お姉さまの容姿ならば、夜の道ならば引く手あまたでしょう。その際はご一報ください。初めての客として立候補させていただきます」
「初めて会った時から思っていたが、この変態娘には一度思い知らせてやらなければいけないようだ」
「お姉さま酷いじゃないですか。少数派を差別してはいけません。私、傷ついてしまいます」
「多数派に適応したくても適応できないやつはともかく、好きで少数派をやってるやつがそういうことを言うんじゃない」
変態娘を水鉄砲で攻撃し黙らせる。これからのことを思うと複雑な話になっていきそうだった。
複雑なことを単純な頭で考え、私が知恵熱を出していると水無瀬嬢が「でも難しく考えることはありません」とこれまでの固い調子とは一転した優しい口調で語りかけてきた。ついでに手をいやらしく動かしてもいる。
「そんなお姉さまへの解決方法は簡単です。男に戻らず私と一緒になればよいのです。一生養って差し上げますので、ぜひ既成事実をば」
「寄るな!! 変態娘め!!」
「ああお姉さま。冗談です」
「冗談で乳をまさぐられてたまるか」
性欲に満ちた変態行為ではあっても彼女なりの愛情表現なのであろう。そんな汚いものはいらないが、無碍に拒否するのも憚られた。だから少し身を捩って、乙女の肉体に伸びてくる変態娘の手から逃れる。ある程度距離を取り、彼女に向き合うと「気は晴れましたか?」と訊ねられた。
私は頷く。風呂に誘われ、こうして水無瀬嬢とじゃれ合ったことで、男に絡まれた時に感じた根源的な恐怖や、元男である乙女の将来などという怪奇な問題からくるイライラが吹き飛んだことは確かである。
だから私はあくまで彼女の流儀で感謝の意を述べた。
「しかし――、改めて見るとやはり大きいな」
「ではお姉さま。触ってみますか?」
「私はともかく、黒髪の乙女がそんなことを欲するわけがないだろう」
異論疑問は数あるだろうが、友人に対して深刻にふるまわないことこそ、私の友人に対する礼儀である。




