六月 02
下宿先を北に折れ、数分も歩けば御池通に出る。そこから地下鉄東西線・南北線と乗り換えれば、中心街である四条通までは十数分とかからずに出ることができる。
そういえば自分で着る服を選んで買うなどという行為は初めてだった。男であったこれまでは適当に量販店に行き、サイズの合うものから値段の安い物を適当に買っていた。だが黒髪の乙女となった今ではそれはさすがにまずいだろう。京都の観光資源とはいかないまでも、せめて人から馬鹿にされない程度には着飾るべきだ。幸い、桂と名乗る神の求める春画を手に入れた報酬で、多少の無理はできるほどの金銭的余裕はある。
エアコンの効いた地下鉄の車内でどんな服を買うか思案した。長年童貞を貫いてきた身としては清楚さを秘めた白いワンピースなどがいいようにも思える。だがこれから襲い来る京都の地獄のような暑さを思い浮かべると、思い切ってもっと露出の高い服を着るのもいいように思える――。
○
――とは考えながらも私はTシャツとジーンズだけを購入していた。
私は悪くない。
この黒髪の乙女にふさわしいであろう衣服を売っている店に入ると、間髪入れず店員が近寄って来るのだ。そして「何かお探しですか」と問うてくる。もちろん探している物はあるが、漠然としたイメージしかない。そうそう簡単に言葉にできるわけがない。私は商品を見てからイメージを固めたいのだ。
そして何よりも店員の服装がいけない。なぜあんなにおしゃれなのだ。おしゃれな店におしゃれな店員。おしゃれでない客は入るべきでないと言わんばかりではないか。巫女装束と黒セーラー服しか持っていない私は涙した。
そんな私を癒してくれるのはユニクロと無印だけである。しまむらは四条河原町からは遠かった。
――いや。発想の転換だ。
一般的現代日本人の文化的嗜みとして必要不可欠だったので、下着を買うことは尻込みをする私の根性に喝を入れてなんとかした。だが服は猥褻物として通報されない程度ならばどうだってよいではないか。そもそも私はちんことの再合体を果たし、私と私のちんこで愛を育んだ女性との桃色遊戯を執り行うため、ちんこのもとで修業を修めて神通力を得るために巫女装束を着ているのだ。できる限り迅速に、約二十一年間、孤独に耐えてきたちんこに報いるためには、むしろ巫女装束を着続けるべきなのではないか――。
そう論理的に展開された思考にカロリーを消費しすぎたせいか、くうと乙女にふさわしい可愛らしい音が腹から聞こえた。
そういえば。
この辺りに屋台を出しているラーメン屋があった。裏通りにある児童の寄り付かない児童公園でひっそりと営業している牛スジラーメン。玉ねぎと鶏ガラの出汁を吸ったぶにぶにとした食感の牛スジの味は格別である。
黒髪の乙女にラーメンは似合わないと思い、この四か月間ラーメン断ちをしてきたが 裏通りにある屋台ならば人目を気にすることなく存分にラーメンをすすることができるであろう。そう考えるとどうしても食べたくなってしまった。
行くか――。行こう――。そういうことになった――。
夢枕的三段論法を用い、私はラーメンを求めて裏路地へと折れる。十メートルも歩けばそこには屋台が待っている。
そんな麺類を求めて足を踏み出した私の先に三人組の男たちが現れた。
小奇麗で妙に日焼けしたガタイのいい男ども。私が男であった頃は極力関わり合いを避けていたタイプの人種である。もちろん乙女となった私も極力関わり合いを避けようとする。
だが――
「あれ、巫女さんだよ」
「どうしたの? 一人?」
「うっわ。すっげー美人。ウソでしょ?」
相手の方から積極的に関わりを持とうとされてはどうしようもない。
うるさい。嘘なわけがあるものか。この黒髪の乙女は私が長年思い描き続けていた理想の乙女なのだ。当たり前のことを言うんじゃない。
そう私が身に付けてもいないテレパシーを彼らに送っていると、
「何? 怖がんなくてもいいよ?」
男たちの一人が馴れ馴れしくも肩に手を乗せてくる。
治安の悪化、人心の荒廃が叫ばれている昨今とはいえ、この黒髪の乙女に気安く触れるような不届き者がいたとは。このまま何も言わなければ、今度ばかりは冗談ではなく、言葉にも映像にもできないような目に遭ってしまうのではないか。遭ってしまうに違いない。遭うのだ。それは避けねばならない。
私はテレパシーを諦め、拒否の言葉を口にした。
「そもそも私はむにゃむにゃむにゃ」
男であった時でさえ、この手の連中とは妙な距離感及び恐怖を感じて近寄らないようにしていたのだ。元の男の姿と段違いに華奢な肉体となってしまった上、物理的に近寄られた今、恐怖心ははち切れんばかりでロクに声も出ない。
「君、顔色悪いよ? 静かなところで休んだ方がいいって」
お気遣いは結構、そして顔が近い。やめろと口にしたいがむにゃむにゃという声しか出ない。そう私が精神的危機に陥っている間に、私と男どもの距離はさらに縮まり物理的危機に陥る可能性まで生じてきた。なんとなく太腿を撫でられている気もする。端的に言って気持ちが悪い。
黒髪の乙女となって半分浮かれていた自分が阿呆に思える。というか阿呆である。もっとリスクマネジメントを徹底すべきであった。具体的には服を買いに行くための服を用意しておくべきだったのだ。そしてその服を買うための服を買うための服を――
「お姉さま。ご無事ですか?」
私がそんな堂々巡りの考えに陥っていると、寺町通の方から妙に落ち着いた声がした。私を取り囲む男どもと一緒にそちらの方を見やるとそこには、彼女の先輩である私と四年間の大学生活を過ごしたいがために私を落第させ続けると宣言した変態娘、水無瀬嬢の姿があった。
「人を呼んで来ましたので、お姉さまはもう少しの間その羞恥に打ち震える顔を晒したままお待ちください」
と、彼女はのたまいながらスマホのカメラを操作する。何度も切られるシャッター音に怯んだのか男どもが私の体から離れた。
「ちょ、ちょっと待ってくれよ。俺たちはただこの巫女さんと話してただけだって」
「そうそう、この子も嫌なら嫌と言っただろうし……」
「ああ、お姉さまから離れてはいけません。不届きな行為をしている証拠写真と恥ずかしがるお姉さまの写真が撮れないじゃないですか。――そしてお姉さまはこの私ともまともにお話をしてくださらないほど対人能力に難があるのです。ましてや赤の他人とまともにお話などできるわけがありません」
「……おい、こんな危なそうなやつ放っておこうぜ」
と、なおも写真を撮り続ける水無瀬嬢に愛想が尽きたのか、男どもは裏通りの奥の方へと足早に去って行ってしまった。後には黒髪の乙女と変態娘だけが残された。
これは考えようによっては先ほどよりも非常にまずい事態ではないのか――。そう感じた私は変態を刺激しないように落ち着いた声で話しかける。
「水無瀬さん、奇遇だな」
「いえ、奇遇ではないのです。お姉さまの男性淫猥物から、お姉さまが買い物に行くのでアドバイスをしてやってくれと電話で頼まれましたから、四条でお姉さまを探していたのです」
「そうか。ちんこに後で礼を言っておこう。いいタイミングだった」
「ええ、出るタイミングを計っていましたから。買い物をしているお姉さまを見つけたのはいいですが、つい付け回すことに夢中になってしまって……」
「さっき私が水無瀬さんとまともに話をしない、と自分で言っていたな……。その理由を理解できるか?」
「人見知りだからですよね」
私は久々に神を呪った。つまりちんこを呪った。よりによってこんな阿呆を遣わしてくるなんて!!
「お姉さま、お顔がよろしくない」
「この黒髪の乙女に対してなんて言い草だ」
「冗談です。ちょっと元気づけてみようと高槻先輩の真似をしてみました。少し顔色が良くないだけで、お姉さまの容姿は相変わらず私の理想です」
そう言いながら私の腕に自分の腕を絡めてくる。この黒髪の乙女よりも随分と豊満な乳の感触が白衣越しに伝わってきた。その乳の放つ母性にやられてくらくらとしている私に、なおも水無瀬嬢は言葉を続ける。
「ちょうど四条大橋を渡った先に銭湯があります。古いですが、その分値段もとびきり安いので、ご一緒にいかかですか? きっと気分も落ち着くでしょう。それに汚らしい男に触られていましたね? この際しっかり洗ってしまいましょう。洗って差し上げます。さあさあご一緒に」
確かに、今から思い返しても頭の血がスッと下がっていくような身の危険に対する恐怖を、べっとりと襦袢に染みついている冷や汗と共に洗い流すことができれば言うことはないだろう。だが――。
「大丈夫なのか? 水無瀬さんのような変た――特殊趣味娘と一緒にいると身の危険を感じて仕方がない」
「いくら私でも真昼間から公共の場で猥褻行為に及んだりしません」
と水無瀬嬢はその豊満な胸を張った。だがこの変態娘、陽が沈んでから非公共の場で猥褻行為に及んできたのである。警戒を緩めてはならない。




