五月 01
文化系サークル棟三階のとある一室。ここは大学非公認サークルである『仙術研究会』が交渉の末に共有することを捻じ込んだ、ゲーム同好会のボックスである。よくわからない雑貨屋もどきに出かけてはプログレがどうのこうのと言うエセ文化系の来ない、正真正銘、童貞たちに残された秘境でもある。
この部屋の住人たちは皆が皆、女性に対して奥手でありながらも妄想の世界やゲームの世界では桃色遊戯の達人である。そして彼らはお互いの持つ童貞オーラに捻じ曲がった仲間意識と優越感を抱き合っているのだ。その結果醸し出される独特の親近感が私は好きだった。というか女性化したおかげで周囲から『モロッコ』と呼ばれ、そのくせ絡んでくるでもなく無視するでもない微妙な空気に包まれた私を癒してくれるのは、以前の私と似たような童貞オーラを放つここの住人くらいのものだ。
彼らがこの黒髪の乙女の肉体及びその奥の神秘に興味津々なのは、その目線を追えばわかる。正面からならば慎ましき処女性を秘めた白衣の乳に、後ろを向けばつんと小気味よく持ち上がった魅惑の尻に、腕を上げれば肌の白さも眩しい二の腕ちらりに、彼らの視線を感じるのだ。
だが彼らは私と同じ紳士である。世間一般でヘタレと呼ばれる人種でもある。私の二十年間積み重ねられた童貞黙示録によると、彼らが変態娘水無瀬嬢のように色に狂うことはできないのだ。精々が最近読んだ小説やゲームなどの話題をおずおずと振ってくるだけである。
五月も半ばを過ぎた頃、私がそういったオアシスで黒髪の乙女にふさわしいであろう適当な恋愛小説を読みながら昼休みを寛いでいると、
「おお、オタサーの姫ですね」
との私の不幸を願ってやまない悪魔のような声がかかった。
「姫ではない。ちんこの巫女だ」と反論しながら振り向くと、予想通り下品かつ不気味な笑いを顔に浮かべた悪魔のような男、高槻が立っていた。
「おお、高槻殿」
「男神様もこんにちは。どうです、調子は?」
「ぼちぼちだ、高槻殿は?」
「僕もまあまあといったところですね」
私の膝の上で同様に本を読んでいたちんこが律儀に高槻に返事をした。わざわざこんな奴にすることもないだろうに。
「で、何の用だ?」と訊ねた私に、高槻は澄ました顔をしながら手を突き出してくる。
「あなた、そろそろ僕への巨大な借りを返してください」
「借り? なんのことだ? むしろ私としてはお前と出会ったことで受けた多大な機会損失を補填して欲しいのだが」
「そんなものはあなたが勝手に落ちぶれていった結果でしょう。僕は言いたいのは神棚の話です」
「かみ……だな……?」
「あーあー。そうやって惚けちゃう気なんだ。男神様への神棚を用意する際、僕がその費用を立て替えてあげたじゃないですか。もうそろそろ二か月になります。ちょっと今月物入りなので耳を揃えて返してください。」
立て替え。値段。ごまんえん。
そういえばそうであった。
高槻による、肛門灼熱地獄、私の草履を床に接着する、白衣の背に愛羅武勇などと縫い込むなどの筆舌に尽くしがたい行為の数々のせいで忘れていた。というかそれらの悪行に対する詫び金代わりとして私にくれてもいいのではないか?
そう言うと、彼はきいきいと恨みがましく鳴いた。
「あなただって僕の車を卑猥な桃色でデコレーションしたりパソコンのキーボードでカイワレ大根を栽培したりしたじゃないですか。おあいこですよ」
「まだ差し引きで私の方がひどい目にあっていると思う。そうは思わないか? なら――」
「それとこれとは話が違いますよう。友人同士だからこそ、お金の貸し借りはちゃんとしないと」
「お前を友人と思ったことなど一度もないぞ」
「またそんな捻くれたことを言う」
「せめていくらかまからんか?」
「まかりません。利子を付けて欲しいくらいですよ」
「だが金がないのだ」
黒髪の乙女となってから、この美貌を維持するために出費がかさんで仕方がないのである。
男であった頃にはシャンプーやらリンスやらでこの黒髪の艶に差が出るなど思いもよらなかった。見た目もよろしく付け心地も良い下着を一揃い揃えるにも結構な金がかかるなど思いもよらなかった。理想の乙女たるもの料理も得意であるべき、という信念から始めた自炊によって食費だけは押さえられているものの、その他の出費は膨らむばかりである。
「じゃあその体で何とかしてください」
「この野郎。なんて破廉恥なことを。いくら恥知らずのお前でも恥を知れ」
「何を勘違いしてるんですか。あなたバイトをしていないでしょう。まっとうに働いて金を作ってください、ということです。もっとも破廉恥仕事をしたいのならそれでもいいですが。どんな仕事をしていたって僕はあなたを軽蔑なんかしたりしませんよう」
「ふざけるな」と私が口を開くよりも先に、高槻は「おっと、もうこんな時間だ。それでは」と言うとボックスから慌ただしく去ろうとする。そして去り際に「手っ取り早く稼ぎたいのなら水無瀬さんを紹介します」と言い残して行ってしまった。
冗談ではない。あのような変態娘と一緒にいればこの黒髪の乙女の神秘性は一発四散してしまうではないか。
かと言って、求人情報誌に乗っているようなものでは時給も低く、とてもではないが今月中に高槻への返済は不可能であろう。うんうん唸っていると私の膝の上からちんこが口を出してきた。
「貴君、大学生協で家庭教師なんかの仕事を紹介しているはずだが」
「私が他人に何かを教えられるような人物だと思うのか」
「思わぬ」
「この野郎」
「では引っ越しスタッフというのはどうだ?」
「乙女の細腕では耐えられないだろう」
「レジ打ち……」
「客商売など以ての外だ!」
「貴君は選り好みが激しすぎるな」
ちんこは面倒臭い奴め、とでも言いたげなため息をついた。ため息をついた後、しばし瞑目し――目などないのだが――「桂殿を覚えているか?」と訊ねてきた。
「この間、貴君を呑みに誘ったときにいらっしゃった平安貴族風の方だ」
そういえば覆面で顔を覆った不審者もいたような覚えがある。だがあの場は変な存在ばかりであったし、初めて楽しく酒を呑めてふわふわしていたのでよく覚えていなかった。曖昧な返事をする私にちんこは続ける。
「あの夜の酒は全てあの方が用意してくれたものでな、礼をしたいと申し出たのだが、いらぬと言う。それでも食い下がったら、ならば頼みがあると切り出された」
「頼み? 神に関わると大概の結末はロクなものではないと記憶しているのだが」
よく聞く伝説では、神に言い寄られたり、無理やり手籠めにされたり、望まぬ結婚生活を送らせられたり、その結果殺されたり。
そのようなことを連想して憮然とした顔をする私にちんこは心配するな、と肩を叩く。そして、
「桂殿は浮世絵の収集を趣味とされているのだが、とくに写楽に凝っていらしてな。京都のどこかに写楽の春画があると聞いてどうしても欲しくなったそうだ。だがどこにあるのかさっぱりわからん。それでもし見つけ出して手に入れてくれるのなら、報酬の他に特別な酒も分けてくれるそうだ。経費も向こうもちなことだし、よければやってみるか?」
と問うてきた。
なるほど。春画を探し求めるのならば、まさか命に関わったり貞操に関わったりするようなことはないだろう。それに何やら楽しそうだ。
私は軽く息を一つついて、ちんこに向かって姿勢を正した。
「よしやろう」
「そうか。今度桂殿と語り合うといい。猥褻図書収集家の貴君ならきっと彼の御仁と話も合うだろう」




