嬉し涙
あれから数週間経った。回復力の高いお陰で、俺の足は思ったよりも早く治り、多少の違和感を除けば、普通に歩けるまでになっていた。
あれから研究所に戻ったが、博士からは軽く小突かれただけで何も言われなかった。助手曰く、博士は千里を見通す目を持つ神であり、会話は筒抜けだったらしい。
「コウが逃げた場所も博士が特定してくれたんだよ」
「私はほっとけばいいのに言ったんだけど、ケガしてるっていったら、ヨウジ君が聞かなくてね」
「当たり前ですよ。それに、あのままほっとけなかったし」
「本当に、ヨウジ君はお人好しだね」
「うん。俺の、世界じゃ、一番、に、死んでる」
「だまらっしゃい」
その後、何故か俺だけ頭をぐりぐりされた。痛くなかったが、なんか理不尽だ。
それから、この研究所が何か調べているか教えてもらった。ここは、幻界の異常を調べたり、妖精や精霊、神の健康管理を担う場所らしい。この世界は、現世の影響を受けやすく、与えやすい場所みたいで、それをきちんと管理しないとどちらかが甚大な被害をこうむってしまういう、表裏一体な影響の受け方をしている。なので、現世で何かあれば、住人に影響が出て、幻界で何かあれば、地形に異変が起こるらしい。
今俺は、書類の整理や歩ける範囲の現地調査などのお手伝いを助手と一緒にしている。
「コーウ!」
「助手」
「ヨウジだって! ほら、ヨ・ウ・ジ」
「……ヨウジ」
「なにその不満そうな声」
「慣れない」
「慣れてよ」
助手はそう言って頬を膨らますが、慣れる気は毛頭ない。あと数日もすれば俺はここを出ていく。それなのに、これ以上ここの心地よさに慣れてしまったら、きっと一人で立っていられなくなってしまうから。
……どこに行っても、この世界にいる限りは博士の目から逃れることは出来ないが。
「今日は湖の調査?」
「うん。その、前に、博士の、部屋に、行く」
「何か用あるの?」
「博士が、来てって」
何の用なのかは、実は俺も聞かされていない。正直、あの人の考えることはわからないことが多い。そのせいで、振り回されたことがこの短い時間で既に何回あったか。まぁ、姿は人間と言っても中身は神様だ。俺の考えの及ばないことを考えているのかもしれない。
博士の部屋のドアを叩き、中に入る。何故か助手も一緒についてきたが、気にしないことにしよう。
「やぁ、コウ君」
「要件」
「そう急かさないで。最初に、この子達を君に返そうと思ってね」
「え?」
「銀君、黒君」
銀、黒。その名前には聞き覚えがある。いや、聞き覚えがあるなんて次元ではない。
だってそれは、その名は。
「まーすたー!」
「……主様」
博士の後ろから飛び出したのは……、予想していたものとは百八十度違うものだった。
「わっ!」
俺に抱きついたのは、小さな男の子と女の子。
女の子は、腰まである長く真っ直ぐな白銀の髪。湖のような深い蒼の瞳。乳白色の肌。桃色の唇。ふんわりとした白いドレスのようなものを着ている。ぱっと見た感じ、どこかのお嬢様のようだ。
対照的に男の子の方は、黒が目立っていた。肩にかかる位で切られた、癖の強い墨色の髪。燃え盛る炎のような紅い瞳。健康的な肌色。血色の良い赤い唇。皺ひとつ無い黒い燕尾服。こちらは、どこかの執事のようだ。
と、目の前の二人の分析してしまったのは、脳内処理が追い付かないというのもあるが、あまりにも予想外過ぎたこともあるだろう。
さっき博士も言ったが、銀と黒という名前は、あの時、俺が置き去りにした、ナイフに刻まれた銘の事だ。決して人間ではない。
パニック寸前の俺を置いて、少女の方は、頬を膨らませてぶーぶ言っている。少年の方も少年の方で、無表情ながら怒りのオーラだだ漏れさせていたが。
「マスター! あたしを置いてくなんて酷いですー!」
「……僕も置いてかれた」
「えっと、え?」
「博士、この子達は?」
ナイス質問だ助手。
「コウ君のナイフである銀君と黒君だよ。付喪神ってやつ。この世界で人間の姿になれるようになったって」
「けど、コウのナイフって一本じゃありませんでしたっけ?」
「元々二本だったのを一本に成形され直されたみたい」
「うん。この子、達は、元々、双子、ナイフ、だから」
そう。あの時、俺が買ったナイフは黒と銀の2本だ。店主によると、二つを別々にすると買った人が必ず死に、同時に買っても2振りに見初められないとこれまた買った人が死ぬというかなり曰く付きのものだった。
当時の俺は、折れない武器が欲しかったので、例え曰く付きだろうが、死ぬ呪いがかかってようが、一級品である事には変わりないので、俺は喜んでナイフを買った。
食費を削って手入れをする道具を買って、毎日のように磨いていた。空腹で腹が悲鳴を上げても、理不尽な暴力にあっても、二本を磨いている時だけは、なにもかも忘れられたのだ。今振り返ると、あの時の俺は、初めてのおもちゃを与えられた子供のようだったな。
そんな努力も虚しく、二本はものの数が月で粉々に折れてしまったが。
「あの時、は、大声、で、泣いた」
「わんわん子供のようだったね。マスター」
「……けど、嬉しかった。こんなに大事にしてくれたの、主様だけだったから」
「あたし達が折れた原因は、前の持ち主が滅茶苦茶な使い方してくれたツケだしね。まっ、全員ぶっ殺したけどね」
「……それに、折れたから、銀と一緒になれた」
「うん! ずっと黒と一つになりたかったから、マスターが一緒に作り直してくれて、とても嬉しかった!」
「そっか」
言いながら、俺はずっと心に引っかかっていたものが、やっと消えた気がした。
鍛冶屋に打ち直してもらうと決めたあの日から、ずっと残っていた後悔と罪悪感。あのまま別のものを買ってしまった方がいいのではないか。いくら同時に作られたとはいえ、一つにしてしまうのはどうなのだろうか。どんな結果になっても、出来たものを今まで以上に大切に扱おう。今もそう思っているが、ふと、これでよかったのだろうかと考えてしまうことがあったのだ。
二つを一つにしてよかった。大切に使っていてよかった。今そう初めて思えた。
「俺こそ、選んで、くれて、ありが、とう」
「それはあたし達のセリフだよマスター」
「……これからも、ずっと一緒」
「うん」
壊さないように、そっと二人の頭を撫でていると、ごほんとわざとらしく博士が咳ばらいをした。そうだ。二人の存在を忘れていた。
「それで、俺に、なにを」
「それなんだけど、コウ君には、これから神殿に行ってきて欲しい。いや、行かなければならないの方が正確かな」
「え?」
「君がこの世界に来た理由。それが、神殿に行けばわかる」
「理由……」
「それに、君にはあまり時間がないようだし」
「え?」
博士は、一瞬、言いよどんだ。すぐに口に出せない程、重く深刻な事なのだろうか?
「……。先程分かったんだけど、君はどうやら、本来の体のまま、この世界に来てしまっているようなんだ」
「どういう事ですか!? 迷い人は仮の体で入っているだけで、本来の体は現世にある筈なんじゃ」
「異世界の人間っていうのが、それの秩序を大きく超えてしまったらしいね。彼は正真正銘彼自身の体だよ。だけど、いくら異世界から来たとはいえ、人間の体でこの世界にずっといられない」
「そのため、の、神殿」
「そう。このままだと近いうちに、体ごと消滅してしまう可能性がある」
「っ!」
「そうならない為にも、早急に神殿へ向かって。私も、成り行きとはいえ、救った人間に死なれたら、夢見が悪いからね」
「けど、神殿に行くには通行証が必要なのではないですか?」
「それは特例で発行してもらった。真実の泉でこれを見せれば、もらえるから」
そういって渡されたのは、透き通る緑の石の中に、文字の書かれた紙が入れたもの。これは、証明石といって、重要事項な事を伝達するために使われるものらしい。どうやら、この中に埋め込まれた紙を取り出せるのは受取人だけで、無理に読もうとすると、簡単に砕けてしまうという、驚きの能力を秘めている。
「神殿はこの世界の中心にあるから、南にまっすぐ行けば必然的に着く。真実の泉は神殿に一番所にある集落の中にあるから、迷わないと思うよ」
「はい」
「少しだけど、旅の用意を。ごめんね。分かったのが急だったから、あまり用意できなくて」
「いいえ」
手伝いしかしてないのに、ここまで用意してくれる人なんて早々いないだろう。ヨウジもヨウジだが、博士も相当のお人好しだ。
それに、最初から出ていくつもりだった。それが少し早まっただけなのだから、なにも計画は変わらない。
「……」
変わらない、筈なのに……。
「コウ!」
「助手?」
「ヨウジだって! じゃなくて。神殿で用済ましてきたら、きちんとここに帰ってくるのよ」
「なんで?」
「なんでって、あんたがいないと私の仕事倍になるし」
「助手に、なら、できる」
「そんなお褒めいらないから」
「じゃあ、なんで」
「だって、そういっておかないと、コウどこか行っちゃうでしょ!」
「……」
「私もいつ元の世界に戻るかわからないけど、黙っていなくなるなんて許さないから。どっちが先でも後でも、またねは絶対するの。しなきゃいけないの!」
「なん--」
「そうしなきゃ、後悔するからに決まってるからでしょ馬鹿!」
きっと、ここに来る前に何かあったのだろう。助手は、叫びながらも泣きそうな顔をしていた。いつも緑の瞳は、後悔と懺悔で揺れていて、いつもの綺麗が見えないのが、とても残念だったと思う同時に、自分がその原因の一つになるのはどうしても嫌だった。
だからだろう。
「分かった。かえって、くる」
絶対しない方がいいと分かっている約束をしてしまったのは。
「絶対だからね!」
「うん」
「ここが、コウの家なんだから!」
「うん」
「帰ってきたら、私の名前ちゃんと呼んでよ」
「うん」
「何日、何年たっても待ってるから」
「うん」
まるで、今生の別れみたいだ。それはそうだろう。俺はまたここに帰ってこれるかの保障なんて、ないのだから。
けど、初めて他者とした約束を、仮初めとはいえ、手に入れた居場所を失いたくないと強く願っている自分がいるのは確かで。たった数週間なのに、俺の中でここ場所の存在が思ったよりも大きくなっていることを思い知らされる。それを自覚したら、思わず笑ってしまった。
なのに。
「っ……」
視界がぼやけて助手と博士の顔がうまく認識でしないのは、何故だろう。
「コウ!?」
「ヨウジ! マスター泣かせないでよ!」
「えっ、私のせい!?」
「主様、どこか痛いの?」
「ううん」
痛くない。どこも痛くない。悲しくもない。なのに、涙が溢れて止まらない。自分はいつの間に、こんなにも涙もろくなってしまったのだろうか?
正体不明の零れる涙。その理由は、あっさりと博士が教えてくれた。
「それは、嬉し涙だね」
「うれし?」
「人間は、嬉しい時にも涙が出るみたいだから。コウ君のはそれだろうね」
「俺……」
「こんな辺鄙な場所に帰りたいって、戻ってきていいと言われて、嬉し涙流してくれるなんて、なんだか嬉しいね。私も泣こうかな」
「博士が泣くと気持ち悪いだけです」
「うわぁ酷い」
「それに、私達は家族みたいなものですから、戻って来て欲しいと思うのは、当たり前でしょ」
「か、ぞく?」
家族。その内容を理解するのに、かなりの時間がかかった。家族? 俺が、この二人の?
「なれない」
「え?」
「俺は……」
「汚れてるとかいうんでしょ。関係ない」
言おうとしていたことを先に言われてしまい、思わず押し黙る。そんな俺に、助手は抱き着いた。最初の時は、パニック状態になったが、毎日のように抱き着かれて慣れてしまった。慣れとは本当に恐ろしい。
助手は、抱き付いたまま、俺の頭をそっと撫でられた。何故だかわからないが、助手に撫でられると、とても安心する。
「昔のあなたは、汚かったのかもしれない。けど、今は、あの時のあなたじゃない。ここにいるのは、コウ。クラウン博士の手伝いをしているコウっていう一人の青年」
「……」
「血は繋がってないし、会って日も浅い。けど、私はコウの事、もっと知りたい。もっと仲良くなりたい。家族になりたい」
「……幻滅、するかも、よ」
「幻滅するなら、あの襲われた時にしてるわよ」
「変わり、者、って、言われ、ない?」
「お互いさまでしょ」
「……」
「コウがどう思っているかは、分からないけど、私はそう思ってるから」
それだけは覚えておいてね。そう言って離れていく、助手の温もりがとても名残惜しくて、思わず追いそうになってしまった。けど、きっとそれを追って自分の腕に閉じ込めるのは、今ではない。
「……」
研究所の前。俺は、博士が用意してくれた荷物を背負って、いつの間にかナイフに戻った二人を腰にさす。いつもより少し重い体。けど、それが今はとても心地よい。
この重さは、心配されている、また俺が戻ってくると信じている博士の思いの重さだから。
「いってらっしゃい! 気を付けてね」
「くれぐれも無理をしないようにね」
「……」
嗚呼、こういうときってなんて言うんだっけ? そうだ。ずっと憧れえてた挨拶の一つだ。
「いってきます」
途切れず口から零れた言葉は、今までの発して言葉の中で一番輝ているように聞こえたのは、きっと気のせいではないだろう。
必ず帰ってくる。そう決意し、俺は南へと足を進ませたのであった。