真実と名前
*カニバ表現注意
「では、最初にこの世界のことを説明しようか。ヨウジ君よろしく、私は治療してしまうから」
「はい博士」
助手は、ぽんと手を叩くと、黒い板と白い棒みたいなのを取り出し、板に何か書き始めた。俺は昔、雇われた依頼人に喉を潰されかけてから、途切れ途切れにしか話せないが、言葉は使える。だが、文字はそれ程必要なかったせいか、必要最低限しか分からない。機密用語みたいなもので説明されても困る。
だが、その心配は無用だったみたいだ。
助手が書き終えたのは、三つの不思議な絵だったから。何を意味しているかまでは分からない。しかし、これなら俺でも理解できそうだ。さすが助手。
「この世界には、三つの世界があります」
「うん」
「一つは、現世」
そういって助手は、一番下の人間らしきものが沢山書かれたものを指した。現世という言葉はなんとなく聞いたことがあった。確か、現実世界の事ではなかっただろうか?
「ここは、一般の人間が住んでいる所です。何をしても許されますが、死という概念があります」
やはり合ってた。そう思っていると、助手が次に指したのは、一番上の円が縦長に描かれたところ。
「そして、二つ目が天界と地界。この世界は、死後の人間が行く世界です。コインの裏表のように世界がくっついていています。死んだ人は、地界で現世で犯した罪のの罰を受けます。天界では、地界で罰を受け終わった人が、次現世に生まれ変わるための準備をする所になっています」
そして、最後に助手がさしたのは、二つの世界の真ん中に描かれた細長い世界。
「ここ私たちのいる世界、幻界」
「幻界?」
「死という概念がない生き物が住まう場所。それがここ幻界です」
「死がない?」
「妖精や精霊。そして、神。そのような人間の中では伝説上の生き物と言われている者たちがここに住んでいます」
「君も、そうなの?」
「私は……」
「ヨウジ君は違うよ。迷い人の一人」
「まよ?」
「迷い人とは、現世の体が生きていながら、意識が体に戻れない人の事を言います。意識不明や脳死なんて言われるんですけど、そういう人はたまにこの世界へ迷いこんでしまうらしいです」
体は生きているのに、精神は別の場所へ。それは、もう既に死んでいるとも同じなのでは。思わずそう言いかけたが、俺は、喉まで出かかった言葉を飲み込む。
助手が、一瞬とても辛く悲しそうな表情をしたからだ。俺の世界だったら、意識不明になったら、即殺されて、新鮮なうちに臓器を抜き取られて金にされるだろう。だが、この世界では、もしかしたら違うのかもしれない。そうだ。これだけの緑が残っているということは、助手のいる現世という世界もこれくらい綺麗なのだろう。それなら、貧困のせいで、親が子を捨てることも、生きる為に手を汚すことも、金を狙って命を狙われ震えることも、貴族たちに憎しみを持つこともない。
平和。とても遠くて、綺麗ごとにしか聞こえない言葉。これが彼には、とても身近だったのだろう。
きっと彼には、とても大切な家族がいて、その家族も彼をとても大切にしている。そして、必死に働いたお金を使って医者に頭を下げ、機械や薬などで彼の命を保っているのかもしれない。
いつか、彼が目を覚ます。そう願って。
「……いいな」
「え?」
はっと目を見開き、思わず口を手で覆い、助手から目を逸らす。何故、こんなことを言ったのかわからない。けど、俺には持ってないものを全部持ってる助手が、とても綺麗で、無償にうらやましくて、ずるくて……空しかった。
俺には、命よりも大切なものも、命を懸けて助けてくれるような人がいないという氷の刃を再び突きつけられているみたいで。
血に汚れた手には、心に突き刺さる氷の刃は溶かすことは出来ない。それなのに、刃は暖かいものを見る度に、深く突き刺さり、心にヒビを入れていく。痛みはない。中身はとうに零れて空っぽになってしまったから。残るのは、小さな良心と大き過ぎる負の感情。その感情も、最後には心と一緒に砕けて、俺は機械のように動く肉の塊になっていくのだろう。
冷たくて、汚たない。それが俺。だから俺は、暖かくて綺麗なものを見ると。
「っ!」
「……」
無償に、壊したくなる。
「ヨウジ君!」
「来るな」
一瞬で助手の首を捕らえ、地面に叩きつけた俺は、近付こうとする博士を殺気混じりに睨み、その動きを止める。今からが楽しいんだ。邪魔させるものか。 この、獲物をぐちゃぐちゃにして、血を啜り、肉を貪るのは俺だけだ。綺麗なものがこの手で壊れる時だけ、俺の空っぽの心は満たされる。氷の刃が少しだけ抜けるのだ。
「いいね。綺麗」
「ひっ!」
俺の下で、涙目で震えている助手に、思わず笑みが浮かぶ。そうだ、その顔。彼のような人間の絶望と恐怖に歪んだ顔は、興奮する。今この綺麗な緑の瞳は、俺の瞳のように濁り始めている。冷たく、どろりと淀んだ汚い感情へと変わっていっている。これ以上に感情の高ぶることは、そうそうない。
俺は、抵抗されないよう助手の首を絞めながら、服から露出していた、肩口に思い切り噛み付き血を啜る。口の中に溢れる紅は、芳醇の果実のように甘くて濃厚だ。久々の栄養に、体の細胞が喜んでいるのが嫌でもわかる。
食べ物なんて、いくら働いても手に入らない場所にいたせいか、俺の栄養摂取はいつしか、殺した人間の血肉になっていた。最初は気持ち悪くて何度も吐き、その味の悪さに顔を歪ませたが、生きる為にと我慢しているうちに普通に食べれるようになった。
けど、ここまで美味な味の血は初めてだ。前に食べた、なにかに味が似ている気がする。
……そうだ。数年前の貴族の殺しで潜入したときに偶然食べた、あの人工ザクロだ。初めて口にしたみずみずしい果実に、感動したのを今でも覚えている。
もっとと、体がいう。もっと血を肉を欲しいと。この綺麗で暖かなものを壊したいと。
「もっと」
もっと欲しい。
隠し持っていた刃で彼の服を切り裂く。肌も滑らかでとても綺麗だ。この肌を裂き、中に眠る内臓や血で染め、飾り付けたら、もっときれいに。
「……え?」
綺麗に? なんで? 汚すんだろ? これを。壊して、ぐちゃぐちゃにして。暖かさを奪って冷たくして。瞳を曇らせて、心を奈落へ突き落とすんだろ?
なのに、何故俺は、綺麗って。
「ぁ、あ」
ナイフが手から滑り、助手の横に落ちた。そうだ。血も、恐怖に染まった緑の瞳も、震える体も、絶望する心も……全部綺麗なのだ。どんなに手を加えても綺麗になる方法しか考えられない。
俺には、彼を汚したり、壊す事が出来ない。そう思った直後だった。目の前のものが、綺麗で暖かいものから恐ろしいものに変わったのは。
「っ!」
怖い怖い怖い! まるで、パニックになった子供のように、それしか考えられない。とにかく、この目の前の恐怖から逃げたかった。
地面に突き刺さったナイフをそのまま、助手の上から飛び降り、森の奥へ駆け出した。怪我の痛みは痛覚を無理矢理遮断して走れるだけ走る。できるだけ遠くへ、追いかけてこれないくらい距離を開けたい。その一心で無我夢中に走った。
「っぁ!」
がくんと右足から力が抜けた瞬間、木の根に左足が突っかかり、盛大に転んでしまった。相当走ったが、未だに恐怖が抜けない。
「足、動かない」
痛覚を遮断してたせいで気付かなかったが、相当無理をさせた右足は、大きく腫れて赤黒くなっていた。完璧折れている。この足でこれ以上の移動は、どう考えても無理だ。
「……」
這ってでも進むか、此処で休むか。なんとか冷静になってきた頭が弾き出した答えは後者。
思わず逃げてきたが、別に助手は殺してないし、あれくらいの傷なら数日で治る。それに、害をなすものを向こうの方から追ってこないだろ。
「あ、ナイフ、置いて、きた」
殺しを職業にしてから、初めて買った一級品の武器。他の道具以上に丁寧に手入れをして、結構手になじんでいたものだった。俺にとって、相棒のようなものだが、取りに行くわけにもいかない。
「……」
なんとか身を起し、木にもたれかかる。いつの間にか日も落ち、辺りは薄暗くなっていた。それにしては明るいなと、上を見上げ、俺は目を丸くした。
木々の間から見えたのは、降ってきそうな程の沢山の星と黄金に輝く月。ネオンの輝く嘘くさい夜の世界なら、嫌と言うほど見てきた。そのせいか、夜の世界なんて、腐った貴族が動き出す最低な時間、仕事をする時間という概念しかなかった。
それが、一瞬で払拭された。それ程、この自然の光源は、美しく、可憐で、壮大に俺の目に映りこんだ。
「このまま、死んでも、いいかも」
生きる為に人を殺してきた。生きる為に、手を汚してきた。けど、心はいつも空虚で、なんの為に生きているのか、その答えがずっと出なかった。
けど、この空を見て分かった。俺はこんな世界をずっと見たかったんだと。
綺麗なものを沢山この目で見て、この手でそっと暖かいものに触れたりしたかっただけなのだと。
多分、今まで壊し、汚してしまったのは、加減を知らなかったから。
「……っ」
不意に視界がぼやけた。刹那、堪え切れない程の熱が体の奥から溢れて、その激流が雫となって目尻から零れ落ち始める。それは、止まる方法なんて知らないかのように、次々と頬を伝い続けた。
涙なんて、いつぶりだろうか。いつ流したか覚えてないくらいだから、本当に久々なのだろう。
「ふっ、……グス、ヒック」
「泣てるの?」
「っ!」
前方から突然聞えた声に、思わず武器を構えながら立ち上がろうとして……顔面から思い切り倒れる。しまった。足が折れていたの忘れていた。それに、声をかけられるまで気配に気づかないとは、殺し屋失格だ。
「大丈夫!?」
「来るな!」
近付いてこようとする気配に向かって叫んだが、向こうは臆することなく進んでくる。暗い道での光源変わりなのか、手に灯りを持って現れた人物に、俺は凍り付く。
「な……んで」
助手がここにいるのだろうか?
驚きと恐怖で動けない俺の前に、立った助手は、仁王立ちをしながら一言。
「なんでって、君を追って来たからに決まってるでしょ」
「追ってくる、必要、ない」
「あるわよ。まだ交換条件途中でいなくなるし。足さっきより酷くしてるし」
「……」
「ほら、戻るよ。博士が待ってる」
「情報、なら、ここで、話す。俺に、構うな」
「その足は研究所でしか治せないでしょ」
「別に、ほっといて」
「いや。ほっとかない。ほら行くよ」
「触るな!!」
俺の肩に手を置いてこようとした助手の手を、力いっぱい叩いてから、はっとする。俺はまた、暖かいものを壊そうとしてしまった。
今さっき、自分の生きていた理由は、暖かなものを壊すのではなく、そっと触れたかっただけだと気付いたのに……!
「ご、ごめんなさ! ゲホゲホ!!」
「ちょっ、大丈夫!?」
続けて大きな声を出したせいか、声帯が悲鳴をあげ、思わず咳き込む。こうなると、暫く咳が止まらなくなるから、本当に嫌になる。咳の合間にひゅーひゅーと変な呼吸をしている俺の背中を擦ってくれる、彼の手をまた振り払いそうになったが、今度は我慢できた。
優しく擦ってくれる彼の手は、とても暖かくて……冷たい俺にも暖かさが伝染したかのように、体が熱い。いつもなら、氷の刃が軋みながら俺の心に刃を食い込ませるのに、何故か今はとても満たされた感覚に陥っていた。
「治まった?」
「……うん」
「よくなるの?」
「大きな、声、続けて、出した、時だけ」
「さっきも思ったけど、喋り方が」
「変、でしょ? 小さい、頃、雇い主、に、喉を、潰され、かけた、から、こう、なった」
「……」
「君、みたいな、綺麗な、人が、汚い、俺に、関わる、駄目」
「君は汚くないよ」
「それは、俺を、知らない、から」
自嘲して、俺は話した。俺の住んでた、汚れた灰色の世界のこと。娼婦の街外れにある教会の前に、へその緒が付いた状態で段ボールに入れられ、捨てられてたこと。小さい頃から、生きる為に物を盗み、人を殺してきたこと。毎日の飢餓感に耐えきれず、殺した人間を食べていたこと。綺麗で暖かいものを見ると、壊したくて汚したくなってしまうことを。
助手は、俺の分かり辛い話を最後まで聞いてくれた。絶対に聞いてて気持ちの良い話ではないのに。
「……ね。俺は、汚い」
「……」
「俺は、きっと、また、壊す。だから、君とは、行かない」
さっき事もあるし、ここまで言えば助手も諦めるだろう。
本当は、もっと綺麗な助手を見ていたい。少しでもいいから触れたい。けど、そう思うと同時に、こんな綺麗で暖かいものを壊すのは、きっとこれまでにない快感だと思っている自分もいる。
確かに、壊すのは爽快だろう。けど、壊したらきっと俺の心は一瞬で砕けてしまう。それなら、いっそ遠い所にいてくれた方がいい。博士の元で笑っている助手をたまに思い出す位で、俺には丁度いいのだろう。
「はやく、行きなよ」
「……やだ」
「やだって」
「無理矢理でも連れて帰る」
「なんで」
「あなたをほっとけない」
「俺は、君を、傷つけ、たんだよ」
「それは、他人との触れ合い方を知らないからでしょ。だから、加減がわかない。違う?」
「……」
「君は優しいよ。けど、あなたの住んでた世界はそれを許さなかった。だから、変わらないといけなかった。けど、心が追い付かなくてずっと悲鳴をあげてる。それが苦しくて辛くて、その痛みを隠す為に、君は悲鳴の原因を壊しまくったって感じかな」
「……」
「大丈夫。ここは、無理に変わる必要ない。君は君のままでいいの。それに、迷い人は不死だから、誤って壊しても平気。まぁ、痛覚はあるからあまり傷つけないで欲しいけどね」
「……」
「私が君に他人との触れ合い方、教えてあげる」
助手は、笑顔で俺を抱きしめる。人に抱きしめられるなんて初めてで、武器を出すのは何とか留めたけど、体が後ずさりするのは、止められなかった。
「だめ」
なのに、背中に回った手に力を込められて、後ろに下がれない。先程の手よりも密着度の高い他人との接触に、俺の頭がパンク寸前になっているのは、言うまでもない。
「クスクス、戸惑ってる戸惑ってる」
「……離して」
「嫌だ。乙女の肩に傷つけた罰」
……ん?
「乙女?」
「そうよ。がっぷりと見事に噛み付いてくれて。数週間痕残るって博士言ってたよ」
「……女?」
「人の上半身見といてなにその反応」
「……」
あの時は興奮してて、胸とか全然気にしてなかったなんて言えない。確かに、記憶を掘り起こすと、膨らみがあったような。なかったような……。
「けど、名前」
「ヨウジ? なんか、母親が産まれてくるまで私をずっと男だと思ってたらしくて、女でも通じるってそのままこの名前を付けたんだっけ」
「まぎ、わらしい」
「そこは同意。そうだ。その君の名前は?」
「名前、ない」
「え?」
「必要、なかったし」
正直、ある方が顔特定されてしまって、動くのに不便なのだ。それに今まで名が欲しいと思ったことなんて、一度もなかった。
「なら、私が決めてもいい? ないとこの世界は不便だし」
「俺、一緒、行かない」
「うーん、何にしようかな?」
「ねぇ」
「そうだな……」
「……」
どうやら、わざと無視してるらしい。このままだと、武器全部没収された後、首に縄でもかけて無理矢理研究所まで引き摺られそうな気がする。
……。とりあえず、助手について行って、この足が治り次第、こっそりと姿を消そう。そう思った瞬間、ぽんと彼女が手を叩いた。どうやら、俺の名前が決まったらしい。
「コウ。コウにする」
「コウ?」
「うん。いいでしょ?」
コウ。確かに、綺麗に響く。なんでだかわからないが、とても気に入った。
「これからよろしくね。コウ」
「うん」
綺麗な夜空の下。汚れ過ぎた俺は初めて、綺麗過ぎる名と仮初めにしては、暖か過ぎる帰る場所を手に入れたのだった。