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夢の中で、自分がこれは夢だとわかったとき、その夢で自分がやりたいようにするか、それとも夢を夢だと楽しむのか、あるいは夢から覚めてしまうものだと思う。
現実でこれは夢であってもらいたいということがあったりする。人はそれを後悔と呼ぶし、まるで悪夢だと口にする人もいる。
後悔すらなく意味がわからないまま夢であってくれと思うのは、それは悪夢のような状況に放り出されたときに「夢であってくれ」だろう。
そんな夢は、大抵なかなか覚めない。
助けてくれとか、声にも出せずにただ怯えてしまっていた。目を瞑り、嫌だ、誰か助けてと現実から懸命に目を逸らしこれから起きる事を受け入れたくない気持ちになり、運がよければ精神がイカれてしまうだろうと思う。
だけど、現実は甘くはない。気はしっかりしつつあるし、自分がどういった状況に陥ってるのか、呼吸すらまともにできない状態で混乱しつつも自分がどういう状況にいるのかわかってはきている。ただ、わかってはいても感情の制御なんて出来ない。
呼吸が薄くなり、脳が酸欠状態になって、視界が白く濁っていき、うっすらと意識が遠のいていく事は幸せなのかもしれない。直面してる現実から身体が拒否反応を示し、夢であってくれと身体は反応しているのだから…
そういった感情が正常に機能し、心が動作しているのならいいと思っている。その経験を積み重ね、何事にも動じなく、対応出来てしまえるようになってしまったのなら、人並みといえるのかは別だ。
訓練されている、その一言で片付けられてしまう常識さがまだ世の中には浸透はされていない。だが、いずれそうなってしまうだろうという環境は整いつつあると私はうすうすと感じていた。
その場にふさわしい反応はどうだったのか、それも歳相応な反応はどうだったのかなど…VRMMOの普及、いやSNSの普及によって年齢差を関係なくコミュニケーションをとるようになり、数々の愚行を犯す先見者たちを見て育ってきた世代はより訓練されている。
その訓練されている人たちが作るコンテンツやゲームは、時代の流れについていけないと言われる人やそういった類に違和感を感じる人すらも合わせられたものを作り出されていた。
人がこれが現実だと感じるのはなんだろうか?
私?私が感じるのは心が動かされ、感情を高ぶらされた時が現実だと感じる。そして人生を充実していると実感できる時が現実だ。過去にも未来にもなく、今この瞬間こそが現実だ。
過去は思い出、記憶であり、未来は可能性や妄想、想像、などなんでもいい。大事なのは今どう思うかが、大事だと感じている。
刹那的な思考、どこぞの学者や大学教授はこぞって精神的に未発達と揶揄する論文や学術的に物申しているだろう。本物さながらの経験をヴァーチャルリアリティでシュミレーション出来てしまう時代にその人が取り巻く環境によって起きる出来事ではなく、自らシチュエーションを再現し経験が出来るようになってしまった。
そうなってくると練習に練習を重ね、慣れた事を淡々とある程度推測できる結果に向かって行動を起こす事に何を感じればいいのだろうか?
何が起きるかわからないからこそ、予測できても予測できない事がある人生を感じられる方が心を揺さぶられ面白いと思った私の物語だ。