婚約破棄・御曹司視点
『たとえば、こんな婚約破棄』の御曹司関係の話です。
江崎浩司は石上恭子が好きではなかった。
何が苦手かって、可愛くないのがイヤだった。寡黙で笑顔に乏しく、そしていつも一歩引いている。親が決めた存在とはいえ婚約者なのだから、堂々と横に立って意見を言えばいいではないか。しかも、たまに口を開けば、それは江崎のためになるのでしょうかという。
何が気に入らないかって、小賢しいというか、大人目線で間違いのない選択がいちいち気に入らなかった。
ある年代の子供は、親から与えられるものを、親から来たという理由だけで拒否する事がある。特に思春期には、親からきたものを受け入れるなんてガキの証拠だという、まさにお子様理論そのまんまの論理展開が普通にまかり通る時代があるもので、思春期に入った浩司は恭子を親にべったりのガキだとこき下ろそうとしたのだが。
結論からいうと、それは無理だった。
恭子は成績こそパッとしなかったが、同世代の女の子とは明らかに空気からして違っていた。何よりひとりの貴婦人として外国からのお客様の応対などが普通にできるのには、日頃の恭子のイメージしかない浩司は本気で驚いた。そして恭子に理由を尋ねた。
それに対して恭子は首をかしげ、答えたものだ。
「うんと小さい頃にドイツ語と、それから英語を少し習ったの。教室とかじゃなくて、うちに下宿なさってたドイツの方よ」
妙に綺麗な発音に気後れしたものだった。
もっとも、恭子に驚かされたのはそれくらいだったのも事実だ。
成績は悪くないが浩司に勝てるほどではなく、運動も得意とはいえない。しょっちゅう江崎の家に来ては色々と勉強しているらしいが、嫁の心得みたいなのを聞いたりしているんだろうなと浩司は考えていた。
全てが平均より上くらいの、地味な女の子。真面目で誠実ではあるが、かわいらしさのかけらもない娘。
そんな日々の中だった。彼女に出会ったのは。
陽菜は本当に素晴らしい少女だった。
よく笑い、かわいらしく、暗さのない子だった。何より江崎家の浩司でなく、浩司という人間自身を見てくれる人だった。たちまちのうちに浩司は陽菜におぼれていった。
そんなある日のこと。浩司は、たまたま江崎家に来ていた従兄弟の智之に忠告を受けたのだ。
「浩司。おまえ、恭子さん放置して特定の下級生の女の子にべったりだと聞いたけど?」
「そういう言い方はやめてくれ。陽菜は……」
「いや、どっちがどうのなんて俺は言ってないよ浩司。筋を通せと言ってるんだ」
「筋を通す?」
ああ、と智之は言った。
「婚約者がいるのに、その婚約者を放置して別の女の子と共にいる。それはそれでものすごく大問題だけどさ、その大問題を解決する方法はひとつしかない。わかるよな?」
「何が言いたいんだ?」
眉をひそめ、首をかしげる浩司に、智之はためいきをついた。
「おまえがその女の子に決めたというのなら、さっさと恭子ちゃんを解放してやれって事だよ」
「解放……?」
「あの子はしょっちゅう江崎の家にきて何やってるのか知ってるか?江崎に嫁にきても困らないよう、会社関係から分家の隅々のことまで、江崎の本妻となるにふさわしい知識を勉強しにきてるんだぞ。もう何年も前からな。
おかげさまで本家の当主や前当主世代には本当に気に入られていて、みんな恭子ちゃんがくる日を楽しみにしているそうだ」
「……なんだって?」
浩司にとって、それは初耳に近い話だった。
いや、もちろん実際は違っていた。
恭子の一挙手一投足が苦手になりつつあった浩司は、恭子が自分の家で何をしているか、なんて事は無意識に聞かないようにしていたにすぎなかった。意識を向けないから、たとえ目の前で恭子が何をしていても気にならなかった。
人間の耳とは、自分に都合のいい事しか聞こえないようにできているものだから。
恭子が、家の中まで入り込んでしまっている?
その事実が改めて危機感をもってきたその時、陽菜に聞いた不穏な話のことが思い出された。
上履きがボロボロにされていた。
教科書がなくなり、制服が引き裂かれていた。
はっきり誰のせいとはいわないが、陽菜の態度をみれば恭子のせいであろう事は容易に想像がついた。
(あいつは陽菜を追い出し、俺の隣に収まるつもりなんだ)
繰り返すが、人間とは都合のいい事しか聞こえない生き物なのである。
追い出すも何も、何年も前から婚約者である恭子は、このままいけば間違いなく江崎の奥様になるのは間違いない。浩司がいかに陽菜を良かれと思っていても、これは浩司個人の話にすぎないのだから。
だが。
(ぐずぐずしちゃいられないな。陽菜を皆に紹介して、ちゃんと嫁だと認めてもらわなくちゃ。あいつの居場所を作ってやらないと。
これは他の誰でもない、次期当主の俺がしなくちゃならない事だし)
がんばろうと浩司は胸をはり、勇気を振り絞った。
陽菜に連絡して相談し、時間をあわせて恭子を呼び出した。
そして、婚約破棄を告げた……。
その日の夕刻。
石上恭子との婚約破棄を帰宅して報告したところ、江崎家はとんでもない大騒ぎになった。
だがその中身は、浩司が想像したものとはいささか異なっていた。
確かに、勝手に婚約破棄をして別の娘を選んだ浩司は強い叱責を受けた。
だが、それらの面々に陽菜の素晴らしさを解き、粘り強く説得していこうと考えていた浩司は、それ以上に何かされる事はなかった。恭子と出席予定になっていた企業関係の懇談会への出席を当面禁止にされた以外は何もなく、それどころか浩司は部屋に戻っておれと叩きだされてしまった。
いったい、どうなっているのか?
翌日、嫁ぎ先から突然に帰省していた姉の恵子にたずねてみたら、怒りを通り越して呆れられた。
「あんたさあ。うちのグループ企業ほとんどの株価が昨日から今日にかけて、いきなり暴落したの知ってる?」
「は?」
「はぁ、わかった。あんたにわかりやすく説明したげる。
あんたと恭子ちゃんの婚約ってのはね、当たり前だけど、ただの婚約じゃないの。江崎グループと石上の婚約だったの。わかる?
で、それをあんたが個人的理由で、しかも相手に義理もたてずに一方的に破棄しちゃったでしょう?
何年も前からの婚約者がいながら別の女性に走り、あまつさえ婚約者を捨てた江崎の嫡男への悪印象から売り注文が殺到してね。
えらいことになってるわよ。
まずいことに、末端の小さいグループ企業のひとつが最悪のタイミングで食らっちゃったそうでさ。
そこんちの当主が首吊るんじゃないかってさ。
何しろ原因があんたでしょう?ほっとけないって話になってさ、分家のひとつに連絡してケアに回ってもらってるんだけど?」
「……なんだよそれ」
浩司は震える声で、やっとそれだけを言った。
「俺が陽菜を選んだからって、なんでバカな話があるかよ!」
そこで浩司はハッとした。
「そうだ恭子だ!」
「え?」
「あいつが何か俺たちの事妬んで悪評ばらまいてるんだ、そうに違いない!」
「……なにそれ?」
「現に学校で、陽菜があいつに酷いいじめを受けてたんだ。あいつが嫉妬して俺たちに嫌がらせを……って痛ぇっ!」
「……何、トチくるった事言ってるのよあんた!」
ふうっと恵子はためいきをついた。
「あのね。
正式な婚約者で嫁ぎ先の人間にもすごい可愛がられてて、あとは結婚するだけって女の子が、どうして旦那候補の浮気相手ごときに嫌がらせする必要があるのかしら?あんた頭どうかしてんじゃないの?
あんたに直接意見して、それもダメなら、単にうちの親なり石上のご両親に相談すればいいだけの話じゃないの」
「……それは」
煮え切らない反応の浩司に、はあっと恵子はためいきをついた。
「ま、いいわ。どうせ今のあんたに話しても無駄だろうしね。
石上の方には連絡して、都合がつき次第、婚約破棄のおわびその他に行くわ。石上の方も結構色々問題になってるみたいで、こりゃ荒れそうよ。まぁ、何とか頑張ってみるけどさ」
「わかった。行く時は教えてくれよ」
「へ?ああ、あんたも行くって事?だめ、それはやめて」
「え?」
「あんたがのこのこ出て行ってみなさい、問題がややこしくなるだけだから」
「いやしかし、俺は恭子に」
浩司はもう一度恭子に会って、改めてきちんと謝りたいと思っていた。
婚約破棄の結果何が起こるかについて、あまりにも見通しが甘かったのを彼は感じていた。まさか企業グループ全体にいきなり影響が出て、人の生き死にを語るような話になるなんて想像もしていなかった。
大迷惑をかけてしまう事について、もう一度頭をさげなくては。
でもその浩司の気持ちは、恵子にあっさり切り捨てられた。
「恭子ちゃんなら無理よ。折衝には出てこないだろうし、もしかしたらもう空港行っちゃってるかも」
「空港?なんでまた?」
旅行の話は聞いてない。何かあったのだろうか?
「あー……あんた知らないのか」
ふむ、と恵子は少し考え、ま、いいかと頷いた。
「あんた、ハノーバーグループ知ってるよね。ドイツの」
「知ってるけど?」
ハノーバーグループとは、文字通りドイツのハノーバー市で旗揚げしたという企業グループだ。それ自体の歴史は長くないが、運営しているのが古いドイツの貴族の家で、その家の副業だったという時代から計算すると、実は石上に次ぐくらいには長い歴史を持っている。
そしてなにより、江崎グループの海外進出のパートナー企業でもある。
「ハノーバーの総帥、知ってるでしょ?うちのおじいさまや石上の栄助様とも古いお友達の」
ちなみに総帥とは大仰な言い方だが、ハノーバーの彼の場合は愛称なのである。石上の人や親しい人は、親しみをこめて彼を総帥と呼んでいる。
ちなみここでドイツ語でフューラーと呼んではいけない。それはチョビ髭の独裁者を連想してしまうから。
「まぁそれはいいんだけどさ。
総帥が恭子ちゃんを名指しで呼び出したらしいの。それが日本時間で今朝早くのことね。
恭子ちゃんの事だから、たぶんすぐに渡航手続きに入ったと思うし……」
「ちょっとまってくれ」
わけがわからなかった。
「ハノーバーの総帥と恭子にどういう関係があるんだ?」
「ハノーバーってさ、ビジネスパートナーは江崎だけど、総帥ご一家のプライベートのおつきあいは石上の方が長いし深いのよ。知らなかった?
特に総帥は恭子ちゃんがお気に入りでね、彼自ら恭子ちゃんのおしめを変えて、言葉を教えたほどのかわいがりっぷりだそうよ。
恭子ちゃん、妙にドイツ語うまかったでしょう?」
「……確かに」
以前の恭子との会話を思い出し、浩司は頷いた。
「いや、でもそれでも変だろ。なんでいきなりドイツいきなんだよ」
「そりゃ、あんたが婚約破棄したからに決まってるでしょう?」
恵子は肩をすくめた。
「あのね浩司。
あんたと恭子ちゃんの婚約話とほとんど同時期なんだけど、当時、彼女をハノーバー家で養女に迎えるって話もあったのよ。総帥も、それに何より当時の恭子ちゃん本人も乗り気でね。恭子ちゃんを手放したくない石上のおじさまたちは随分と苦労なさったのよね。
ちなみに、これは過去形じゃないみたいよ?」
「……どういうこと?」
「どういうことって、今回の件がそのまんま証拠でしょ?
婚約破棄の連絡が総帥の耳に入ったのは、たぶん日本時間の昨日の午後だと思う。連絡したのは恭子ちゃんかな、たぶんだけど。
で、今朝にはドイツにおいで、の呼び出し電話でしょ。
電話の内容も単純明快だったそうよ。『こっちにおいで』『うん、わかった』みたいに」
「……なんだよそれ」
「なんだよも何も、そのまんまでしょ。
知ってる?
日本のメンツで彼を知ってる人、親しくさせていただいた人は彼を敬意をこめて総帥って呼ぶのよね。石上の人だと名前で呼ぶ人もいるけど、でも基本的にはやっぱり総帥なの。
なのに恭子ちゃんだけは総帥を総帥って呼ばないのよ。オーパって呼ぶの。
恭子ちゃんって真面目で堅物でしょう?実のおじいちゃんですら名前で呼ぶような子でしょう?
なのに、そんな恭子ちゃんが総帥だけはおじいちゃんって呼ぶのよ」
「……」
恵子はためいきをつくと、しみじみと告げた。
「これ私のカンだけどさ。恭子ちゃん、もう日本には戻ってこないかもね」
「……」
浩司は答える事ができなかった。
◆ ◆ ◆ ◆
恵子姉の言うとおり、週末にはもう恭子は日本にいなかった。
それは寂しいものがあったが、俺にはもう恭子よりもやるべき大仕事があった。
そう、もちろん陽菜のことだ。
まず陽菜を両親に紹介したが、けんもほろろだった。なぜだ。
いや、正しくは「悪い子ではないのはわかる。しかし江崎に嫁入りは無理だ」と言われた。
なんでだよ。
くそ、恭子と比べてるのか。無茶いうなよ。
「恭子より陽菜はずっとうまくやれます。もちろん多少の時間が必要と思いますが」
あの、外国語以外なんの才能もないちんちくりんができたんだぞ。
学内とはいえトップ独走の特待生の陽菜にできないわけがない。
だけど。
「浩司」
厳しい声で父が言った。
「おまえは恭子さんが婚約した日から先日までの十年あまり、何をしてきたのか本当に知っているのか?それを理解したうえで、それでも陽菜さんの方がよくできるから、彼女を推すというのか?
言っておくが、もう時間がない。恭子さんの立つべきところに陽菜さんに立ってもらうというのなら、あと三年で彼女の十年をやってもらう事になるが、本当にそれでもいいのか?」
くどいと思った。
恭子は確かに外国語に関しては才を持っていたが、それ以外は凡庸だった。
その恭子が十年かけてやった事なら、彼女ならもっと短期間でいけるはずだ。
いやそれどころか、ジャンルによっては勉強の必要すらないかもしれない。
そして事実陽菜も、
「やってみせます。お義父様お義母様、どうかよろしくお願いいたします」
なんて、ビシッと決めて応対するし。
うん、こうして見ていても綺麗だ。
同じ姿勢でも、はっきりいって、ちんちくりんの恭子とでは比較にならない。
父も母も「その呼び方はまだ気が早い」なんて言っているが、じきに認めざるを得なくなるだろう。
そう思ったんだ。
問題はすぐに発生した。
最初は、国際展示会でのことだった。
挨拶にきた会社がどこの何なのか、その人が誰なのか陽菜は全然わからなかった。
これは仕方ない。
仕方ないのだけど……俺も知らない人がいて応対を誤り、大問題になりかけた。
くそ。
恭子ならそもそもこんなバカな事、やらかさないのに。
あいつはまるで専用のwikiでも脳内に持っているかのように、どんな小さなお得意様の事も知って……。
……ああ。
そうか、今この瞬間に俺は気付かされた。
恭子がちんちくりんのダメダメ?とんでもない。
あいつは確かに、頼りにするにふさわしい逸材だったのだと。
まぁ、今さらだけどな。
あと、海外のお客様と全く話せないのはさすがにまずかった。
いきなり何カ国語も喋れとは言わない。英語だって最初はヘタクソでも最悪、俺がフォローできたろう。
だけど「こんにちは」と日本語で言ったっきりニコニコ微笑んでいるだけの人をどうフォローしろと?
それならまだ、誰か通訳してくれる人呼んで日本語で話した方がよかった。
『キョウはどうしたの?』
事情を知らない人には、いつもの婚約者がいない事を問われ。
婚約破棄を知る人には、あぁこの人がねーという目で見られ。
そして総帥の事情まで知る人には、冷ややかな目で見られて。
翌日の昼に、親父たちから通告がきた。
「三年間という話だったが、状況が変わった。選択肢を出すから、おまえの意思でどちらかを選べ」
「ちょっとまってください、どういう事です?」
「昨日の事で各部から苦情の雨になっておる。
本家は今まで恭子嬢の才能に頼りすぎ、嫡男の教育を怠ったのではないか、とね。
あまりに的確すぎて、ぐうの音も出なかったが」
「そ、そんな!確かに失敗いたしましたが、取り返しは可能なはず」
「適当なことを抜かすな、馬鹿者!」
親父の激昂に思わず絶句した。
「おまえが何も知らず、けんもほろろに扱った相手は米国の大口顧客でな、ハノーバーの総帥ともつきあいがあるため恭子嬢にまつわる顛末をご存知だったのだよ。そして江崎の次期トップ候補と、その者の選んだ令嬢を確認するためにあの場に現れたそうだ。
結論は……契約解除とあいなった。英語も話せないのでは今後のコミュニケーションに不安があるそうだ」
そして、親父はフウッとためいきをついた。
「おまえのおかげで、我がグループは億ドル単位とも予想された商売の種を失った。何か言いたい事はあるか?」
「……」
何億ドル単位……。
「まぁ、話を戻そう。
現状かすらいえば、おまえに選択肢は2つだ。
ひとつは、あの陽菜という娘と別れるか、愛人として二度と表に出さない事。
そしてもうひとつは、江崎の跡取りを圭介に譲り、おまえたちは爺さんの所に引っ込むか」
「ちょっとまってください」
俺は異論を唱えた。
「陽菜を愛人にしろというんですか?
それに圭介は甥じゃないですか。なんで同世代じゃなく飛ばすんです?
あと、他に譲るなら俺たちは一般人だ。何も曾祖父のところに行かなくても」
「ダメだ」
父は首をふった。
「おまえたちはよりにもよって、最悪のタイミングで最悪の失点を出したのだよ。
今回の件を見たグループ各社から、陽菜嬢よりむしろ、恭子さんを蹴ってまで陽菜さんをパートナーに選んだおまえの資質そのものに不安を訴えておる。おかげで江崎グループは現在、分裂の危険まで現れ始めているのだぞ。
言っている意味がわかっておるか?
つまりだ。
反対派は江崎グループ全体が割れるほどの大勢力で、おまえを、江崎浩司を排せよと要求しているのだよ」
「……!」
目の前が真っ暗になった気がした。
「それだけではない。
確かにその価値を疑問視されてはいるが、おまえたちは確かにその存在を広く認知された。
婚約破棄の話題性もあってマスコミやら好事家やらがこぞって動き出していてな。怪しげな者たちがすでにあちこちから報告されておる。思わぬ情報もな。
恭子さんの方はハノーバーと総帥一家が完璧に守るだろうが、おまえを誰が守ってくれる?」
「誰が守るって……」
ん、おまえを守る?なんで俺だけ?
なんだろう、微妙な違和感を覚えた。
俺が首をかしげていると、父はためいきをついた。
「本当に……おまえ本当に、何も、全くわかっておらんのだな。
いや、いい。おまえをきちんと見定められなかった私が悪かったようだ」
ふうっと父はためいきをついた。
「ちなみに圭介はおまえの甥にあたるが、養子にして弟となる。
おまえの同世代は皆、行き先がちゃんと決まっているのでな。本家のわがままで振り回す事はできんのだよ。
……もっとも、圭介を奪われる元凶になったんだ。恵子には自分で謝罪しておくのだな」
そこまでいうと、父はもう終わりと言わんばかりに続けた。
「部屋にもどれ浩司。おまえたちの今後のことは、おって伝える」
「……はい」
どうしたらいい?
俺と陽菜の明るい未来は、いったいどこにいった?
いったいどうして、こんなことになっちまったんだ?
だけど、そんな俺の予想は、さらに想定外の方向にズレていった。
「陽菜が襲われただって?」
陽菜が誘拐されそうになった。しかも相手は同じ学校で俺も知っているヤツ。将来を有望視されていたスポーツ選手だった。
それもとんでもないが、理由を聞いて驚いた。
なんとそいつは、陽菜と将来を誓い合った仲だというのだ。
なんだ?どういうことだ?
そいつの件を発端に、次々と明らかになっていく事実。
陽菜は俺だけでなく、何人もの男と並行でつきあっていた……。
「江崎。要はおまえが一番、金持ちで将来有望そうだったから、なんだろうぜ……ハハハ」
ヤツの話によれば、陽菜はヤツの抱えていたスランプの原因を指摘し、立ち直るきっかけをくれたのだという。
「たぶん他のヤツも似たような感じだったろうぜ。だけどよぅ。もっと面白い話教えてやろうか?」
なんだ?
「おまえが知らなかったって事はやっぱり間違いないんだろうな。
陽菜が学校で男漁りしてた事は相当に有名らしいんだが、女どもが手を組んで俺たち、騙されてた組の耳には入らないようにしていたらしいぞ。そりゃもう徹底してな」
「なんだ?そりゃどういうことだ?」
「わかんねえのか?決まってるだろ、そりゃおまえ」
ヤツはためいきをついて、そして言った。
「おまえが婚約破棄して放り出した石上だけどな、学園内のほとんどの女が石上に同情的なんだよ。そいつらの中でも特に石上と親しかった奴らが提案して、そうなってたらしいぜ。
要するにだ。
馬鹿女に籠絡されたバカどもを指さして笑ってたと。そういうこったな」
「……」
返す言葉がなかった。
もちろん俺もバカじゃない。そこまでの事を聞かされたら調べないわけにはいかなかったし、状況が状況なので江崎系のプロに頼んだ。
そして数日後。
俺は、現実を見ていた。
陽菜の微笑みは、俺だけに向けられたものではなかった。
それどころか……。
俺は愚かだった。本当に愚かだった。
目の前に咲いている、一見地味だけど愛され続ける素晴らしい花の良さに目を向ける事なく。遠目には素晴らしい見た目だが実態は異臭漂う奇怪な巨大花に騙され、花を踏みつけてしまった。
花に会いたいと、心底思ったけど。
でもその花は、今は遠いドイツ。
そのドイツのどこにいるのかも知らないし、たとえ居場所に知って駆けつけたところで、総帥一家のガードでおそらく近づけもしないのだろう。
もういい。
ひとまず全てをご破算にしよう。
ああ、そうだ。
曾祖父の元にひとりで赴き頼み込み、ゼロから鍛えなおしてもらおうか。
そうだ。それがいい。
陽菜?
いや、さすがにかける言葉がない。もし今の俺が会っちまったら、きっと激昂して彼女を傷つける。
ああ。
こんなにこっぴどく裏切られても、まだ俺は……。
俺はその日。
父に、曾祖父の寺に修行に出してもらえるよう頼み込んだ。
(おわり)
補足説明を少しいれておきます。
[「英語」という表現について]
ここは「ブリティッシュイングリッシュ」がよくないかとのご指摘がありましたので、ちょっと補足を。
以下の理由で「上流階級語→女王様の英語」と想定して書いています。
・上流階級語として現在も全人口の3%くらいは話者が存在するとの話
(出展がwikipediaなので数値はちょっと怪しいかもしれません)
・恭子に教えたのはオーパ、つまり本物のお貴族様です。しかし彼はドイツ人であり、しかも若くないので知識はちょっと古い。(だいたい基準を四半世紀前に想定しています)
・オーパの英国の友達というと階級的にお貴族様が多いです。(WW2より前の世代もそこそこいるレベル)
以上の設定から、ならば女王様の英語でよかろうと考えて描いております。