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「私、いい仕事すると思わない?」
放課後、自宅に戻れば得意げな表情でリビングダイニングのテーブルにつく佳奈子に迎えられた。
「……」
その表情に些かむっとして、無言で佳奈子の前を通り過ぎる。
俺の態度が面白くないのか、佳奈子は不機嫌な声をあげた。
「何その無表情。お礼とか言えないのー? 一肌脱いでやった妹に、お礼とかお小遣いとかお礼とか!」
……二番目が、お前の本音か。
その声も無視して冷蔵庫を開けると、目に付いたミネラルウォーターのペットボトルを手に取った。
「って、何この無視全開! まったく、愛想も何もないし! やっぱりおにいちゃんには、深山先輩勿体無いか」
そのまま自室に戻ろうとした俺は、佳奈子の言葉に足を止めた。
見下ろせば、からかうような表情で見上げてくる佳奈子と目が合う。
「結構、聞かれてるんだけどねー。おにーちゃんと深山さんが付き合ってるのか、どうか」
……それは嬉しい噂かもしれないが、本当じゃないところで余計空しくも感じる。
ただ黙っていると、佳奈子は背もたれを両足で跨ぐ格好になって俺を見た。
「そのうち、本当にとられちゃうから。格好つけてられるのは、今のうちかもよー」
「……うるさい」
それだけ言い返すと、俺は自室に戻った。
いつもの定位置。椅子に座って、読もうとしていた大辞林を片手で引き寄せる。
分厚い辞書は、読むのが楽しい。
目標を定めやすいし、何よりも端的に意味を教えてくれる。
そんなことを考えながら前回挟み込んでおいたしおりを目印に、ページを開いた。
途端、鼻に匂う古い紙の音。
もしかしたら臭うなのかも知れないけれど、本が好きな俺にとって古本のような匂いは好きなものだ。
読み始める前に水を飲もうとペットボトルを開けて口に含めば、佳奈子の言葉が脳裏を掠めた。
“……そのうち、本当にとられちゃうから”
嫌な想像をしてしまい、眉間に皺を寄せる。
今の彼女にそんな影がないことに気付いていながら、それでもイライラが隠せない。
大体、佳奈子はどうして俺と深山さんの事にちょっかい出してくるんだ?
身近でとやかく何か言われるのは、面倒くさい。
けれど。
ふと、昼の深山さんが脳裏に浮かぶ。
白井に傍に近付かれても、何の危機感も抱いていないようだった。
それは白井を男として意識していないからだろうし、それは俺にとっても安心できる。
けれどあまりの危機感のなさは、ある意味尊敬に値する。
自分の知らないところで、同じ様な事をされているとしたら。しているとしたら。
それを考えると、嫌でたまらない。
独占欲。
ふと思い至った感情に、動きが止まる。
少し前に、彼女に対して抱いた感情。
恋情、そして独占欲。
この二つは、こうも俺の生活を侵食するものなのか。
手元には、開いたままの大辞林。
時計を見れば、既に結構な時間になっている。
ここ数日彼女のことを考えると、今まで当たり前だった日々の習慣が全く手につかない。
きっと今日も、このまま何も出来ずに一日を終えるのだろう。
体験したことのない、毎日。
傍から見れば不甲斐ないと、そう言われてもおかしくないと思うが……。
大辞林を、ぱたりと閉めた。
彼女のことを考えてこうなる自分を、面白く感じる。
そして自分をこういう状況に追い込む彼女を、知りたくて仕方がない。
……俺の無表情は、どこまで持つかな?