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「あれ、まだ移動しないのか? 次、選択授業だけど」

週に一度の選択授業、適当に取った美術を受けるべく椅子から立ち上がった俺は、いつもならとっくに音楽室へと移動している深山さんが、何か必死に用紙を埋めている姿に首を傾げた。

深山さんは俺の言葉に顔も上げず、シャーペンをかりかりと音をさせながら動かしている。

「んー……、世界史の課題が、もう少しで終わるから……」

集中すると自分の意識を周りと遮断するらしい。

いつもなら顔を上げて笑ってくれるけれど、今は課題で頭が一杯みたいだ。

「手伝おうか?」

「……大丈夫」

それ以上言葉はなく、かえって邪魔かと俺は教室を後にした。




「なんだ、今日は深山、歌ってないのか」

渡り廊下を出たところで、後ろから歩いてきた石井に呼び止められた。

それに顔だけ振り向けると、すぐに歩き出す。

「まだ教室にいた。世界史の課題、やってる」

歩調を緩めずにそのまま特別教室棟に足を踏み入れると、がしっと後ろから肩に腕を回されて上体が前のめりになった。

眉を顰めて横を見ると、そこにはニヤついた表情の石井の顔があって。

美術バッグを持った手を、ぐりぐりと腹に押し付けてくる。

……暑苦しい……

「近いよ」

不機嫌さを隠さない声音で言い放つと、石井はぐっと顔を近づけて目を細めた。

「週一の楽しみが無いからって、不機嫌にならないのぉ」

ふざけた口調にむっとして口を真一文字に結ぶと、おぉこわ、とか言いながら石井が離れていく。

「草間って不思議やろーだと思ってたけど、案外単純素直な性格なのねぇ」

「その口調、止めろ。いらつく」

「へいへい」

俺の視線から逃げるように角を曲がっていく石井の背中を睨みつけて、内心息を吐き出した。



……深山さんが移動しないことに、その理由が課題の提出だという事を聞いて、手伝う事でさっさと終わらせて移動してくれないかと気が急いたのは。



深山さんの歌を、聞けないから。




自分の行動と感情に気がついて、空いている手でがしがしと頭をかく。

最近、彼女の事を考えすぎな気がする。

無意識下で感情を左右されるなんて、今まで体験した事がないから戸惑う。



はぁ、と声に出して溜息をつくと、石井の後を追うように美術室へと向かった。

まだ予鈴の鳴っていない室内は、週一、この授業だけ他のクラスと合同になるからか騒がしい。

俺は後ろのドアから入って一番手前に席を取ると、近くで他のクラスの友人と話していた石井がその横の机に美術バックを置いた。

「まだ、ご機嫌斜め中?」

ふざけた口調のまま椅子に座る石井を一瞥しながら、Yシャツのポケットから眼鏡を取り出してそれを掛けた。

そこまで悪くない視力は、必要時……要するに授業の時のみ、眼鏡を要する。

授業の準備をしようとバッグを開けた俺は、思わず固まった。


「……またやった」


思わず呟いた言葉に、石井がひょいっと覗き込んできた。

俺の目の前にあるのは。

乱雑に放り込んだとしかいえないような、その中身は。


「なんで美術に硯だよ」

呆れたように呟いたその声に、周りの人達まで覗き込んできた。

「草間くん、またバッグ間違えたの?」

「これで何度目だよ」

面白そうに囃し立てるその声に、まったくだ、と自分で思いながら壁に掛かっている時計に視線を向けた。

もうすぐ予鈴。

全力疾走で自宅まで往復五分と少し。

面倒だけど、仕方ない。

俺は溜息をつくと、椅子から腰を上げた。

「取ってくるから、先生に言っといて」

そう言って石井を見ると、怪訝そうな顔を俺に向けた。

「え? 待ってりゃいつも通り妹ちゃんが来るんじゃねーの?」

「来るなら、もう来てるはず」

「……いつもの事だけに、冷静な事で」

だったら間違えなきゃいいのにねぇと呆れる石井をそのままに、目の前のドアを開けようと……


ガラッ


……したら、おもいっきり勢いよくそのドアが開いた。


「くさ……、わぁっ!」

途端、突入してきた人が体当たりをかましてきて慌てた俺はドア枠を掴んだ。

後ろ向きに倒れたら、絶対に頭を打つ。

頭を打つ自身がある。

運動神経には、まったく自信がないと自信を持って言えるから。

そんなくだらない事を考えながら、ふぅと息を吐き出した。

衝撃で眼鏡がずれて、かろうじて耳に引っ掛かっている程度にまで落ちていた。

両手でドア枠を掴んでいて今は直せないから、仕方ない。


体当たりしてきた人は俺の身体で打ったのだろう顔を片手で摩りながら、小さく唸っている。

「……えーと、大丈夫?」

体勢を立て直してから少し離れると、その人は鼻を抑えながら顔を上げた。

「……深山、さん」

思わず、目を見開いた。

なんで? どうしてここに、深山さんが――


体当たりされたよりも驚いた俺は、眼鏡を直すことさえ思いつかないままじっと深山さんを見下ろした。

音楽を選択している彼女が、ここにいるわけがない。

なんだ? 俺の妄想か? 幻想か? あったらいいなが、あった?←某CM

深山さんはちょっと涙目になりながら、その手に持っていたものを俺に差し出した。

それは……

「佳奈子ちゃんから預かったの。草間くんが教室を出て行った後に来たんだけど、こっちに来る時間が無いって焦ってたから」

……俺の、美術バッグ。


何も答えることができなかった俺は、差し出されたその勢いのままバッグを受け取る。

「あんまり佳奈子ちゃんに世話掛けちゃダメだよ? おにーさんなのに」

小さい背を反らすように腰に手を当てると、まるで諭すように右の人差し指を立てた。

「毎日朝にお弁当を届けてもらうだけでもあれなのに、忘れ物まで世話を焼いてもらうおにーさんなんて、ちょっと情けないでしょ。ね?」

しかも、忘れるのを見越してまだ自宅におにーさんがいるのに持ってくるなんて、と佳奈子を褒め始めた深山さんに後ろから石井が声を掛けた。


「かーさんか、深山ってば」

つらつらと佳奈子について語っていた深山さんは、石井の言葉に眉を顰めて首を傾げる。

「せめて、おねーさん」

「随分ちびこいねーちゃんだな。まぁいいや、とりあえずおねーさんや」

「何?」

石井は右腕につけているゴツイ腕時計を目の高さに持ち上げて、左手で指差した。

「もうすぐ授業、始まるけど?」

そのデジタル時計は、もうすぐ授業の始まる時間を表示させていた。

いつの間にか、予鈴は鳴り終わっていたらしい。


「……」


思わず、二人してそれを見つめる。

時間にして数秒。

弾かれたように深山さんが駆け出した。

「え、あ、みや……っ」

突然の行動にドア枠に手を置いて廊下に身を乗り出すと、深山さんは廊下の角を曲がる手前でこっちを振り返ると軽く手を挙げた。

「確かに渡したからね!」

そう笑うと、角を曲がって姿が見えなくなった。


聞こえるのは、特別教室棟を出て行く深山さんの足音だけ。

それもすぐに消えて、しんとした廊下に戻る。


半分見えて、半分ぼやけている視界に、そういえば眼鏡ずれたんだっけと今更思い至ってその位置を直す。



俺は右手を首の後ろに当てて摩ると、気持ちを落ち着かせながら美術室に顔を向けた。

「……」

すると一番に視界に入ってきたのは、ニヤニヤと笑う石井の姿で。

静まり返っている状況に気がついて辺りを見回すと、クラスの奴らが全員俺を見ていた。


「……何」


深山さんが現れて昂ぶっていた感情が、すぅっと通常に戻っていく。

俺の言葉にニヤニヤと笑っていた石井が、笑みを深める。

「仲のよろしい事で」

「は?」

仲って……

「忘れ物を届けに来てくれただけだろう?」

勤めて冷静な口調で言葉を返すと、クラスの奴らが一斉にしゃべり出した。

「草間でも、あんな顔するんだなーっ」

「ちょっ、なんかもう、見てて恥ずかしいんだけど!」

「……」

人をネタに盛り上がり始めたクラスを溜息一つで無視を決めて、俺は椅子に腰を降ろした。

広げた書道バッグを片付けて机の脇にかけると、美術の用意を始める。



周りは勝手に盛り上がっているけれど、なんだか反対に覚めてきた俺は、もう一度眼鏡を人差し指で押し上げると、教師が来るまで目を瞑って周りの声を流していた。




……ていうか、あんな顔って、俺、どんな顔、してるんだろ――



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