15
その日一日は何か様子がおかしかったけれど、翌日にはもういつも通りの深山さんに戻っていた。
朝も、佳奈子と楽しそうに話している。
ただ……、二人が話している時に俺が行くと、なんとなく引っかかる視線を感じるのはなぜだろう?
告白をする、その悩みだけでも頭がいっぱいなのに、最近の深山さんの視線も気になってさすがに脳内がキャパを超えようとしている気がする。
数日そんな事を考えていた俺は、目の前で1時限目に予定されているテストに悩む深山さんのほっぺたを思いっきり引っ張りたいという衝動に駆られてもおかしくないはずだ。
いや、おかしいか。
おかしいと分かってるけど、引っ張りたい。
「草間くんなんて全くテスト勉強しないんだろうし緊張もしないんだろうけど、今日の物理の小テスト、自信ある? ないわけないと思うけど」
深山さんは机の上に筆記具を準備して、頬から意識を逸らすために鞄を覗き込んでいた俺を見た。
ていうか、何だその確定なのか断定なのかよく分からない問いかけは。
深山さんと同じ様に筆記具を机に出して、溜息をつく。
まずいな。変なところで爆発する前に、深山さんに気持ちを伝えたほうがいい気がしてきた。
そんな内心の葛藤に何も気づいてくれない(当たり前)深山さんは、俺の返事がないのを不思議がって小さく首を傾げている。
可愛い……、じゃなくて。
小さく息を吐き出して気を落ち着かせてから、深山さんの問いに答えた。
勉強や自分の事なら、淀まず応えられるのにな。
「あーと……。自信があるとかないとかではなく、問題は解く、かな」
出題されたものは、解く。
そういい直すと、深山さんは半目で俺を睨んで自嘲気味に肩をすくめた。
「言ってみたい、そんな言葉」
「言えばいいんじゃないか?」
即答すれば、もっと目が細まる。
「言えるものなら言うよー。あー、古文ならなぁ」
そうぶつぶつと文句を言う深山さんの態度に、あぁ、と納得した。
「自慢をしているわけではなくて。解けると思い込めば、意外と上手くいく」
「え?」
思い込む? そう問いかけてくる深山さんに、頷いて手持ち無沙汰にシャープペンを指先で転がした。
「解けないかもしれない、分からないかもしれない。そうじゃなくて、解ける。そう思いこんで問題に当たるようにしてるよ、俺は。それでもし間違いがあれば、次から絶対に間違えないと思うだけの悔しさが生まれるから」
テストもそうだし知識欲もそうだけど、悔しさと楽しさが一番自分を伸ばす糧になると思う。
そう伝えれば、深山さんは納得したかのように笑った。
「草間くんも、高校生なんだねぇ」
「それ、今更実感するところ?」
そういいながら、深山さんが何かぎゅっと握っているのに気がついて視線を向けた。
掌の中に隠れるくらいの、小さな“何か”。
なんだろうと首を傾げると、俺の視線に気がついたのか深山さんが手元を見下ろした。
「あ、これ?」
握り締めていた手を開くと、そこには小さな布袋。
握ってもしわが入らないところを見ると、綿ではなく化繊もしくは……いやじゃなくて。
お守りのような小袋を、深山さんは俺に見せるようにこちらに向けた。
「これね、私のお守り」
片方の手でそれをつつきながら、俺に見せる。
「中、何か入ってるのか?」
市販されているものではない事は確かだろう。
なんだか、形が歪だ。
深山さんは俺の疑問に気づいたのか、つつくのをやめてもう一度握り締めた。
「楽譜がね、入ってるの」
「楽譜?」
お守りが楽譜?
再び頭の中が疑問で一杯になり始めた俺に対して笑みながら、小袋を開けて折りたたまれた小さな紙を出した。
「ほら、ね?」
それは確かに、五線譜。
手書きの。
覚えのある歌詞に、顔を上げた。
「これ、深山さんがいつも歌ってる……?」
選択授業に行くときに、渡り廊下で聞えてくるあの歌の楽譜だ。
深山さんは少し驚いたように目を見張って、それから恥ずかしそうに頬を指先で擦った。
「そうだよね、聞えるよね。この歌大好きで、授業の前に合唱部の子に頼んで伴奏つけてもらって歌ってるんだ」
恥ずかしそうに、でも嬉しそうに笑う深山さん。
とても綺麗で、でも年相応に可愛いその笑顔を、誰にも見せたくないと思うのは必然で……。
「あれ? そのお守りって、中学の?」
突然、話に割って入ってきた石井に対して、軽く殺意がわいたのは仕方ない事だと思う。
諦めろ、石井。
俺からのひしひしと伝わっているだろう殺気をまったく気にしない雰囲気で俺と深山さんの席の前に立った石井は、彼女の持つお守りを見て懐かしいと声を上げた。
深山さんは頷いて、石井を見上げる。
「石井くんもまだ持ってる?」
「いんや、家にはあるだろうけど全く忘れてた。その楽譜って、合唱部の?」
「うん、そう」
「……」
全く分からない二人だけの会話に、胡乱げな視線を石井に送っていたのは間違いない。
石井は苦笑しつつ、深山さんに説明を促した。
「仲間はずれ草間がお怒りだから、それ、教えた方がいいよ~」
そう茶化すように言って、自分の席へと戻っていく。
というか、これだけの会話なら入ってこなければいいと思う。
むしろ酸素と化学反応でも起こして、地上から消滅してもいいと思う。
俺がそんな馬鹿な事を思い浮かべる程嫉妬心をわずかなりとも刺激されたというのに、深山さんは何の感情の乱れもないらしく、いたって普通に話を続けた。
「あぁ、草間くん。これね、中三の時の担任の先生……私が所属していた合唱部の先生でもあるんだけど、その先生が卒業のお祝いでくれたの。……ほら」
……俺は、深山さんに好かれてはいないのだろうか。
嫌われてはいないと思うけど。
少しくらい、石井の乱入に対して邪魔とか感じてくれても……
「……草間くん?」
何の反応もないことをいぶかしんだのか、怪訝そうな声で名前を呼ばれて意識を戻す。
そうだ、今はそんな事を考えている時じゃなかった。
深山さんが広げてくれた楽譜の裏に、細い華奢な文字で“深山さんへ”と書いてあった。
「あなたの歌声は、とても素敵です。自信を持ってね」
名前の後に綴られた文字を、深山さんが指先でなぞりながら音にして言葉にする。
「この言葉がね、応援してくれてるみたいで。緊張する時とか、ほら……テストの時とか。つい握る癖がついちゃったんだ。文字って、素敵だと思わない? こうやって残るし、筆跡から思い出を遡るのも楽しい」
へへ、と恥ずかしそうに笑って、楽譜を折りたたんだ。
「高校は不器用な自分の為に手芸部に入ったんだけど、やっぱり歌いたくてね。音楽の選択授業の時に歌わせてもらってるんだ」
どうやらよくよく聞いてみると、彼女には弟がいるらしい。
共稼ぎの両親に代わって面倒を見るために、実用的な部活に入ったという事らしかった。
「だけど今の私には家事力が求められているというのに、裁縫がねー。体育着のゼッケンつけてとか言われた時、どんな拷問て思ったよ。料理は何とかできるんだけどね」
料理ができるのに裁縫が苦手……、どちらもやらないから俺には分からないけれど。
「歌は、いつでも歌えるから。それで満足かな」
今はね、と笑う深山さんの表情が少し寂しそうで。
思わず彼女に伸ばしそうになった右手を反対の手で押さえて、俺は口を開いた。
「深山さんの歌は、綺麗だと思う」
本心から、そう思って。
本心から、そう伝えた。
深山さんは微かに目を見張ると、嬉しそうに笑ってくれた。
――そして、石井に後で、からかわれた。
酸素との化学反応を待つより。
むしろ、俺の手で消滅させてやろうか。