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ボロボロ勇者とカッコつけおじさん  作者: たくあん
ボロボロ勇者とカッコつけおじさん

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第06話 会いにきた理由

 何かを擦る、一定の音が聞こえた。

 目を開けると、窓から薄い光が差し込んでいた。やどかりが少し離れたところに座り、剣を研いでいる。


 エリナはゆっくり身体を起こした。いつもより頭がはっきりしていた。膝にかかった布を払おうと、何気なく左手を動かす。その手が思ったとおりに動いてから、昨夜のことを思い出した。

 初めて会った男に、両親の手紙を渡され、腕を治され、寝床まで用意してもらった。あれほどの薬をくれたのに、見返りは何も求められていない。


「やどかりさん、怪しすぎるでしょ……」


「起きて、第一声がそれか」


 やどかりは呆れたようにこちらを見て、また剣へ目を戻した。砥石を擦る音が続く。

 エリナは少しだけ口元を緩め、膝の布を整えた。

 

「……そうだ。魔王の話、聞きたかったんだよね」


「ああ。話せるか?」


 エリナは少し迷ってから、頷いた。


「でも、役に立つかどうか。私、何もできなかったから……」


「覚えてることを教えてくれりゃいい」


 エリナは、魔王と戦ったときのことを話した。やどかりはときどき短く問い返したが、分からないと答えても、それ以上は求めなかった。


「……私が覚えてるのは、それくらい」


「そうか。助かった」


「……これでも?」


「ああ」


 やどかりは頷くと、エリナの手元へ目を向けた。まだ開いていない手紙があった。


「待たせたな。読んでやれよ」

 

 脇に、手紙を包んだ布が置かれていた。まだ、封を切っていない。

 包みへ手を伸ばしかけて、止めた。父と母の顔が浮かんだ。店の戸を開けたら、二人はどんな顔をするだろう。


「……帰っても、いいのかな」


「帰りたいんだろ」


「でも、村にも噂が届いてたら……」

 

 エリナの指が、また強張った。魔王に剣を向けることを考えるより、恐ろしい想像があった。食堂の扉を開ける。父と母が振り返る。その顔が、街道で見た人たちと同じように曇る。今までは、考えないようにしていた。


「お父さんとお母さんも……私が呪われてるって、信じてたら……」


 やどかりが、剣を研ぐ手を止めた。


「……『おかえり』って、言ってくれるかな」


 顔を見るのが怖くて、エリナは目を伏せた。やどかりは視線を下げ、膝の脇に置かれた油布の包みを見た。


「手紙、まだ読んでねえだろ」


 エリナは頷いた。


「読むのが、怖かった」


 やどかりは急いで開けろとは言わなかった。エリナは包みを引き寄せ、端を広げた。最初の文字だけが大きな宛名が見えた。


 封の端へ指をかけたが、すぐには開けられなかった。指を離し、やどかりを見る。


「……魔王の話を聞きたかったんだよね」


「ああ」


「でも、それなら、どうしてあんな薬までくれたの?」


「質問が多いな」


「当たり前でしょ!」


 思わず声が大きくなり、倉庫の壁に響いた。エリナは少し声を落とした。


「会ったばっかりの怪しいおじさんが、あんなものくれたんだよ」


「怪しいおじさんって」


「説明してよ」


 やどかりは頭を掻いた。


「魔王に負けても、あちこちで人を助けてる勇者がいるって聞いた。魔王の話を聞きたくて、お前を探してた。薬はついでだ」


「……ついでで、あんな薬を使う?」


「必要だったろ」


 エリナは男の顔を見た。冗談を言っているようには見えなかった。それ以上、何か説明するつもりもないらしい。


 膝の上で、左手を握ってみた。指が曲がり、掌へ触れる。

 何度も治療を頼んだ。動くようになるならと、言われたことは何でも試した。それでも動かなかった手だった。


 その手を治したことを、男はついでだと言った。


「……ほんと、変なおじさん」


 呆れたつもりだったのに、声は思ったより小さくなった。


 左手を開き、膝の封筒へそっと添えた。紙の端を押さえたまま、もう一度、男を見る。


「……それで、私を探しに実家まで?」


「あちこち歩き回ってたんだろ。一度くらい家に戻るかと思ってな」


 やどかりは、エリナの手元の封筒へ目を向けた。


「親父さんに飯を食わせてもらって、母親に帰り際にそれを預かった」


 エリナは宛名を見下ろした。封筒の端を、指でそっと撫でる。


「二人とも……元気だった?」


「ああ。店もやってた」


「……本当に?」


「飯食ったって言ったろ」


 エリナは顔を上げた。


「何を?」


「魚を丸ごと葉っぱに包んで、肉と煮込んだやつ」


 思い浮かべるより先に、匂いを思い出した。

 葉を開くと、湯気と一緒に香草の匂いが立つ。仕込みに手間がかかるので、父は忙しいときに注文されると、少しだけ返事を遅らせる。


「……一番高いやつだ」


「美味かったぞ」


「知ってる」


 それだけは、すぐに答えられた。エリナは封筒を膝へ置き直した。

 左手で押さえ、右手の指を封の端にかける。やどかりは何も言わなかった。

 紙を破らないよう、少しずつ封を開いた。中の紙は、何度も折り直したらしく、折り目だけが柔らかくなっていた。


 『エリナへ。』


 最初の一行を読むだけで、視界が滲んだ。


 『ちゃんと食べていますか。


 寒いときには上着を着てくださいね。』


 母の「ね」は、結びのところが丸かった。店先に出す献立を書いてもらったとき、そこだけ妙に可愛らしく見えて、からかったことがある。


 その丸い字が、ここにもあった。


 『どこにいても、いつでも帰っておいで。


 お父さんも、お母さんも待っています。


 魔王を倒せなくてもいいです。


 勇者じゃなくてもいいから、生きて帰ってきてください。』


 読み終えても、エリナは紙を畳めなかった。もう一度、最初から読んだ。勇者じゃなくても、のところで目を止め、指で触れかけて、汚してしまうと思い直した。


 母の丸い字を見ていると、エリナの頭に、鍋の底を擦る音が戻ってきた。厨房で父が木べらを動かしている。昼の混雑が過ぎた頃、煮詰まりすぎないよう火を弱め、味見をしてから、こちらへ小皿を差し出す。


 ――味、見てみろ。


 熱いから気をつけろと言われたのに、待ちきれず口をつけて舌を火傷する。父は呆れ、エリナが水を探していると、食堂のほうから母の声が飛んでくる。


 ――エリナ、三番テーブルお願い!


 返事をすると、まだ口の中が熱くて、少し変な声になる。それを聞いた常連客が笑う。


 閉店後には洗い物が待っていた。洗っても、洗っても皿が減らず、母と二人で溜息をついたことがある。客がたくさん来たのだから喜ばなければと言いながら、明日は皿の数が減るといいと考えていた。


 特別な日の記憶ではなかった。あの頃なら、いちいち覚えておくほどでもなかった。明日も、その次の日も、同じような一日が来ると思っていた。


「お父さんの、料理……食べたい……」


 膝の上で紙を支えたまま、エリナは呟いた。左手はもう動く。父が差し出した小皿を受け取り、熱いと言いながら、右手で匙を持つ。そんな当たり前のことまで、今は一つずつ思い浮かべられた。


「お母さんに……会いたい……」


 やどかりは黙って聞いていた。次を促すことなく、エリナが次の言葉を探すのを待っていた。


「また、みんなで……ご飯、食べたい……」


 世界を救うために旅立ったはずだった。けれど今、会いたいと願う顔は、一人ずつしか思い浮かばなかった。父と母。食堂の扉をいつも乱暴に開ける常連客。注文の前に必ず天気の話をする老人。大きすぎるはずの世界が、エリナの中では、あの狭い食堂に収まっていた。


 あそこに帰って、椅子に座りたかった。温かい皿を前にして、今日あったことを話したかった。父の返事を聞き、母にもう一杯いるかと尋ねられるところまで思い浮かべて、エリナは手紙の折り目をそっと撫でた。帰ったあとの席が、まだ自分にも用意されている。そのことを確かめるように、母の言葉へ目を戻した。


「……私、まだ」


 声が掠れた。


「帰っていいんだ……」


 やどかりは頷いた。


「私には、まだ……帰る場所、あるんだね」


 泣いているのに、口元が緩んだ。手紙から顔を上げると、やどかりがこちらを見ていた。けれど、その目はほんの一瞬、エリナの向こうにある何かを見ているようだった。遠いものを探して、見つからなかった人の顔に似ていた。


「……やどかりさん?」


「ああ」


 男はいつものように口元を曲げた。


「大事にしろよ」


「うん」


 エリナは手紙を丁寧に畳んだ。一緒に受け取った油布の角を両手で合わせ、紙がはみ出さないよう包んで、服の内側へ収めた。


 -----------------------------------------------------------------


「じゃあ、帰れ」


 やどかりが言った。あまりに普通に言うので、エリナは顔を上げるのが遅れた。


「家に帰って、飯食って、寝ろ」


「……でも、魔王は?」


「俺が殺す」


 やどかりは立ち上がり、外套を羽織り直した。エリナも反射的に身体を起こしかけた。


「一人で行くの?」


「ああ」


「無理だよ」


「かもな」


「死ぬかもしれないよ」


「かもな」


「なんで、そんな簡単に言うの……!」


 やどかりは腰の剣の位置を直した。


「簡単だとは思ってねえよ」


「私には帰れって言うのに、自分は行くの?」


「俺は行きたいからな」


 エリナは口を閉じた。ずるいと思った。帰ってよいと言われて、ようやく安心できた。

 しかし、それを言った人が、自分の代わりに魔王のいるところへ行こうとしている。止める言葉を探すと、自分が言われた言葉にぶつかった。本人が、飛びたいと言っている。


 やどかりが、傍らの聖剣へ目を向けた。


「戦わねえなら、それ、くれないか。何かに使えるかもしれん」


「嫌」


 考えるより早く、エリナは剣を抱き寄せていた。やどかりが眉を上げる。


「なんで?」


「……分かんない」


 手紙は胸の内側にある。帰る場所が残っていることも、もう分かった。それでも剣を渡そうとすると、三年間の自分まで、誰かに持っていかれるような気がした。


「そうか」


 やどかりは、それ以上手を伸ばさなかった。


「どうしたいか、分からない。でも、まだ怖い」


「いっぺんに決めなくていいだろ」


「やどかりさんは、行くんだよね」


「ああ」


「私に、来いって言わないの?」


 やどかりは足を止め、エリナの前でもう一度膝を折った。エリナがこちらを見るまで待ってから、服の内側へ収められた手紙の包みへ目を落とした。襟元から覗く油布を、エリナはそっと押し込んだ。

 

「お前、どうしてほしいのか決めてほしいのか?」


 エリナは男を睨んだ。そんなつもりじゃないと、言い返そうとして、けれど、気づいてしまった。一緒に来いと言ってほしかった。帰っていいと、もう一度言ってほしくもあった。どちらでもよかったのではない。どちらも大切で、どちらも怖いから、自分では持ちきれなかった。その片方を、この男に持ってもらいたかった。


 「俺が帰れって言ったら、安心したろ」

 エリナは黙った。


 「魔王を倒しに行くぞって言われたほうが、楽か?」


 「……そんな、言い方……」

 

「剣を渡して、道を示して、行き先まで決めてやるのは簡単だ」

「でも、それじゃ、神様が俺に代わるだけだろ」


 エリナは男の顔を見た。優しい言葉ではなかった。悔しかった。もっと弱い声で頼めば、泣けば、決めてくれるのだろうか。そんな考えが浮かんだ自分にも腹が立った。


「……意地悪だよ」


「そうかもな」


「かっこいいこと言ってるつもり?」


 やどかりは、今度はすぐに返事をしなかった。小さく息を吐いた。


「お前の人生、俺に決めさせんな」

「ゆっくり考えて、やりたいことを自分で決めろ。俺が決めることじゃねえ」


 突き放された気もした。けれど、膝に載せた左手は、自分で握ることも開くことができた。右手で持ち上げて位置を直す必要は、もうなかった。その手を今度は何に使うのか、考えてよいのだと言われていた。


 エリナは水筒を返した。やどかりは栓を閉めて荷物へ収め、立ち上がった。それから足元を片づけ、扉へ向かった。


「俺はそろそろ行く。すぐに動く気になれねえなら、ここで休んでろ。戸は、こいつで塞いどけ」


 やどかりは足元の荷箱を示した。


「金と、宿の場所を書いた紙も置いとく。俺の名前を出せば泊まれるから、今夜はそっちへ行け」


 エリナは男の顔を見上げた。


「飯食って、寝ろ。どうしたいかは、それから考えりゃいい」


 足で示された荷箱を、エリナは見た。ここで休む場所は、まだ残っていた。男が外へ出るからといって、自分まで立たなければならないわけではなかった。


 -----------------------------------------------------------------


 荷箱が引きずられ、扉の前に細い隙間ができた。外から冷たい風が入り、窓の下で埃が舞った。道が濡れていた。雨が降り始めていた。


 やどかりは荷物を肩へ掛け直し、戸口を抜けた。扉が半分だけ戻され、外套の裾が見えなくなる。足音が、通りの物音へ紛れていった。


 エリナは戸口を見ていた。膝には布があり、すぐ隣には、横になれる場所がある。さっきまでそこにいた男は、もういなかった。魔王を殺すと言っていた。一人で行くとも。その言葉だけが残って、エリナは膝の布を握った。


「……待って」


 口にしてから、左手を壁へつき、身体を起こした。掌から肩へ重さが伝わる。立ち上がると、布が膝から滑った。拾って木箱へ置き、右手で手紙があることを服の上から確かめ、それから聖剣を持った。


 帰りたい気持ちは消えていなかった。魔王を思い出せば、まだ指先が冷たくなる。一緒に行くと決めたわけでもなかった。ただ、もう少し話したかった。どこへ行くのかも、また会えるのかも、聞けていなかった。


 倉庫の外へ出ると、冷たい雫が額に当たった。庇の下にも、向かいの店先にも、男の姿はなかった。エリナは通りを見渡し、路地の角へ向かった。


「やどかりさん!」


 返事はなかった。歩幅を広げると、剣の鞘が脚に当たった。片手で押さえ、濡れ始めた石を蹴る。揺れた左腕をいつものように胸へ寄せかけ、それをやめて、足の動きに合わせた。一度靴が滑ったが、両腕で釣り合いを取り、自分で踏み直せた。


 角まで辿り着き、壁に手をついて曲がった。細い路地の先には、雨だけが降っていた。反対の路地も覗いた。軒の下にも、荷車の陰にも、くたびれた外套は見当たらなかった。


「……どこ行ったの」


 エリナは立ち止まり、息を整えた。聞きたいことも、言い返したいことも、まだいくつもあった。ほんの少し前まで隣に座っていた人を、名前しか知らないのだと、今になって気づいた。


 左手を壁から離す。その腕は、もうだらりと落ちなかった。服の内側へ触れると、油布に包まれた手紙の角が指に当たった。動く腕も、母の言葉も、確かにここにあった。助けてくれた本人だけが、見つからなかった。


 帰る場所はある。


 魔王は、まだ生きている。


 その二つの間で、自分がどうしたいのかは、まだ分からなかった。エリナは倉庫のほうを一度振り返り、それから、もう一つ先の角まで歩いていった。

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