第52話 拾えない剣
目を覚ましたとき、エリナは自分がどちらを向いて寝ているのか分からなかった。
頬の下に畳んだ上着があり、誰かが外を歩くたびに、小石を踏む音がした。起き上がろうとして背中が痛み、そこでようやく、昨日のことを思い出した。あと少しで魔王に剣が届くはずだった。
すぐそばに、ミアが眠っていた。毛布の端から出た手に、包帯が巻かれている。
ミアを起こさないよう、毛布から出た手を避けて、ゆっくりと外へ出た。
朝になっていた。
けれど、岩の向こうの空は灰色で、地面にはまだ焚き火の色が残っていた。鍋の前に座ったベルタが、匙を動かしている。エリナに気づくと、空いている器を一つ手元へ寄せた。
「眠れたかい」
「……少し」
何度か目を覚ました気はした。夢も見たはずだった。けれど、どこまでが夢だったのか、はっきりしなかった。
ベルタはそれ以上聞かず、汁を注いだ。受け取った器を持って腰を下ろすと、少し離れた場所で、兵士たちが天幕を畳み始めていた。
「出発ですか」
「ああ。荷車の支度ができたらね。怪我人を先に出すそうだよ」
エリナは城の方を見た。ここからは岩に遮られて、塔も見えなかった。
器を口元へ持ち上げる。昨日より塩の味がした。それがなぜか、申し訳ないように感じられて、少しずつ飲んだ。
-----------------------------------------------------------------
国王は荷車の間を歩き、一台ずつ負傷者の様子を確かめていた。
治療師が寝かせたまま運びたいと言えば、積み直すために人を呼んだ。空いた場所へ物資を載せようとした兵士には、付き添う者の分を空けておけと伝えた。
エリナは水袋を運びながら、その後ろを通った。
「今日は、川の手前まで下がる」
王が指揮官へ話していた。
「道を先に調べさせろ。荷車を急がせるな」
「その先は、町へ向かわせますか」
「治療師と相談する。動かせる者から町へ送る」
町へ。
エリナの足が僅かに緩んだ。
屋根がある。壁があり、寝台があり、夜に誰かの足音がしても、それは廊下を歩く音になる。
そう思ったところで、エリナは水袋を抱え直した。
「ここでいいですか」
荷台の縁へ置くと、座っていた男が頷いた。エリナが次の袋を取ろうとしたとき、その向こうで毛布が動いた。
「川までって、遠いですか」
エリナは顔を近づけた。
「行きに一度、休んだところです。橋の前に、平らな場所があって」
「……ああ。あそこ」
男は目を閉じ、息を吐いた。
「そこまでなら、寝てれば着きますね」
エリナは頷いた。早く着くといいですねと言おうとして、やめた。
-----------------------------------------------------------------
荷造りは、出発した朝よりも時間がかかった。
物は減っていた。矢の箱は軽くなり、包帯を入れていた袋は畳まれている。けれど、荷台へ横になれる場所を作るために、残った荷物を何度も載せ替えなければならなかった。
エリナは鍋の蓋を重ね、布で包んだ。紐を結ぶときに手が震え、輪がほどけた。やり直していると、ベルタが隣へしゃがんだ。
「貸してごらん」
太い指が紐を通し、あっという間に結び目ができた。
「ありがとうございます」
「こっちの軽い方、運んでくれるかい」
木の匙と器を入れた籠だった。
持ち上げると、器同士が触れて、乾いた音がした。エリナはその音を聞きながら、実家の棚を思い出した。
朝、母が皿を並べる。
父は鍋を見ながら、味見に使った匙をどこかへ置いてしまう。見つからないと声を上げる頃には、母が別の匙を差し出している。
自分はその横で、玉葱を刻んでいた。
帰りたかった。
思った途端に、目の奥が熱くなった。
魔王城へ向かっている間は、帰ったら何を作ろうかと考えられた。やどかりたちを連れていくつもりだった。今は、料理も、皆を座らせる席も浮かばなかった。
ただ、母の声を聞きたかった。
「エリナ?」
ベルタに呼ばれ、顔を上げた。
「重いかい」
「ううん。大丈夫です」
籠を抱え直し、荷車まで運んだ。
魔王を倒すと決めた。自分で頼んで、ここまで来た。そのことを何度思い出しても、帰りたいという気持ちは消えなかった。
-----------------------------------------------------------------
偵察の兵士が戻ったのは、天幕が半分ほど片づいた頃だった。
国王のいる荷車へ向かう足取りが速く、エリナは道を空けた。そのまま通り過ぎようとしたが、魔王、という言葉に足が止まった。
「城門を越えたところで、止まりました」
兵士は水を一口飲み、唇を拭った。
「こちらへ来ると思ったので、岩の陰まで退いたんです。ですが、そのまま動かなくなって」
「何をしていた」
「腕を、押さえていました。剣を持っている方を、反対の手で」
エリナは兵士の顔を見た。
男は自分の右手首を左手で掴んでみせた。
「こうして。それから、膝をつきました」
「攻撃を受けた様子は」
「こちらからは、何もしていません。誘っているのかと思って、しばらく見ていました」
その間に、負傷者を乗せた荷車は坂を下り、最後尾の隊も城から離れたという。兵士たちが交代で見張っていると、やがて魔王は立ち上がり、城の中へ戻っていった。
「歩き方がおかしかったです。足を引いて……何度か、壁へ手をついていました」
国王は少し考え、別の兵士へ城の監視を引き継がせた。近づくなと念を押し、道の偵察へ話を移した。
エリナはその場に残っていた。
アルトが、自分の腕を押さえている。
想像すると、あの人間の顔が浮かんだ。胸へ向かう剣を見て、やれと言った顔だった。
自分たちを逃がそうとしたのだろうか。
そう思いかけて、エリナは唇を結んだ。分からない。傷が痛んだだけかもしれない。兵士が言ったように、近づかせるためだったのかもしれない。
けれど、腕を押さえる姿が、頭から離れなかった。
-----------------------------------------------------------------
「やどかりを呼べ」
国王の言葉に、兵士が荷車の向こうへ向かった。
少しして、男が歩いてきた。肩の包帯は巻き直されていたが、上着の袖には乾いた血が残っている。エリナに気づくと、一瞬だけ目を向け、それから王の前へ立った。
「魔王が、自分の腕を押さえていたという報告があった。何か心当たりはあるか」
やどかりは、報告した兵士を見た。
男が同じ話をすると、やどかりの手が胸の前まで上がり、そこで止まった。
「……変わり始めたときも、そうしてた」
小さな声だった。
「剣を持つ手を押さえて、近づくなって。俺を斬りたくねえって、言ってた」
やどかりは、自分の知っていることを話し続けた。左足へ重心を移す癖。剣と反対の手で放つ魔法。昔のアルトにはなかった、床を這う黒い影。
見たものと、覚えているものを、途中で言い直しながら区別した。
話が途切れたところで、王が尋ねた。
「お前が一人で戻ったとき、神殿には報告したのか」
「ああ。魔王を倒したことも、アルトがどうなったかも話した。助けてくれって頼んだ」
王はすぐには言葉を返さなかった。
「勇者についての報告は、神殿が取りまとめて私へ届ける。だが、私に届いたのは、勇者は未帰還、討伐成功の確認なし。それだけだった」
「……だろうな」
やどかりはしばらく黙っていた。
「話を聞いた神官に、神に選ばれた勇者が次の魔王になるなんて話が広まったら、誰が勇者を信じるんだって言われた」
男は乾いた唇を湿らせた。
「同行も認められていないお前の話を、どうして信じられるって。確かめに行ってくれと頼んでも、調べる必要はないって追い返された」
王は近くの兵を呼び、今の話を書き留めさせた。
「王都へ戻ったら、当時の記録と照らし合わせる」
王はすぐには言葉を返さなかった。
エリナは離れたところで、それを聞いていた。
隠さずに話してくれている。
そのことにほっとしたのに、同時に、もっと前にこうしてくれていればと思った。昨日の夜に言った言葉が、また喉まで上がってきた。
エリナは何も言わず、空になった木箱を持ち上げた。
-----------------------------------------------------------------
テオは荷車の陰で、自分の杖を拭いていた。
膝の上には汚れた布があり、先端の金具へ布を当てている。エリナが木箱を置くと、顔を上げた。
「さっきの話、聞いていましたか」
「うん」
テオは杖から手を離した。
「戻ったんですね。自分で」
エリナは頷いた。
言い方が気になって、その顔を見た。テオはもう、杖へ目を戻していた。
「……アルトさんだったのかな」
尋ねると、テオの手が止まった。
「魔王じゃなくて。腕を、止めようとしてたのは」
テオはしばらく考えていた。
「そうかもしれません。でも、今はまだ」
「うん」
エリナはそれ以上、聞かなかった。
自分で質問したのに、そうですと言われるのも怖かった。まだあの人がいるのなら、次に剣を向ける相手は、ただの魔王ではなくなる。
いや、もうそうだった。
そのことを、分からないままにしておきたかっただけかもしれなかった。
テオは布を持ち替えた。杖の柄についていた汚れが取れ、木の色が見えた。
「……本当に疲れました」
「少し、眠らせてください」
「うん、剣の手入れしてくるね」
エリナが言うと、テオは頷いた。
それだけの会話なのに、立ち上がるまでに少し時間がかかった。
-----------------------------------------------------------------
荷物を置いた場所には、まだ日が差していなかった。
エリナは畳んだ毛布へ腰を下ろし、袋の中から布を探した。指先が包みに触れ、取り出しかけて、折れた聖剣の柄だと気づいた。
包みを戻し、その脇にあった布を引き出した。
やどかりにもらった剣は、袋の横に置いてあった。
鞘へ泥がつき、革の継ぎ目が黒ずんでいる。昨日はそこまで気が回らなかった。濡らした布で拭き、刃を確かめなければならない。
手を伸ばし、柄へ触れかけた。
硬い音を、思い出した。
剣先が触れたときの感触だった。黒い塊が目の前にあった。もう少し押せば、届くはずだった。
次は止まらなければいい。
あの声が聞こえても、腕を伸ばせばいい。
エリナの指が、柄の手前で止まった。
アルトは、こちらを見ていた。
自分を傷つけた人だった。死にたくないと床を這っていたときも、あの人は立っていた。そのことを忘れたわけではない。
けれど、あの人が「やれ」と言った声も、覚えていた。
終わらせてほしかったのだ。
エリナは手を引き、膝の上へ置いた。
布を握ると、指の傷が少し痛んだ。
-----------------------------------------------------------------
離れたところで、やどかりが荷物を受け取っていた。
話を終えたらしかった。小さな袋を頼まれ、腕で抱えた。持ち方が悪かったのか、近くの兵士が底へ手を添え、二人で荷台へ置いた。
やどかりが頭を下げた。
エリナは、その姿を見つめていた。
もし、あそこにいたのが、この人だったら。
考えたくなかった。
けれど、一度浮かんだ顔は消えなかった。玉座の段に座っている。黒いものが腕を這い、剣を持つ手を押さえている。
近づくなと言われる。
自分を斬りたくないからと、苦しそうに笑う。
やめて。
エリナは目を閉じた。それでも、声を思い浮かべることができてしまった。
――俺を殺してくれ。
膝の上の手が、強く握られた。
その人は、自分を助けてくれた。
母の手紙を届け、腕を治したあとで、何がしたいかと聞いてくれた。休みたいと答えた自分に寝床を整え、帰ってもいいと言い、剣を渡し、一緒に歩いてくれた。食事のときには馬鹿なことを言って、ミアに叱られ、テオと言い合っていた。
その顔へ、剣を向ける。
そうすれば、皆が助かる。
できるだろうか。
エリナは目を開けた。
遠くに、本物のやどかりがいた。荷車から離れ、肩の包帯を気にしていた。そこへミアが来ると、男は手を下ろした。
よかった、と思ってしまった。
あそこにいる。まだ、人のままでいる。
その安堵に気づいて、エリナは俯いた。
やどかりも、同じだったのだろうか。
アルトがこちらを見て、名前を呼ぶ。そのたびに、まだ大切な人がそこにいると思ったのだろうか。
剣が届く瞬間、その人がいなくなると分かったら、何を思うのだろうか。
「……でも」
声が漏れた。
レオンの腕は、まだ動かない。
横になったまま運ばれる人がいる。ミアの手には包帯が巻かれ、テオは疲れきっていた。
やどかりを連れ戻すために、一緒に走った兵士の顔も覚えている。
仕方なかったとは、思えなかった。
あそこで止めなければよかったと、今でも思う。
けれど、自分ならできたと言おうとすると、喉の奥で言葉が止まった。
-----------------------------------------------------------------
最初の荷車が動き始めた。
車輪が小石を噛み、乗っている人へ声がかけられる。歩ける者たちが、その前と後ろへ分かれた。
エリナは顔を上げた。
道は、来た方へ続いていた。
川を越え、街道へ戻り、町へ着く。その先を行けば、いつか実家のある場所へも帰れる。
昨日まで、魔王を倒してから通るつもりだった道だった。
エリナは毛布を畳み直した。
布の端を揃え、丸めて紐をかけた。水袋を確かめ、荷物の口を閉じる。そういうことは、手を動かせばできた。
腰の剣帯だけが、空いたままだった。
剣を持たなければ、皆のところへ戻れないと思った。
みんなと一緒に戦って、魔王に勝つ。それができるつもりで、ここまで来た。
でも、次にアルトを前にしても、同じように踏み込めるのか分からない。
やどかりが何も言わなくても、あの顔を思い出してしまうかもしれない。
「後ろの荷も、まとめてくれ!」
出発を急ぐ声が届いた。
エリナは返事をしようとしたが、うまく息を吸えなかった。
剣へ手を伸ばした。
指先の下に、見慣れた柄があった。握り方を忘れたわけではない。腕も動いた。けれど、その手に力を入れた先のことを考えると、どうしても掴めなかった。
「……私、何がしたいんだろう」
口にしてから、顔を上げた。
やどかりは、荷車のそばにいた。誰かと話しているわけでもなく、俯いて、自分の剣を見ていた。
呼びかければ、振り向いてくれるかもしれない。
けれど、あの人も答えを持っていないことを、今は知っていた。
エリナは伸ばした手を、ゆっくり膝へ戻した。
冷たい風に、握っていた布の端が揺れた。
帰るための荷物は、もうできていた。
その横に、剣だけが残っていた。




