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ボロボロ勇者とカッコつけおじさん  作者: たくあん
勇者と倒せない魔王

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第46話 知っている道

 丘を越えた晩、久しぶりに風が止んだ。

 火の粉がまっすぐ上がり、鍋の湯気もあまり流れなかった。エリナはベルタの隣で、固いパンを薄く切っていた。


「もう少し、薄くできるかい」

「できます。濡らした布、借りてもいいですか」


 刃を拭き、乾いた皮を割らないように少しずつ動かす。切ったパンを鍋の縁へ並べると、ベルタが感心したように鼻を鳴らした。


「剣を持つより、ずっと慣れた手だね」

「こっちのほうが、得意なんです」


 ベルタは大きな匙で鍋を混ぜながら、切れ端を一つエリナの口元へ差し出した。


「なら、味も見とくれ」


 熱い汁を吸ったパンは、噛まなくても崩れた。喉へ落ちる前に、干した肉の塩気と、根菜の甘みが広がった。


「おいしいです」

「塩は?」

「あ、ちょうどいいです」

「よし」


 器を四つ持って戻ると、やどかりが荷箱に座り、長 脚を投げ出していた。ミアはその前にしゃがみ、男の靴を睨んでいる。


「脱いでください」

「飯の前だぞ」

「歩くときに右を庇っていました」

「小石が入っただけだって」

「では、出してください」


 エリナが器を置く間に、やどかりは観念して靴を脱いだ。踵の皮が擦りむけていた。ミアが水を取りに立つと、やどかりは情けない顔で靴をつまみ上げた。


「こいつ、長い付き合いなんだけどなあ」

「靴にも、寿命はありますから」


 テオがパンを汁へ沈めながら言った。


「少なくとも、その靴であと何日も歩くのは、かなり無理のあるお願いを靴にしていることになります」

「もう少し頑張ってもらえるだろ」

「自分がおじいちゃんになっても、働きたいならどうぞ」

「それは嫌だな」


 エリナは笑い、疲れた腹の筋肉まで痛む。何か言い返そうとしたやどかりも、ミアが戻ってきた途端に口を閉じたので、ますますおかしかった。


 少し離れた焚き火では、妻に戸棚の修理を頼まれていた兵士が、別の兵士に、戸が傾いたときの直し方を聞いていた。

 蝶番を替えろという者と、家そのものが傾いているのではないかという者がいて、話はなかなかまとまらない。最後には大工を呼べという結論になり、最初からそう言ってくれと男が嘆いた。


「やどかりさんは、家の修理とかできる?」

「できるぞ」


 即答だった。

 エリナが感心しかけると、テオが器から顔を上げた。


「仕上がりの話も聞いた方がいいですよ」

「俺の信用、低すぎねえか」

「この前、荷箱の蓋を裏返してつけていました」

「あれは開けばよかったんだよ」

「開かなかったので、問題だったんです」


 ミアまで笑った。やどかりは匙を持ち上げ、それ以上何も聞こえないという顔で食べ始めた。

 火の明かりが、やどかりの頬を照らしていた。無精髭の間に、見慣れた笑い皺がある。倉庫で初めて見たときには、大きくて、何を考えているのか分からない顔だと思った。

 今は、少ししょんぼりしているようだった。


「帰ったらさ」


 エリナは、匙の先で柔らかくなったパンを崩した。


「やどかりさんに、うちへ来てもらう約束したんだ。ミアもテオも、一緒に来てくれる?」


 ミアが顔を上げた。テオも、食べる手を止めた。


「お店へ、ですか」

「うん。お父さんとお母さんに、会ってほしい」


 言葉にした途端、台所の狭さを思い出した。四人一緒に入れば、父が鍋を持って振り向くたび、誰かが避けなければならない。母はきっと、手伝うと言うミアを席へ押し戻すだろう。テオの道具を見れば、父は触っていいか聞く前に触るかもしれない。


「……壊されたくないものは、しまっておいてね」

「誰への注意ですか」

「テオさん」

「ご家族の紹介として、かなり不安な始まりですね。」


 エリナは笑い、やどかりへ顔を向けた。


「やどかりさんにも、食べてほしいものがあるんだ。肉を煮たやつ。すごく柔らかくて、汁が残るから、最後にパンで」

「ああ」


 返事が、少し遠かった。

 やどかりの目は器の中へ落ちていた。匙の背で、浮いた小さなパンを押している。エリナは途中で言葉を止めた。


「……嫌い?」

「いや。好きだよ」


 男は顔を上げ、いつものように笑った。


「そういうのは、酒にも合う」

「じゃあ、お父さんに頼んでおくね」


 火の中で薪が崩れた。

 やどかりはそちらを見てから、膝の上の器を持ち直した。


「ああ。楽しみにしとく」


 エリナは頷いた。胸の中へ、火のそばとは違う温かさが広がった。

 頭の中では、もう家の食卓に皆が座っていた。父が大鍋を置く場所をなくして困り、母が「詰めれば座れるでしょう」と椅子を寄せ、テオが触るなと言われた棚を気にし、ミアが結局は台所へ立ってしまう。その隅で、やどかりが父に酒を勧められて、調子よく何かを言っている。

 そんな光景を想像しても、もう「もし帰れたら」とは思わなかった。帰って、そうするのだと自然に考えていた。。

 ミアが、何か持っていくなら何がいいでしょう、と聞いた。エリナは慌てて首を振り、母は甘いものが好きだと答えた。

 話が焼き菓子へ移ってからも、やどかりの器には、しばらく同じ量の夕食が残っていた。


 -----------------------------------------------------------------


 魔王城が見えたのは、翌々日の昼だった。

 山の切れ目に、黒い塔が立っていた。初めは遠くの岩だと思ったが、道を曲がると、その両側に別の塔が現れた。雲へ突き刺さるような尖塔の下で、幾重にも重なった壁が、斜面そのものを押さえつけている。

 エリナは歩きながら息を吸おうとして、うまく吸えなかった。


 左腕に、あのときの痛みがよみがえった。服の上から、傷のあった場所を押さえる。あのとき自分が落とした血は、まだ床に残っているだろうか。

 指を動かしてみた。動いた。それでも、何度力を込めても左腕が上がらなかったときの感覚が、肩から離れなかった。


「エリナ」


 ミアの手が、肘へ触れた。

 振り向くと、彼女は先へ行こうとは言わず、道の脇へ半歩寄った。エリナもそこへ足を移し、列が通る場所を空けた。

 盾を背負った兵士が二人の横を通り過ぎる。荷を運ぶ人の靴が土を踏み、その後ろから車輪の軋む音が続いた。


「……ここまで来たんだね」


 ミアの顔を見て言うと、ようやく息が吐けた。

 テオが立ち止まり、城を眺めたまま口を開いた。


「あの距離だと、今日中に中へ入るのは難しいでしょうね」


 遠くから見るより、まだ道は長い。偵察が先へ向かい、後方からは今夜の宿営地を確かめる指示が届いていた。

 今すぐあの扉を開ける必要はないのだと分かると、柄を握っていた指から少し力が抜けた。

 エリナはもう一度城を見上げた。


「明日も、パン、切れるかな」

「ベルタさんに聞いてみましょう」


 ミアが答えた。

 テオは少し考えてから、付け加えた。


「僕の分は、厚めでお願いします。汁を吸いすぎる前の方が好きなので」


 エリナは笑った。

 それから、やどかりの姿を探した。


 男は数歩先で、道の真ん中に立っていた。

 声をかけると、振り返った。目が合うまでに、ほんの少し時間がかかった。


「行こう」


 エリナが言った。

 やどかりは城へ目を戻し、それから短く頷いた。


 -----------------------------------------------------------------


 翌朝、宿営地を発った。城へ近づくほど、魔物は増えた。

 外側の壊れた柵の向こうを、幾つもの影が横切った。城門までの道に広がっていた群れを退けるのに、日が傾くまでかかった。使った矢を集める者の後ろで、新しい束が荷車から下ろされた。

 エリナたちも一度下がり、次の合図で戻った。

 前回は、魔物の姿が消えるのを待ち続けた場所だった。今日は、交代する兵士と肩を触れ合わせながら、その場所を越えた。


 城の外壁には、エリナの背丈の何倍もある傷が走っていた。

 大きな門扉は片側が傾き、その隙間から中庭が見えた。先に入った隊が左右を確かめ、外と中を行き来する通路を押さえた。その報告を待ってから、エリナたちは門をくぐった。


 靴の下で、音が変わった。

 土から、石へ。

 その響きだけで、エリナの肩が強張った。正面の階段を見た途端、視界の中の人影が消え、そこを一人で上ったときの自分が浮かんだ。


 あの階段へ行けば、大きな広間がある。

 柱の陰で息を整え、扉の隙間から奥を覗いた。戻る道を確かめたのは、扉を開ける直前だった。


「正面の奥です。前に私が行ったのは」


 声に出すと、隣のレオンが頷いた。

 前方を調べる兵士が階段へ目を向けた、そのときだった。


「右だ」


 やどかりが言った。

 エリナは男を見た。


「右の回廊から上がれる。あの階段じゃ、上から来た奴にまとめて押さえられる」


 指揮官が足を止め、正面と右側を見比べた。まず両方を確認する、と兵士を分ける。そのやり取りを聞きながら、エリナは右側の壁へ目を凝らした。

 崩れた石と、黒ずんだ彫刻が並んでいる。奥へ通じる回廊はあるが、その先は曲がっていて見えなかった。


「そっちに、階段があるの?」

「ああ」


 やどかりは、もう右へ身体を向けていた。

 テオが、その前へ半歩出た。


「待ってください」


 男が足を止めた。


「丘の道も、知っていましたね」

「……それがどうした」

「今の階段は、ここからでは見えません」


 中庭に風が吹き込んだ。崩れた壁のどこかで、小石が転がった。

 エリナは二人を見比べ、それからもう一度、やどかりの横顔を見た。


「ここにも、来たことがあるの?」


 旅をしていた男なのだから、来たことがあってもおかしくはない。そう考えようとした。

 けれど、魔王城へ来たことがあるのなら、どうして今まで一度も話してくれなかったのだろう。自分があの扉の向こうで何をされたのか、知っているのに。


 やどかりは答えなかった。

 右へ調べに行っていた兵士が戻り、回廊の先に上り階段があると報告した。その声が途切れたあとも、男の沈黙は続いた。


「やどかりさん」


 エリナが呼ぶと、ようやく目が合った。

 焚き火のそばで、父の料理の話をしたときと同じように、男の唇が僅かに動いた。

 けれど今度は、笑わなかった。


「……ある」


 かすれた声だった。


「俺は、ここに来たことがある」


 エリナは次の言葉を待った。

 やどかりは、彼女の向こうにある階段を見ていた。剣を握る手の節が、白くなっていた。


「誰と……?」


 自分でも、なぜそう聞いたのか分からなかった。

 ただ、目の前の男が見ているのは、この城だけではない気がした。


 やどかりが、ゆっくりと息を吸った。

 その答えが聞こえる前に、城の奥で、何かが笑った。


 -----------------------------------------------------------------


 笑い声は、階段の上から聞こえた。

 大きな声ではなかった。それなのに、石の壁を伝って落ちてくる響きは、鎧の擦れる音や兵士たちの短い応答の間をすり抜け、エリナの耳へはっきり届いた。

 胸元へ伸ばしかけた手を、剣の柄へ戻す。隣でレオンが盾を上げ、右の回廊へ向かっていた兵士が足を止めた。


『随分、大勢で来たな』


 エリナは息を呑んだ。

 初めて聞く声だった。前の時は口を開いていなかった。


『お前が誰かを連れてくるとは、思わなかったよ』


 やどかりの肩が、僅かに動いた。

 エリナはその動きを見た。自分へ向けられた言葉だと思っていたものが、隣にいる男へ届いたのだと、遅れて分かった。


『久しぶりだな。やどかり』


 誰も、すぐには口を開かなかった。

 エリナの耳に、後ろから走ってくる伝令の足音だけが大きく聞こえた。指揮官が手を上げ、各隊へその場を保つよう伝える。城の外にも敵がいる。盾を下ろす者はおらず、正面の階段へ向けられた槍も、動かなかった。


「……知ってるの?」


 エリナはやどかりを見た。

 男の目は階段の上へ向いていた。聞こえていないのかと思って、もう一度呼びかけようとしたとき、その喉が動いた。


「知ってる」


 昨日まで何度も聞いた声なのに、ひどく低かった。


「俺が、ここへ一緒に来た奴だ」


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