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ボロボロ勇者とカッコつけおじさん  作者: たくあん
勇者と戦わない魔法使い

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第23話 帰ってから

 ミアに脚を診てもらっている間、テオは奥の卓で仕事をしていた。

 返事のないまま時間が過ぎることを、エリナは久しぶりに気まずいと感じていた。目の前の人に断られることと、その人を嫌いになることは同じではない。そう分かっていても、何を話せばよいのかは別だった。

 戸口から老女が顔を出したのは、そんなときだった。


「テオ、鍋、借りるよ」

「右の棚です。持てますか」

「持てるよ、そのくらい。今朝のあれも、おかげできれいに乾いた」


 先ほど、窓から股引を受け取った人だった。

 老女は両手鍋を抱えると、卓にある食べかけのパンを見つけて目を細めた。


「ほら、やっぱり食べ終わってない」

「客が来たので」

「お客のせいにしちゃダメじゃないか」


 叱られたテオが黙る。

 エリナは今度こそ、少し笑ってしまった。老女はその顔を見てから、傍らの剣に気づいたらしかった。


「旅の人かい」

「……はい」

「この子に、何か直してもらいに?」


 答えようとしたところで、テオが工具を置いた。


「もう直りました。連れの方を待っているところです」


 老女は頷いた。


「そうかい。なら、待ってる間に食べていきな。あんたたち、芋は嫌いじゃないね?」


 そう言って、鍋を抱えたまま出ていった。

 エリナはテオを見た。彼はすでに作業へ戻っていたが、視線に気づくと面倒そうに顔を上げた。


「何です」

「……勧誘に来たって、言わなかったんだね」

「あなたは、もうやめたんでしょう」


 エリナは頷いた。

 それなら終わった話だ、とでもいうように、テオは手元へ目を落とした。


 しばらくして戻ってきた老女は、鍋だけでなく、パンの籠も持っていた。後ろからやどかりが椀を重ねて運んでいる。


「宿、取れたぞ。あと、そこの角で捕まった」

「手が空いてるなら運んでもらわないとね」


 老女は当然の顔で答えた。

 工房の片隅に卓が空けられ、芋と玉ねぎの煮込みが並んだ。テオは四つ目の椀が置かれるまで工具を持っていたが、老女に名前を呼ばれると、観念したように手を拭いた。


 エリナは、湯気の向こうにある青年の顔を見た。初めて笑ったときよりも、初めて仕事を中断したときの方が、少し近く見えるのが不思議だった。


「あの、私、エリナ」


 匙を取ろうとしていたテオが止まった。


「名前、まだ言ってなかったから」

「……テオです」

「うん。よろしく」


 ミアが、続けて自分の名前を伝えた。やどかりが名乗ると、テオは冗談かどうか確かめるように顔を見たが、結局、何も尋ねなかった。


 煮込みは少しぬるくなっていた。

 テオが鉄板へ指を添えると、鍋の縁から再び湯気が立ち始める。エリナはその様子を見て、つい身を乗り出した。


「それ、焦げない?」

「温度は上がりすぎないようにしています」

「でも、底に芋がついてると、そこだけ焦げるよ」


 テオが鍋を見た。

 老女が頷く。


「そうなんだよ。この前も少しくっついた」

「……なぜ、今まで言わなかったんですか」

「火の番しなくていいだけで、十分楽だからね」


 テオは椀を置きかけた。

 その手に、ミアの静かな声が重なった。


「……食べてからにしませんか」


 工具まであと少しだった指が止まり、引き返してくる。

 エリナは自分の匙で鍋の底をそっとさらった。やわらかくなった芋が動き、煮汁が隙間へ流れ込む。


「こうやって、ときどき混ぜれば大丈夫。うちは、お父さんがよく忘れて、お母さんに叱られてた」

「あなたのお父さんは、こぼして焦がすんですね」

「料理はおいしいよ。お客さんと話し始めると、そっちに夢中になるだけ」

「それは店として大丈夫なんですか」

「だから、三人でやってたんだよ」


 何気なく答えてから、エリナは匙を止めた。

 父が客と話している間に、母が皿を出し、自分が鍋をかき混ぜる。誰か一人で店を回したことなどなかった。それをできないからといって、父が料理人でなくなるわけでもなかった。

 テオは卓の紙へ手を伸ばした。

 ミアが見ると、わずかに眉を寄せる。


「書くだけです」


 紙には、先ほどエリナが話した仕切りのことが書かれていた。その下に新しい文字が加わる。

 棚いっぱいの道具にも、空を飛んでいた洗濯物にも、こうして誰かに言われて変えたところがあるのだろうか。


「テオは、こういうのを作るのが好きなんだね」


 ペンが止まった。


「……仕事ですから」

「うん。でも、好きなんだなって思った」


 今度は返事がなかった。

 テオは紙を横へよけると、冷めないうちに食べるためらしく、自分の椀を引き寄せた。


 -----------------------------------------------------------------


 食事を終える頃には、空を巡る洗濯物もなくなっていた。

 老女は空いた籠を抱え、鍋はあとで取りに来ると言って帰っていった。ミアはやどかりと一緒に荷物を宿へ運び、エリナは椅子に座ったまま、使った匙を布で拭いていた。

 洗うのはテオの魔法で一瞬だったが、エリナが拭き始めると、彼は残りまで奪わなかった。


「……エリナというのは」


 片づいた卓を挟んで、テオが言った。


「勇者の名前ですよね」


 匙を包んでいた指が止まった。

 隠すつもりではなかった。けれど自分から言わずに済むなら、その方がいいと思っていたことには、今、気づいた。


「うん」


 エリナは頷いた。


「私」


 テオの視線が、壁に立てかけた剣へ移った。

 銀色の鞘も、神殿の紋章もない。何度か研ぎ直した、普通の剣だった。


「……あなたが」


 その先に続く言葉を、エリナは待った。

 思っていたより弱そうだとか、どうしてこんなところにいるのだとか。あるいは、まだ魔王を倒せないのかと尋ねられるのかもしれなかった。

 けれどテオは、卓に置いた修理済みの灯りを、一度こちらへ寄せただけだった。


「さっきの話ですが」

「……うん」

「あなたに頼まれたからといって、返事は変わりません」


 エリナは少しだけ息を吐いた。


「分かってる」


 拭き終わった匙を、ほかのものと揃えて置いた。

 テオは、揃えられていく匙と、その向こうにあるエリナの手を黙って見ていた。少し前まで鍋を混ぜていた手であり、壁際に立てかけられた剣を握る手でもある。同じ一組の手が、そのどちらもしていることを確かめるような視線だった。


「それなら、一つ聞いてもいいですか」


 エリナが顔を上げる。


「あなたは、どうして行くんです?」


 窓の外で、店じまいを告げる声がした。誰かが子供を呼び、木戸の閉まる音が続いた。テオが指を動かすと、工房の灯りが少し明るくなった。


「僕は、ここでこうして暮らすのが好きです。寒い日は暖かい部屋にいたいし、危ない目には、できるだけ遭いたくない」


 昼に読みかけていた本が、椅子の上に伏せてあった。


「あなたにも、両親の食堂があるんでしょう」


 エリナの視線が、本から窓へ移った。

 父と母のいる方角は、建物に遮られて分からなかった。


「……あるよ」

「帰りたくないんですか」

「帰りたい」


 それは、考えなくても出てくる答えだった。

 テオが少し身を起こした。


「では、どうして?」


 責める声ではなかった。

 断った相手を追い返すための問いでもない。テオは、分からないから聞いていた。

 そのことが、かえってエリナを戸惑わせた。

 勇者だから、とは答えたくなかった。それを言えば、この人が大事にしている工房も、自分が帰りたい食堂も、また同じ言葉の下へ押し込んでしまう。


「私……」


 口を開いてから、言葉を探した。

 目の前の保冷箱には、父がこぼした汁を洗えるようにするための印が、小さくつけられていた。まだ会ったこともない父のために、この人はもう、道具を変えようとしている。

 エリナはその印を見つめたまま、ゆっくりと膝の上で手を重ねた。


 魔王を倒したい理由を、勇者という名前を使わずに話すのは、初めてだった。


 -----------------------------------------------------------------


「帰りたい」

 自分の声が、まだ工房に残っている気がした。


 テオは返事を急かさなかった。卓の端に置かれた灯りを少し動かし、エリナの顔に直接光が当たらないようにしただけだった。その気遣いに礼を言いかけて、エリナはまた口を閉じた。考える時間をもらうほど、うまい答えを探してしまいそうだった。

 だから、頭に浮かんだものから話した。


「うちのお店、入口の扉が、ちょっと引っかかるんだ」


 テオが瞬きをした。


「……扉ですか」

「うん。雨の日は特に。下を持ち上げるみたいにしないと、開かなくて」

「蝶番か、木の歪みでしょうね」

「お父さんも直すって言ってた。でも、私が旅に出るまで、ずっとそのままだった」


 朝、最初に扉を開けるのは母だった。昼を過ぎると、顔馴染みの客は誰に教わらなくても、取っ手を少し持ち上げて入ってきた。初めての客だけが外でがたがたと音を立て、そのたびにエリナか母が出ていった。

 直してしまえばいいのにと、当時は何度も思っていた。けれど今となっては、外でがたがたと扉が鳴るたびに誰かが顔を上げ、エリナか母が「今行きます」と声を返していた、その一連の音まで懐かしかった。


「帰ったら、最初に、あそこを開けるんだと思う。まだ直ってなかったら、文句を言って」


 想像すると、少しだけ笑えた。


「お母さんに、ただいまって言って。お父さんがまた、食べきれないくらい料理を出してくるから、多いよって言って……」


 そこで喉が詰まった。

 卓には、食べ終えた椀を置いた丸い跡が残っている。さっきまで四人で囲んでいた場所に、違う三人の食卓を重ねてしまった。

 テオは椀の跡を拭こうとしていた布を、脇へ置いた。


「……それを、したいんだと思う」


 エリナは息を整えた。


「魔王を倒して、何が欲しいかって言われたら、たぶん、それ」


 窓の外を、荷車がゆっくり通り過ぎていった。車輪の音が遠ざかってから、テオが口を開いた。


「魔王を倒す前に帰っても、迎えてもらえるんでしょう?」

「うん」

「それなら、先に帰っては」


 エリナは膝に重ねた指を見た。

 それは、やどかりにも差し出された道だった。今からでも帰れる。傷を休め、父と母に会って、三年間のことを少しずつ話すこともできる。

 そうした自分を想像しても、以前のように、逃げた勇者だと責める声ばかりが聞こえてくるわけではなかった。

 それでも、別の景色が浮かんだ。


「帰って、それからも、そこで暮らしたいんだ」


 テオが顔を上げた。


「明日も、お客さんが来て。その次の日も、お父さんが仕入れに行けて。お母さんが、最近、野菜が高いねって言っても、そのうち安くなるよって、普通に話せるようになってほしい」


 昔は、野菜が高ければ違う料理を出した。肉が足りなければ豆を多めに入れた。困ることはあっても、次の季節にはまた畑から荷車が来ると、疑わずに待っていられた。

 旅の途中で見た畑は、年を追うごとに小さくなっていた。去年までは人が住んでいたという家の屋根に、魔物の巣があったこともある。


「私が帰れた日だけ、無事ならいいわけじゃないから」


 そこまで話してから、エリナは唇を結んだ。

 テオの工房にも、同じ明日がある。だからあなたも戦って、と続ければ、またさっきと同じことをしてしまう。


「……でも、それでテオに来てほしいって言ってるんじゃないよ」


 慌ててつけ足すと、テオは少し眉を寄せた。


「分かっています。僕が聞いたんですから」

「そっか」

「あなたの話をしていたのでしょう」


 エリナは頷いた。

 その言い方に、ほっとした。膝の上で重ねていた手をほどき、もう一度、テオの顔を見た。


「世界を救うって、前は何度も言ってたんだけど」


 エリナは窓を見た。


「そのときより、今の方が、何をしたいのか、分かる気がする」


 テオは椅子の背へ、ゆっくりともたれた。


「僕には、そのために魔王のところまで行く勇気はありません」

「私も、あるかって言われると、困る」

「行くと言ったばかりですが」

「怖くなくなったわけじゃないもん」


 エリナは苦笑した。

 怖いから帰りたい。それも嘘ではない。帰った先を失うのが怖い。それも本当だった。どちらかが消えてくれれば楽なのに、どちらもなくならないまま、ここまで歩いてきた。


「今は、一緒に考えてくれる人がいるから」


 戸口の方へ目をやる。

 その先の通りから、聞き慣れた声が近づいていた。


「だからな、椅子に乗せて、そのまま運べばいいだろ」

「宿の階段をどうするんですか」

「持ち上げる」

「椅子ごと?」

「楽じゃねえか」

「運ばれる方の気持ちも考えてください」


 エリナはテオを見た。

 テオもこちらを見ていた。


「……一緒に、考えてはくれるんだよ」

「質には、ばらつきがあるようですね」


 笑いがこぼれたところで、二人が戻ってきた。


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