君を愛することはない。ホイッスルことはある。
夫婦の寝室。
夫となった相手の表情には、陰りがある。
経済的事情とはいえ、こんな家に嫁いできてしまった。
この家についての良い噂を聞いたことがない。
女の恐ろしい悲鳴が聞こえてくる、とか。
圧迫感があり重苦しい屋敷だ、とか。
そんな家の次期当主が、自分の夫になるとは思いもしなかった。
だが、怖気づいたりなどするものか。
覚悟の上でここに来たのだ。
「君を愛することはない」
夫から発せられたのは、予想通りの言葉だった。
噂通り圧迫感のある部屋の中、夫の声は暗闇に吸い込まれていくように消えた。
私は思わず笑いそうになった口元を引き締め、一応聞いてやることにした。
「愛することはない、ですか?」
「ああ。だが、
ホイッスルことはある」
?
ん?
「ええと? 今なんと……」
「ピピーーーーーーーー!!!」
けたたましい音が響いた。
夫がホイッスルを鳴らしたのだ。
あまりの音量に、気づくと体がのけ反っていた。顔もひきつっている気がする。耳がキンキンする。
夫は私の顔を見て申し訳なさそうに言った。
「すまない、口寂しくなって」
「…………なんですって?」
「口寂しくなった」
そう言って夫はまたホイッスルを咥えた。
待て待て待て待て!!
慌てて夫の手をつかんで止める。
確かに覚悟をして! 覚悟の上でこの屋敷には来たが!
こんなことまでは覚悟していないッ!!
「おやめください。夜です! 近所迷惑です!」
「問題ないよ」
夫は笑いながらそう言い返してきた。
野郎頭おかしいんか。
「な、な、なんと言いました? 『口寂しい』ですって?」
笛を押さえながら、確認のためにもう一度聞いた。
既に二度聞いてるから聞き間違いではないのだろうが。
「あまり気分のいい話にはならないから、つい一服したくなったんだ」
「いっぷくぅ?」
「ああ。君は嫌いだったか。すまない」
「『いっぷく』というのは、お煙草を吸ったりする時に言う、あの『一服』ですか」
「そうだね。周りでは煙を吸う者が多いが、私は笛を吸うかな」
「……笛は、『吹く』ものでは?」
「吹きもするし、吸いもするよ」
私は油断して手を離してしまっていた。夫が笛を咥える。
夫は笛を吸って、
「ピィヒヒョォオォォオォォ……」
吐いた。
「ピーーーーーーーーー!!!!」
「なんだこいつ」
しまった。声に出た。
慌てて口を閉じたが、気づかれてはいないようだった。
「さて、話を続けても、いいかな?」
笛野郎も何か言っている。
会話をする気なのだろうか。こいつ人間様と会話できるのか?
「私は、幼いころから愛情というものが理解できない。大人になった今も同じだ。愛情表現についてもよく分かっていない」
「はあ」
衝撃の告白なのであろうが、前座の笛のせいで全く驚けない。
前座が本題を越えてくるなよ。
「だから、妻となる人が私の愛情を求めていたら、お互い不幸になると思ったんだ」
「へえ」
「それで、先に言っておこうと思った」
「ああ……結婚に乗り気ではなさそうだった理由は、そういうことだったのですね。愛人の存在でも明かされるのかと思っていました」
「君には嫌な思いをさせてしまうだろうな」
「嫌な思いは既にしています」
「でも、もし妻となる人が私と同じく『喫笛』の趣味を持つならば、共に楽しむことはできると思ったんだ。それで『ホイッスルことはできる』と伝えたかった」
「ちょ、ちょっと、質問。何と言いました? きつてき?」
「煙を吸う者たちは『喫煙』と言うだろう? 私は笛を吸うから」
「喫笛」
こいつ……辞書に載っていないであろう言葉を平然と使いやがった……
「君には、喫笛の趣味は無いようだね」
笛野郎は私を見ながら寂しげに微笑んだ。
当たり前だ『喫笛者』がそこらにいるわけないだろう。
世界中を探しても一人いるかどうかだ。
そしてその栄えある一名は貴様だ。
未知の生命体を前に呆然としている私をよそに、笛野郎はまた笛を咥えた。
吸って、
「ヒィピョ……ヒューーーーソポスス」
吐いた。
「ピピーーーーーーーー!!!!」
顔が熱くなるのを感じる。
こんな感情になるのは生まれて初めてだ。
これが『夫』……?
これを『夫』と呼ぶ人生……?
「……旦那様」
「ん?」
「他のご家族には、怒られないのですか? そんなに鳴らして」
「問題ないと言ったろう? 窓を閉めていれば聞こえないんだ」
「いくらなんでもこの音は……」
そこでハッとした。
圧迫感のある屋敷。この部屋に入ってもその雰囲気は変わらなかった。
どうして気づかなかったのだろう。
壁にある奇妙な装飾……に見えた、これは……!!
吸音……材……ッ!!
しっかり対策されてやがる……!
さては家族からも迷惑に思われているな?
家がおかしいのではない、こいつの制御がうまくいっていないのだ!
「たまに、ベランダに出て吸ってしまうこともあるのだがね。外の空気の中で吸うのも、気分がいいだろう? 家の者もいるから、あまり強くは吹かないようにしているよ」
この屋敷の別の噂、『女の恐ろしい悲鳴』の正体も今分かった。
ベランダに出たこいつだ。
中途半端な配慮をしながら喫笛を嗜んだ音だ。
声の主は女じゃない。
野郎だ。笛野郎だ!!
「喫笛をきっぱりやめていただくことは、難しいのでしょうか?」
「それは……難しいな」
「では、この寝室で禁笛していただくことは?」
「きっ……キンテキ!?」
笛野郎は己をかばうように体をよじった。
「ち、違います!! そっちの、『金的』ではありません!!」
こいつは妻に何を言わせるんだ!?
私は声を張り上げた。
大声を出したって構わない。
我々を包囲する吸音材がどうにかするだろう。
「あなたが『喫笛』などと言うから! 『禁煙』に対応する言葉は『禁笛』になるでしょうが!!」
「たっ確かに! 使ったことのない言葉だったから、気づかなかったよ!」
「この寝室での喫笛は、おやめいただきたいのですが!?」
「わ、わかった。そうしよう」
笛野郎はようやく笛を置いた。
灰皿に。
灰皿に?
「夜間の喫笛も、やめていただきたいです」
哀れな灰皿と哀れな笛を見やりながら、追加で要求してみた。
このくらいなら聞き入れてくれるのではないだろうか。
「……自室で吸うのは、いいか?」
「まあ良いでしょう」
きっとその部屋も防音完備だろうから。
自室で一人で笛を吹いて何が楽しいのかは知らないが。
「君に愛情を向けることは難しいが、きちんと夫として、夫の役割に徹ッスルことにしよう」
「なんだって?」
「『徹する』と『ホイッスル』にかけた、シャレだ」
「やかましいわ」
「君の希望は、禁笛に関することだけかな?」
「旦那様の愛情を求める気はありませんし……でもせっかくなら、趣味に付き合ってほしいです」
「趣味?」
「城めぐりが好きなのです。私」
「へえ、城か。面白いのか?」
「面白いですよ。時間があればおすすめの場所をご案内しましょう」
「そうか。ぜひ頼むよ」
「興味を持っていただけて良かったです。私も旦那様を愛することはできませんが、共にキャッスルことはできるということで」
「やかましいわ」
「女一人では行きづらい場所もありますので、一緒に来ていただけるなら助かります」
「城めぐりに体力は必要かな? 恥ずかしながら私はマッスルに自信が無いんだ。……ええと、筋肉、ホイッスル、マッスル」
「やかましいわ」
……待てよ? 笛野郎を連れて行ったら城の前で笛を鳴らすのでは?
「旦那様、城めぐりの際の喫笛はお控えくださいね」
「ああ、もちろん。自然の多い場所もあるだろうからな」
「自然の多い……? ええ、まあ」
「森の中とか、そういった場所では控えているよ」
意外だ。
「そうなのですね。音がよく響きそうですのに」
「山火事になったら怖いからな」
?
「……火事?」
「ああ。山や森で吸うのは、ご法度だろう」
「お煙草を?」
「煙草もそうだが、笛も」
「笛で火事になるわけがないだろ」
「ん?」
「コホン、いえ、笛では火事になりません。旦那様」
「しかし友人が、『風光明媚な場所で笛を鳴らしたら炎上する』と言っていた」
「失礼しました。炎上しますね。ご友人のおっしゃる通りです」
どうやら笛野郎にはまともな友人がいるらしい。
そんな馬鹿な。
「安心してくれ。もし吸いたくなったら、ちゃんと灰皿のある喫煙所で吸うよ」
「……喫煙所を、使われるのですか?」
笛野郎の笛意識が過剰。
「以前はよく使っていたのだが、私が入っていくとみんなどこかへ行ってしまうんだ。寂しいので外出先で吸うことはほぼ無くなったね」
笛のインパクトが強すぎて気づかなかったが、この男、笛以外でもうざったいかもしれない。
喫煙所に騒音を持ち込んで強制的に禁煙させている。
そして当然のごとく避けられている。
こんな男だと知っていれば私ももう少し心構えが違ったであろうに。
幽霊屋敷のような噂を隠れ蓑にしながら、一番肝であった笛野郎の噂だけは流れないようにされていたか。
くっ……なんだか悔しくなってきた……!
「旦那様、今日はもう寝てもよろしいですか?」
「ん? 疲れたか?」
「申し訳ありません。今夜はあなたとハッスルする気になれなくて」
「やかましいわ」
「ああ、そうだ、早朝のホイッスルもやめてくださいね。私は朝が苦手なのです」
「わかった。気をつけよう」
「もし早朝や深夜に喫笛したら……『キンテキ』ですからね」
「ん?」
よく分かっていない笛野郎。
私は今宵初めての笑顔を見せながら、笛野郎に念を押した。
「『キンテキ』です。二つの意味で」
笛野郎の顔色が青くなった。
どうした怖気づいたか?
いまさら後悔しても、もう遅い。
貴様の快笛ライフはここまでだ。
覚悟をしておけ。




