石段街
階段を登っていた尾形秋陽の耳に秋風が掠れるように当たり、秋陽は痛みすらも感じてしまった。
髪で耳を隠そうとしても秋陽の髪では耳までは上の方しか隠すことができなかった。下へ戻ろうと思うが、秋陽達はもう既に上の方まで登っており、下へ行っても、それはそれで苦労することはわかっていた。
秋陽は隣にいる千重という秘書、または愛人でもある少女の肩に身を寄せた。千重は十代でありながら、今年の初めから秋陽の愛人を務めていた。
千重の肩で秋陽は本人に気づかれないように軽く暖を取っていた。
「下へ戻ろうか?」
「いえ、神社まではあと少しですから」
「登るんか?」
秋陽は怖気付いた声で言った。
「あと、数歩ですよ。下へ行くにもほとんど同じことですし」
「それは確かにそうやけど」
秋陽はそう言って、立ち止まった。
「うちは少しだけ休みたいわ」
千重は秋陽の横顔を下から覗くようにして見た。
二人のすぐ後ろには伊香保神社が見えていた。秋陽はその姿が見ている方を見て、夕日に輝く山々を目を細めながら眺めていた。
少しすると秋陽は千重の方を見て
「そろそろ行くとするか。待たせたな」
「いえ、先生のお好きなようにお歩きください」
千重の言葉に秋陽はやや堅苦しさを感じていた。それも千重は秋陽の愛人だからであろうか。千重は愛人を奴隷か何かだと思っているのだろうか。もし、千重が秋陽の愛人でなかったとしたら千重は秋陽にどのように接するのだろうか。
秋陽は千重のいる方を見ると、千重の黒い髪の所にある小さなつむじが目に入った。
その黒髪を秋陽は美しくあると心の中で口に出していた。千重は長い髪をしていた。秋陽に感じられる風による寒さの痛みがこの子には感じるのだろうか。
伊香保神社はすぐに着いた。伊香保神社はかつては山岳信仰の神社であったが、温泉地として栄えた今は温泉、それと医療を祭る神社となっている。
秋陽は先程見ていた景色をもう一度眺めていた。
「千重は寒ないか?」
「ええ、まだ秋なので。冬はもっと寒かったかと」
「当たり前や。冬はこれの比じゃあらへん。せやけど、午前に行った榛名湖は風が強いせいで波が立って、とても冷たい風やった。心臓が止まりそうで死んでしまう思ったわ。あれは冬のようやったわ」
千重の髪が少しだけ風に揺られ、千重はそれが気になり、髪を手に取った。髪が秋陽に当たらないようにしたのだろう。
「いっそもう、榛名湖で二人、心中でもしましょうか?」
「アホなこと言うんやない。榛名湖はとても冷たいでうちは冷たいのは嫌いや」
「私もです」
「ほな、なんで言うたんや」
「先生に振り向いてほしくて...」
「もうとっくに振り向いてるやんか」
「そうじゃありません。私は先生の愛人じゃなくて恋人になりたいんです」
「私は罪を背負いとおない。お前を傷つけるつもりはないで」
「恋人だったら私は傷つくんですか?」
「ああ」
「嘘です」
「嘘やない」
風が強くなり、千重は右腕を左腕で抱くように押さえた。
秋陽は千重の横に立ち、風に当たらないようにした。
伊香保神社の先を秋陽は行こうとは思わなかった。千重も同じだったようで、行くような素振りを見せることはなかった。だが、秋陽は敢えて、戻りたいという欲求とは反対に千重に見せつけるように先を歩き出した。
千重は嫌な顔せずに黙って秋陽のそばをついていた。
太陽が当たり朱色に輝いた紅葉が上にも下にも広がっていた。秋陽は下など見ずに紅葉を見ながら歩いていたが、千重は下に落ちている紅葉を踏まないように歩いていた。
「いやしい子やわぁ」
独り言を秋陽は言った。
「私ですか?」
「へえ」
千重は何も言わなかった。どう思ったのかは秋陽にはわからなかった。
紅葉がひらりと一枚一枚落ち、時々、二人の頭や肩にも触れた。紅葉を払いのけるようなことはせず秋陽は紅葉など気にもしないように悠々と歩いていた。
千重も秋陽を見て、同じような仕草を意識的に行った。
この散歩には終わりがなかった。いつの間に帰って来れない所まで歩いて行くように思われた。
「千重、戻ろう。戻れるか?」
「はあ、大丈夫です」
千重は来た道を逆に進んだ。
「千重はしっかりしているな。いくつやったっけ?」
「はあ、今年で十五になります」
「そうか、子供や思ってたけど、十五やったら大人でもおかしくないな」
十五はその時の子の精神的な物によって年齢は左右される。子供と大人の境界線は一番大きく影響される年頃であろう。千重は大人へ早歩きをしているようだった。
石段へ戻ると二人はせっせと下へ降りていた。石段の途中に二人が滞在している旅館がある。いつでも気軽に石段へと行けるのが秋陽は気に入ったのが理由である。
江戸時代初めの方に創業した老舗旅館であり、美しいと訪れた時に秋陽は自分でも知ってか知らずか口にしていた。
千重は秋陽の少し前を行き、旅館の場所まで着くと、後ろを向き、秋陽を見上げた。秋陽が残り一段の場所で止まり千重を見ると、先程の美しい黒髪の中にあるつむじが雑草の中に咲く花のように姿を現していた。
「先生、行きましょう」
「そうやな」
二人は歩き、旅館へと入った。
秋陽の歩く音に千重は心臓の音を思い浮かべた。それは昔、母親の胸元に耳を近づけた時を思い出させた。
・
1
千重の本名は千恵子という。家は貧しく千恵子は家のため十二の時にIという画家のモデルと愛人を務めた。
Iは千恵子を十二という年齢ながら一人の女として愛し、千恵子の処女はそこでIに捧げられた。
それは千恵子がIの愛人になった日の夜で、千恵子の目からは涙という涙が水たまりができるくらいに溢れ出ていた。涙を流す千恵子を見て、Iはその姿を美しいと思い、千恵子を自分の絵のモデルにした。
最初は千恵子との夜を描いたものであり、千恵子の悲壮的な表情と少女の体つきを描いたものだった。
Iの絵は次第に過激な物になっていき、千恵子はそれに苦しみを訴えることになる。
Iは責め絵に興味を持ち、千恵子を縄で縛り上げ、その姿を絵に表していた。
「ああ...」と千恵子は小さな声を漏らしながら縛られ、それはさらにひどいものになっていった。Iは暴力の美しさに目覚めてしまった。千恵子を縛り、身動きが取れない千恵子の体を鞭で打ち、千恵子の白い体は赤くなった縄の跡と鞭で打たれた傷の痕ばかりが目立つようになった。
それが三年ほど続きその頃になって千恵子は感情を失いかけていた。Iに道具のように扱われ、自分を人間と思えなくなっていた。またIは日常的に千恵子に暴行を働き、酒が入っている時は殴り蹴られ、酒が入っていない時は責め絵のモデルかセックスを強要するようになっていた。
ある日、Iは酔っ払った状態で千恵子を縛り上げようとした。
「かわいいお前を縛らせてやる」
Iの言葉に千恵子は言葉を出さずに頷いただけであった。
Iは器用に千恵子を縛りあげた。そしてIは鞭で を持ち、鞭を千恵子の体に打ち付けた。
叫び声を上げる千恵子の声にIは興奮をした。
そこでIは一度鞭を打つ手を止めた。
千恵子の涙で濡れた目からは薄く、Iが蝋に火をつけようとしている姿が見えた。
「ご主人様の何を...」
「お前はとても美しいからな。永遠の俺だけの美しさにとどめたいのさ。そのためにはお前の体を燃やして、お前を永遠にすることなのさ」
Iはそう言って、その火を千恵子に近づけ、千恵子を炙った。千恵子は泣きながら声を出し、助けを求めた。
その時、縄が火のおかげで切れた。千恵子は床に落ち、悪魔のようなIからすくむ足でよろけながらなんとか家から出て裸のまま外へ出て命からがら逃げ出した。
Iはその後、警察に逮捕され、千恵子の件で独房行きとなった。
千恵子は家族の元へ行こうとしたが、元いた場所にはもう家族はいず、どこへ行ったかもわからずじまいとなってしまった。
悲しみに打ちのめされた千恵子は笑顔を見せず、喫茶店で金を稼ぐためにただ働いていた。
2
菊は尾形秋陽という名前で女流作家として名を馳せていた。秋陽は色々な場所に趣き、その場所で小説の構想を考えていた。
ある日のこと、喫茶店に足を入れ、小説を書いていた秋陽の席に珈琲を運んだ少女に秋陽は目を引かれた。
悲しげな目をした少女に秋陽は不思議と興味を惹かれ、小説のモデルに出来るかもしれないと企んだ。
少女の悲しさの理由には全く興味がなかった秋陽だが、その悲しみの目は芸術作品のような美しさがあり、それを文字として書けるなら傷ついた宝石のようだと秋陽は思い、少女に声を掛けた。
「お嬢さん。一つ聞きたいことがあるんやけど」
「なんでしょう?」
少女は秋陽に不審な目を向けた。少女に見つめられた秋陽は言おうとしていたことが言えなくなり、ただ黙るしかなかった。
「なんでもない。大丈夫や」
「そうですか」
少女は気にしない様子を見せ、秋陽から離れた。それから少女は秋陽のことを忘れたかのように仕事をしていた。
秋陽は近くの店員に少女が何時に仕事を終えるかを聞くと、店員は閉店までと答えた。
3
秋陽はその後、店を出たが、近くにある家に戻り、閉店時間に近づくと外へ出て、喫茶店まで歩いた。
小雨が降り続く中、秋陽は傘を差して少しばかり寒い思いをしながら少女が店から出てくるのを待っていた。
しばらくすると店は閉まり、一時間程して、少女は店から出てきた。その瞬間、少女は秋陽と目が合った。
少女は逃げるようにその場を去ろうとしたが、秋陽は少女を呼び止めた。
「待ってくれ」
少女は止まったが、何か言うでもなく、秋陽を見ていた。
「私は午後に来ていた客や。君がなんとなく気になってな。少し話でもせえへんか。外は寒いさかい。近くにうちの家がある。そこでもええし、君が嫌ならどこか別の場所でも探そか」
秋陽は少女のそばまで歩き、少女を傘の中に入れた。
「この時間じゃどこもやってへんかったな」
「私、家は帰るので」
少女は逃げようとした。
「君、変なことをする訳やない。ただ、君に興味があったんや。うちは尾形秋陽と申します。小説家やけど、君を小説のモデルにしてみたくなったんや」
「モデルですか?」
少女の顔は蒼白になり、地面へと眩暈がしたように倒れかけた。
気を失った訳ではないが、精神が薄弱していると秋陽でもわかるほどだった。
秋陽はそのまま、少女を介抱して、自分の家まで送っていった。
4
少女は目を覚ますと、明かりのついた4畳程の部屋にいた。濡れた髪が服に少しだけ張り付いていた。
その髪を触りながら、少女は部屋を見回した。心の乱れは治まっていた。部屋で一人でいる少女は寂しくなった。先程の小説家を名乗る人の部屋だろうかと思い、少女は部屋を物音立てずに出た。
細長い廊下は暗く、少し離れた場所から明かりがついている部屋があった。
暗闇の恐怖に耐えながら、少女はその部屋へ行き、顔を覗かせた。
部屋を覗いたその時に部屋にいた先程の小説家と目が合った。
「ああ、起きたんか。もう大丈夫か?」
「はい...」
少女は警戒しながらも小説家に心を近づけたいと思った。
「もう少し寝ててもええんやけど」
「はあ、でももう大丈夫です。私、家に帰らないと」
「外は大雨や。もう少し居とき」
小説家は少女に椅子をすすめた。少女はそれに従った。
「茶でも出すさかい」
小説家はそう言って席を離れた。
少女はひとときの暖かさを感じた。姉か母親のようなものを小説家から感じた。
茶を持ってきた小説家は少女を少し見た。
「うちは尾形秋陽と申すんやけど、覚えてはるか?」
「はあ、喫茶店にいたお客と...」
「へえ、そうや。よう覚えているわ。倒れそうになったことは覚えているんか?」
「なんとなくですけれど...」と少女は言った。
「頭がぐらんとなって、雨の冷たさも気にならなくなるほどの痛みを感じたのは覚えています」
「あの時は驚いたわ」
「申し訳ありませんでした」
「ええよ。今は大丈夫ならもう安心や」
少女は秋陽の笑った顔に顔を赤くした。
「君...なんて呼んだらええんやろ」
「千恵子と申します」
「千恵子...可愛らしい名前やな」
秋陽は本当のことを言ったのだが、千恵子はあまり良い顔をしなかった。
「ごめん、何か気に障ったんか?」
「いえ、違います。秋陽さんのことじゃないんです」
秋陽はこの子には何か抱えている物があると悟った。
「よかったら話してくれへんか?」
秋陽はこの事に触れていいのか迷ったが、千恵子に対して助けを差し伸べたい気持ちと共に怖さを感じ、欲求に逆らわずに千恵子に聞いてみた。
千恵子はこの事を思い出すと、死にそうになるくらいの記憶が体を縛り付けられた。だが、秋陽に話すことでそれが和らぐような気がした。
そして千恵子は今までの事を秋陽に話した。沈黙の悲しみと叫びを千恵子の声と話から秋陽は感じ、軽々しく聞いた事を後悔した。そして、自分の行った事を重く考え、千恵子の髪に浸っている雫を彼女自身なのだと思い、千恵子に手を差し出す事にした。
「喫茶店は稼げてるか?」
「お給料は少ないです。でも、仕事があるだけありがたいです。人も良い人ですし」
千恵子の言葉は嘘ではないように思えた。
「でも、一人は少し寂しいですね」
千恵子の声は掠れ掠れになっていた。
「私は家族もいないさかい。長い間一人ぼっちや。一人暮らしは寂しくてな」
千恵子はその言葉に動かなくなった。
「私も...です。家族はどこかで生きているのかもしれないけど、実家はもう無くなってるし、どこにいるかもわからない...。一人ぼっちです」
「それは、寂しいやろな。尋常じゃないくらい」と言って、千恵子の真横に並んだ。
「これ以上、寂しくてしょうがないならうちのとこへいらっしゃい。二人ならまだ暖かいで」
秋陽は千恵子に手を差し出した。
「うちは今、秘書を探していてな、うちの仕事の手伝いやあとは身の回りのこと。千恵子さんなら良い人やと思うんや。お金は今のところよりも多く出すし、なんなら店の方を優先させてもええ。でも住み込みならよりええなあ」
「住み込みですか?」
「へえ、住み込みや。あかんか?」
「いえ、平気です。やらせてください。お店の方は大丈夫です。来月には秘書の仕事に専念します。今月だけ、今月だけはお店の方を優先させてください」
「気にせんといて、いつでも大丈夫や」
千恵子は何故こんな事を言ったのかは自分でもわからなかった。だが、秋陽に希望の光が見えていた。自分の状況を変えてくれる気がした。彼女が静かさの中に佇む女神のように思えた。自分は信者でこの命を捧げても良いとすら思っていた。そのくらい秋陽が今の千恵子には短い時間で大きくなっていた。
5
千恵子は次の月には喫茶店の仕事を辞め、秘書の仕事に専念できるようになっていた。
千恵子はあの時、自分の話をした事で、秋陽に人生を捧げたと思っていた。人生を捧げた事で気が軽くなった。だから秋陽を一生、千恵子は添い遂げるつもりでいる。
千恵子はあの日以降に長い髪を切った。秋陽は驚きつつもかわいらしくなったと褒めてくれた。
「千重、千重」
秋陽は千恵子をそう呼んでいる。千恵子の過去を知った秋陽は千恵子自身が自分の名前を良く思っていないことを知るや否や、千恵子を千重と呼ぶようにした。千恵子という生まれ持った名前を全て変えずにまず漢字を変え、そして名前を短くして呼びやすい名前にした。千恵子もとい千重はその名前で秋陽の隣にいる事になった。
・
1
秋陽は窓から外の景色を眺めていた。目の前の机には書きかけの草稿があるが、何日も書けておらず、それから目を逸らすために絶えず暗く情が見えない世界を見ていた。
窓の外には石段を歩く人々が見えるはずだが、暗い中で見えているのは人のいない風のみの物であり、石段もまともに見えなかった。
秋陽は千重がいれたお茶を飲んだが、既に冷めており、一気に口の中へ流し込んだ。
秋陽はお茶を飲み込むと同時に窓に一粒の水滴がついたのを見た。水滴はすぐに下へと流れ落ち、そして白く乾いてしまった。
「雨かいな」
「千重」と秋陽は千重を呼んだ。
「どうしました?」
「ここを見てみい。もう乾いてはるけど、水滴があるやろ。雨でも降ってきたんやろうか?」
千重はその水滴の跡を指でなぞった。
「風でどこかの温泉の湯が流れて来たのではないですか?」
千重はこんなとんちな事を真剣な風に言っており、秋陽は笑いを堪えた。
「そうやといいけどな」
秋陽はそう言って、千重の指に絡む美しさを覗き見た。
「結局、うちと千重の考えてることとは違うと思うけどな」
「そうですか?」
千重は少し不満そうな表情をした。
「鳥の涎かもしれへんで」
千重は窓から指を素早く引っ込めた。秋陽は耐えきれずに笑ってしまった。
「まだ子供やな。かわらいしいわ」
こんな子が処女でない事にいささか不思議な気持ちを持った。どれだけ酷い事をされ、悲しみの傷が体を蝕んでもこれだけの純な事が自然にできるのはこの子が持つ、真っ直ぐな心故なのか。
千重は秋陽に睨むように見た。この子の少女らしさは消えずにいた。
「今、何時や?」
「十九時四十五分です」
二十時から秋陽達は露天風呂を貸し切っていた。
「あと、5分したら部屋を出ようか」
「はい」
秋陽のすぐそばで千重は正座をしていた。
「目の前の椅子に座ってもええんやで」
「いいんでしょうか?」
「構わへんよ。うちだけの部屋やないからな。千重も遠慮はいらんで」
「ありがとうございます」
千重はそう言って、秋陽の目の前の椅子に座り、秋陽の書きかけの文を眺めていた。
「それな。中々続きが書けないんや。千重が書いてくれへんか?」
秋陽は冗談でそう言った。草稿は右端に秋陽がつけたシワがあり、秋陽は憐れな文章に見えた。
「私にゴーストライターはできないです。本もよく呼んだこともないですし、稚拙な文章しか書けないですから、先生の文じゃないとすぐにバレてしまいます」
「うちも大して良い文を書いてる訳やないで」
「そうでしょうか」
「へえ、そうや。きっとそうや」
秋陽は憐れみに似たものを感じ取った。
窓からの隙間風がほんの少し吹いており、心少し寒いような気がした。時間を見ると四十七分であった。
「準備をしよう」
「はい、先生」
2
秋陽は伊香保を舞台に千重をモデルにした小説を書いていた。その為、伊香保に拠点を移し、そこの景色を見ながら瞬間的に文へと移していた。
物語は私小説に近いもので、伊香保を訪れた小説家がそこの宿で働いている少女と出会うというものである。
小説家は男に書き換えた秋陽自身で少女は千重である。話は結末も詳しく決めないまま書き始めていた。いや、秋陽は結末自体は二人が一つになるという結末に決めているが、その書写とその後の話が表現できないでいた。
自身と千重がモデルなのだから結末と同じように営めばいいと思う。実際、秋陽は男も女も性の対象として見ることはできる。よって千重を抱くことも容易である。だが、女である秋陽は同じ女である千重を抱いたとしても主人公と同じ感情を持つことはできるのか。また千重を本人の希望で愛人にしたはいいが千重がまだ十五という若さである故の秋陽自身の自制が働き愛人のようなことは何一つ行うことはなく、愛撫すらも躊躇うような女であった。秋陽自身は千重を愛人とは思わず、妹のように思っていた。だが、結末を書くためには千重に手を出した方がいいのだろうか。千重は恐らく抵抗はしないだろう。寧ろ、喜んで秋陽と体を重ねていくだろう。
3
二十時を過ぎる少し前に二人は露天風呂へと向かった。貸切の露天風呂に浸かる前に体にお湯をかけ、秋陽はその寒さを湯にかかる前より強く感じ、急いで湯に浸かった。千重は秋陽ほど寒さが気にならないようで秋陽よりも後に湯へと足を入れた。
湯には紅葉がいくつか落ちていた。千重はそれを手に取り秋陽に笑いかけた。
「綺麗やね」と秋陽は言った。
「ええ、湯から離しても紅葉は黄金の湯の色をそのままに写しています」
確かに紅葉は湯が映し出す景色と色が全く同じであった。千重は色白な肌が湯には少々白くなくなっていた。
秋陽はそっと千重に肌をくっつけた。秋陽にとって初めて意識をした千重への愛撫であった。
千重は反応はせず、気づいたか気づかなかったかはわからなかった。
千重の髪はあの時よりは長くなっていた。その髪が秋陽の首元にくっつき、秋陽はくすぐったくなった。だが、不思議と心地よく永遠にこうしていたいと思っていた。
秋陽は肩まで湯に浸かり、千重を見上げるようにして見た。
「大丈夫ですか先生?顔が赤いですけれど」
「大丈夫や。紅葉の写しや。それほどまでに温泉が鏡のようになるんやろ。うちが赤いんやない。紅葉が赤いや」
一旦、千重から視線を外した。一枚一枚と紅葉が少しづつ降りていっていた。
「綺麗やね」
「はい、とっても」
千重の体には縄で縛られた痛々しい跡と暴行による跡が今でも鮮明に残っている。裸になるとその跡がより生々しく浮き上がってくる。そしてお尻の上の方には火傷の跡が今でも痛み続けるように浮き出ている。千重の傷の一部がこうして体に出て伝えてくることに秋陽はふと泣きそうになった。
秋陽は千重を抱きしめた。その傷を指で撫でるようになぞった。
「怖かったろう。私まで痛みが伝わってくるわ。千重に比べたらカスみたいなもんやけど。お前の痛みを少しでもうちに移せたらええのに。千重だけがこないな痛みを受けることがうちは一番悲しいんや」
千重の顔は見なかった。見てしまったら千重に悪いと思った。
悲しみの底に触れようとしても千重の底は闇のまた闇であった。秋陽がいくら手を伸ばしても届くことはなかった。
千重の胸の膨らみは大きすぎることはないが、秋陽よりも綺麗な形をしていた。だがその形は縄で縛られて形づけられ、あまり良いものではないのかもしれないと秋陽は思った。それでもその綺麗な膨らみは秋陽が見ても目を奪われるものであった。
「うちは体洗うけれど、千重はまだ湯に浸かってるか?」
「いえ、私も先生とご一緒します」
秋陽は湯から出た途端に風の冷たさに体を震えさせた。
「先生、先生」
千重は桶に湯を入れて、秋陽にかけた。
「ああ、暖かい。ありがとう」
秋陽は隣に座る千重に言った。
「体を洗ってあげようか?」
「大丈夫です。子供じゃないんです。先生こそ私が洗いましょうか。こういうのは私の役目ですし」
「大丈夫やで。私は千重を奴隷のようにしたくないんや」
秋陽は千重の体と比べるといくらか輝きが薄れていた。だが、過去に寝た男を魅了する体つきは処女のような雰囲気の体を持つ千重をも超える快感を与える体をしていた。千重自身もその身体によって快感を得たいという思いを長らく身体内に持っていた。
再び湯に入るともうここから離れたくないという欲望が強くなっていた。
この間ずっと秋陽は小説のことを考えていた。
秋陽は千重の身体に手を触れた。それは性欲によって触れたのではなく、千重に触れずに小説を書かねばならないと思っていたものが小説を早く仕上げなければという焦りにより、千重に触れたのだ。
千重に触れた手を秋陽はすぐ引っ込め、しまったと思った。焦りによって千重に触れてでも小説を仕上げようとしてしまった。秋陽は自分を千重の前の愛人のIと同じであると後悔し嫌悪した。
「先生?」
「申し訳ない。なんでもない」
秋陽は慌てて、千重から距離を取ろうとした。
「先生!」
千重はそう言って、秋陽の顔に近づいた。
「先生」
もう一度そう言い、千重は秋陽に口づけをした。
不意の口づけに秋陽は体がのぼせたような気になった。
千重は悪戯な笑顔を秋陽にだけ見せた。
それは柔らかい木にある刺々しい尖った幹を秋陽に思い出させるものだった。
「随分と急やな」と冷ましたように言ったが、内心の驚きは千重に知れているかはわからなかった。
「私、いつも先生の恋人にさせてくださいと仰っているじゃないですか。これがその覚悟です。私は先生と口づけをしてまでも愛しているのです。その先だって容易です。先生のためなら死ぬこともできます」
秋陽の体に鳥肌が湯の中で立った。千重の覚悟に死人と同じものを感じていた。もしかしたら千重は本当に自殺をするつもりなのかもしれないと思った。秋陽は千重の体を強すぎないように掴んだ。
「お前の思いは痛いほどに伝わった。うちにはお前ほどの覚悟は持ってへんかった。軽々しくお前を焦らすことをして申し訳なかった。うちは千重が好きやけど、まだ恋人のような愛情を持ててはない。今はまだ兄弟と似ているもんや。愛人のようでもないな。けど、うちは確信していることがあって、それはいつか必ず千重と同じくらい千重を愛することは感でわかるんや。うちは愛を見通すことはできるから。せやから今はこのままでいさせてくれ。いつか、お前を抱いてあげるから。お前から離れることはない」
秋陽は千重の顔を見ようかと思ったが、罪悪感に苛まれてやめ、後ろを向いた。
「うちは千重との口づけは嬉しかったで」
秋陽の背中に暖かい胸の感覚が当たった。
千重の細い腕が秋陽の胸元に当たりそうになった。そしてそれは首元に届かずにそのまま宙に浮くようにぶらんと風に吹かれもせずにじっとしていた。
「体を弄ぶくらいならうちは気にせえへんで」
「先生が私にしてくれるのが私の望みです」
秋陽はくるりと反対を向き、千重の顔をマジマジと見た。千重の表情は明らかに先程とは違っていた。そして左手から乳房に触れた。
甘い声が夜の霞に乗って、天へと昇っていくように思えた。
秋陽は優しく、千重の全身に触れた。千重が嫌がらないように慎重に触れていくのは決してIとは違うものだった。所々で声が漏れ、秋陽はその声に千重に対して緊張した。だが、もう一度聴きたいという欲望に逆らい。平等に体の隅々までも指と指で触れた。
湯の中で膣に指を入れると、千重は涙目で秋陽を見つめたが、その目には抵抗の意志は見えなかった。
最後には足を秋陽の口元まで上げ、秋陽は舐め回した。
千重は足の裏がくすぐったいらしく顔をどこか遠くに向けた。
4
部屋までは言葉一つ交わさずにいた。人にすれ違うこともなく、寂しい廊下を歩いているとふと不安に襲われた。
無意識のうちに早足になり、自分一人だけが先に歩いていた。
部屋に入ると、廊下と同じような寒さが二人の体を締め付けた。
「寒い寒い」と秋陽は言って、炭に火をつけた。しばらくすると火鉢に火がともった。
「千重もおいで」
秋陽がそう言うと、千重はささっと歩き、火鉢の前に座った。秋陽はそれを見ると、炭につけた火を煙草につけた。窓際に行き、部屋が反射する暗闇の外を眺めた。
「先生、私は先生のおかげで愛の快感を知ることができました」
秋陽は口に煙草を咥え黙っていた。
「私の初めては先生に...」
「なあ、千重」
「はい?」
秋陽は聞くのを一瞬躊躇った。
「千重にIのことを聞いてもええの?」
千重は秋陽のそばに寄り、何かを訴えている様子であった。
「手?」
千重は言葉には出さずに表情でその通りだと言い、秋陽の手を握った。
「先生、もう慣れっこなんですが、それでも時々、私はあの人が私の近くにいるんじゃないかって想像をしてしまうんです。それが怖くて怖くて。ただ、一人ではないと思うととても安心します。なので、今は大丈夫です」
千重の言葉に秋陽はそうかと独り言のような呟きをした。
「千重はうちのことを先生と呼んどるけど、あいつのことも先生と言いやしたの?」
「いえ、あの人は私にご主人様と呼ぶように強制しました」
「なんや」と秋陽は煙草を一度吸い
「千重を支配したいだけやないか。まるで、家畜のような扱いや。ひどいな」と言った。
秋陽は千重のことを思うと、心が痛くなった。そしてその気持ちを紙に書きかけたが、やめてしまった。その気持ちはまた思うと違う言葉が湧いてくる。それをまた書けばいいと思った。
「小説ですか?」と千重は紙に書きかけた様子を見て言った。
「まあ、そうや。私自身の気持ちを書こうと思ったけどやめたわ」
秋陽は千重をあまりモデルにしても千重のような人物は書けないと思い、良くないのかもと感じていた。今後、しばらくは千重をモデルにするのはよそうと決めた。
二十二時を過ぎると千重は寝床について、小さな寝息を立てていた。秋陽は微かに見える千重の寝顔を見て、椅子に座りながら眠りに入った。
・
秋陽は昨日のことに後悔をしていた。千重に心を痛めた時の思いを朝、起きた時に書こうとしたが、秋陽自身が書いた文には昨日思いでた文のような痛みがなくなっていた。
五時頃である。日はまだ出てなく、辺りはまだ夜のようであった。
部屋を出て、玄関に行くと、一人の男に声をかけられた。
「お出かけですか?」
「へえ、少し散歩に」
「今、鍵を開けますね」
男は旅館の主人だった。秋陽はそのまま外へ歩き始めた。
石段街はまだ暗いので夜と同じ静けさが宿っていた。秋陽自身も夜の散歩と思いながら石段を登っていった。
暗い石段に足を転ばないように歩きながらいつもよりのんびりと周りを見回しながらいると、二、三軒ほどの家や店からは明かりが奥底から灯っていた。
石段には途中、二つの異なった階段がある。いつもは登りは左側、降りは右側を使って降りている。秋陽はなんとなく左側を使って登ってみた。誰かが見ているわけでもなく禁止されているわけでもないが、自然と秋陽の足は早くなっていた。
「千重のようやわ」
秋陽の自分が行ったことに嬉しさを感じていた。
千重なら恥ずかしながらそれでも嬉しそうに早足で登っていく姿が想像できる。それと同じようなことを自分自身も今、自然に行えたことに千重の像に近づけている気がした。
神社まで登ると辺りは少しずつ明るくなっていた。昨日の夜はやはり少し雨が降っていたらしく、所々に雨跡が地面に染み込んでいた。雨の匂いがしているような気がするが、それは気のせいだろうと秋陽は思った。
曇り空で風は冷たく、一人でいる時の秋陽にはこのような空気が嫌いではなかった。
「いっそのこと、榛名湖に行ってみるか」
千重が起きるまでには帰って来れそうな気がしていた。下へ降りる途中で、店の準備をしている男がおり、秋陽は榛名湖への行き方を聞いた。
「榛名湖だったらここからバスが出てるよ」
「流石にこの時間はないんやろ?」
「まあ、そうだな」
「どないしよう。歩いていこか」
「バカ言ってんじゃないよ。こっから洗いたいったらそれこそもうバスが来るまで待って行った方が早いよ」
男はそう言いながら笑っていた。一瞬、怒鳴ったようにも聞こえるその口ぶりに驚いた秋陽だが、榛名湖へ行くのは諦めることにした。
旅館へ戻る頃には六時を周っていた。部屋に戻ると千重はもう起きており、布団を畳んでいた。
「なんや、もう起きてたんか?」
「はい。目が覚めてしまって。どこへ行っていたんですか?」
「目の前の階段を歩いていたわ」
秋陽は窓の外の街を流し目した。
「神社まで登って山と空を見ていたら、ふと榛名湖に行きたくなってな。階段降りていた時に店の準備しているおっちゃんがいたから榛名湖への行き方を聞いてもこの時間やバスがない言うから、歩いてこかなって独り言を言うたら怒られたようにバカって笑われたわ」と言いながら秋陽は笑っていた。
「ここから榛名湖じゃ遠いですよ」
千重は怒られたように笑われたということに矛盾を感じ想像がうまくできずにいた。
「千重、お茶入れてくれへん?」
「はい」
秋陽はまだ静かな朝のこの時に、集中して文を書けると思った。
千重がお茶を持ってくると、嬉しそうに少しずつ、物語が進んでいる感じがすると千重に言った。
千重も嬉しそうな表情を見せ、秋陽はありがとうと千重に言った。
「正直、何を書いているかは意識しないで本能のままに書いてる。後で見直して自分でまた添削して書き直せばいいだけや。細い一筋の光が物語として見えているんや」
千重は秋陽の邪魔になるためか声を出さずにいた。
・
1
物語はあとは夜と共にする場面のところまで書き上げた。
午前のうちにそこまで書き上げた秋陽はお昼を食べると少しの時間昼寝に入った。
夕方になり、千重を連れて石段街にある喫茶店へと足を向けた。秋陽と千重は珈琲を頼み、それを待っている間、ふと石段を歩く人々を眺めていた。汚れた窓の奥からは沢山というわけではないがそれでも、それなりの人が登ったら降ったりしていた。秋陽と千重がここを訪れた日曜日は歩く隙間もない程の混み具合で祭りか何かと勘違いをしたほどだった。
朝は曇り空だったが夕方になると綺麗な夕陽を空が映していた。
窓が反射して、秋陽は頼んだ珈琲はいつ来るかと思いながら見た。その時、千重と窓の反射越しに目があったが、千重はそれには気づかず、ただ目の前を意味もなさそうに眺めているだけだった。
「退屈か?」
「違います。少し気を緩めて休んでいるだけです」
「そのまま休みな。気を張りすぎると倒れてしまうで」
やがて珈琲が二人の前に置かれた。秋陽は猫舌なので、ゆっくりとちびちびと珈琲を飲んでいた。
店内にはラジオが置かれ、秋陽の耳には意味もないようなことを話が入って行った。
ラジオの横には絵画が置かれ、椅子に座り、縄で縛られている裸の少女の絵があった。秋陽はその絵のタッチを見て、すぐにIの作品だと気づいた。千重は気づいているかはわからないが、絵画の方を向くことはなかった。そしてそれがやがて意識的に向いてないことに気づくと、秋陽は急いでこの店を後にしようと思い珈琲を急いで飲み干した。
「なあ、千重。店にある絵、気づいていたやろ?」
「はい」と小さな声で答えた。
秋陽はここで謝っても千重に気を遣わせてしまうと思い何か違うことを言おうとしたが、何も出て来ず、黙ったまま一段登り、千重を見下ろした。千重は自然に上目遣いで秋陽を見上げ、その目に涙こそ浮かんでこないものの悲壮のようなものは目の奥からは染み渡っていた。
絵の中にいた千重は今の目をした千重よりも悲しげで、それが絵をより良い物にしていると嫌でも感じてしまう物だった。
秋陽は悔しくもIの絵を醜悪で美しいと思ってしまった。千重はIによってその悲劇的な美しい姿を隅々まで描かれ尽くしてしまったのだ。千重を今モデルにして絵画に描いてもそれは既に描かれてしまった千重であり、千重には描かれていない箇所はもう残っていないのだ。
千重の体は人々が絵によって見ることができる。生身の体は秋陽自身のみが拝見できる。秋陽は今書いている小説で千重の見えない体の中の部分まで書き切ることを決めた。それは千重がいなければ不可能だった。
秋陽は千重の手を引っ張り、旅館の前の段まで降りた。
「うちは今夜、お前の外面と内面の全てを書き尽くす。せやから今夜は手伝ってもらうで」
千重の顔は赤らみ、まるで温泉に入ったかのようだった。
2
二人は夕方から夜の変わり目の少し早い時間に風呂に入った。雨の冷たさにも勝る露天風呂に秋陽は体を埋めた。この時間帯でも二人以外にも多くはないが、時々人が入っている。それでも二人しかいない時の方が多かった。
千重の体はIの手によって表現され、全く誇張のないその生々しい白い体はどんな人でも簡単に大胆に拝見することができる。それは想像もできぬほどの羞恥心に苛まれることだろう。きっと千重は今もその羞恥心にどこかで脅かされてることだろう。自分のしていることは字という形でIとは体が見えるか見えないかの違いだけで全く同じことをしているのではないか。
いっそのこと、全くの嘘を並べて書き切ろうとも思っていた。
「なあ、千重」
秋陽は千重を抱き寄せた。
「うちがお前を書くと、お前の見えない部分までもがまた人々に知られてしまう。うちはお前の気持ちに乗り移ったように考えて見るんやけど、それはとてつもないことなんやな。まだ知られてない千重の内面を私の手によって人に知らされてしまうことにうちでさえ怖いわ。うちはあいつと何が違うんやろうな」
千重は秋陽の前に行き、頭を秋陽の胸に預け眠るような形になった。甘えたような千重に秋陽は母親のように頭を撫でた。
「先生とあの人は全く違います。人には優しさの愛というのがある人もいればない人もいます。私は先生には優しさの愛を常に感じています。今だって私を心配しているじゃないですか。私はそんな人には命だって差し出してもいいと前に言ったじゃないですか。私は私を想う人に尽くすんです。私と先生の情事を世間に知らしめてやりましょう。私はあの人に軽い復讐をするような心持ちでいるんです。もう既に私の全身に恥などはないんです。心の内でさえも人々に知られてもそれが先生と一緒なら怖くなんかありません」
「あんたは良い子やな。うちはお前を怖がせることはしないようにするわ。いつまでも一緒にいる」
小さな風が吹き肌寒さを早々に感じた。
「雪が降るかもしれへんな」
「雪?」
「ああ、雪の降る前は急に寒くなるんや。もしかしたらやけど、まあ、新潟やあらへんから。うちの思い違いや」
小さな風に秋陽の体はもう慣れたようで肩を外に出し、暗くなりつつある空と夕陽が千重の体に反射したのを見て、自分でもわからないくらいに赤くなった。
3
夕食に秋陽は日本酒を二本飲んだ。普段はあまり酒を飲むことはないのだが、秋陽ですら千重の相手をするのは緊張をしていた。千重のことをより想えば想うほど、胸の高鳴りはより強くなっていった。
酒で緊張が無くなることはないが、これで少しは平常心を保つことができるであろう。いつもはちびちびと飲む秋陽が思いっきり飲んでいる姿に千重は秋陽の緊張のほどを知った。そしてそれと同時に嬉しくもあった。
千重の裸はやはり美しかった。接吻はあの時と変わらぬ唇で柔らかく心地良かった。秋陽は思わず、千重の首元を軽く甘噛みした。千重からは小さな声が漏れた。
傷ついた千重の体を秋陽は癒すように撫でて、その後に陰部を舌で舐めた。少しずつ、激しくせずに千重を愛撫し続け、疲れて倒れるように横になった時、同じようなことを千重が秋陽に行う。秋陽の甘い声を千重は初めて聴き、十代になったばかりの小さな少女ようだと思った。
二人は貝合わせをし、千重にとっては初めての快感でそれが良いのか悪いのかもわからないものだった。秋陽は段々と緊張が解けてきて、千重の様子を見て、支えてあげるような仕草をした。
木綿縞の布団に愛液が落ち、そのことにも気づかずに激しく揺れる千重の髪を見て、秋陽は意識さえ失いかけた。千重の髪が暖簾のように感じ、不思議なことにどこか懐かしさを覚えた。
秋陽は千重を上に向かせて抱こうとしたかったのだが、秋陽自身の疲れがそれを許さなかった。秋陽は体を上に向かせ、そこに千重が乗るように促した。千重は本能のままに秋陽に馬乗りになった。それはまるで愛人である千重が秋陽を支配しているようであった。
まさに永遠の前戯であった。水が流れ、二人は時の流れを忘れてしまった。
「先生」
「先生なんて呼ばんといて。菊と呼んでくれ」
「菊?」
「私の名前や。愛する子とやるときくらい名前を呼ばれたいわ。先生なんて難儀やん」
千重は秋陽の唇を舐めた。
「菊さん。良いお名前ですね。とても美しい」
秋陽は限界を迎える声を上げていた。
「千重、どれくらいの時間が経ったやろ。窓からの月が眩しいわ」
雲は暗くなるうちにどこかへ行き、月が綺麗な二人を照らしていた。
「菊さん。菊さんの体が月に反射して眩しいです」
「私も千重の体が眩しく反射してるわ。なあ、最後に千重と私で気持ち良くなろう。人の欲望をお互いに出しても誰も見いひん。二人だけや」
千重は秋陽に秋陽は千重に今まで以上に深く体を重ねた。
二人は初めて愛することを表現した。千重は愛人として初めて愛人らしい事を行えた。秋陽は初めて千重を愛人として受け入れた。
秋陽の千重の唇と唇は重なり合い、雪のように冷たい唇と雨のような暖かさを持つ唇は幾度も無く誰も知らぬ中で情事を続けていた。
4
秋陽の目が覚め、時間を見ると四時になっていた。最後に秋陽が時間を見たのは一時になるかならないかであったから二、三時間程しか眠っていなかった。
「まさか一日経っていたことはないと思うさかい」
秋陽はそう呟いて、昨夜と変わらない月を見た。
千重は目を閉じていた。秋陽はその唇に口づけをしようとしたが、月が照らす中で見られているような気がしてやめた。明かりをつけずに月の明かりを頼りに小説を少しずつ書き始めた。
昨夜の情事を感じた事そのままに脚色もせずに書き続け、書いているうちに再び体を重ねているような気になっていた。
「うちは随分と最低な女やな」
そう言いながらもその手は止まることを知らなかった。嫌悪してもその欲には逆らえなかった。
千重には心の中で謝った。千重の心に謝っていた。
長いようで短かった出来事を書き終えると再び寝に入った。寝るまでの記憶はなく一瞬にして眠りについた。
5
朝を起きると千重は秋陽を向いてうずうずと唇を立てていた。
秋陽は千重に口づけをした。
「これか?」
「はい」
とても嬉しそうな顔をしている千重を見て、秋陽は安堵の気持ちを感じていた。
その後、秋陽は最後の仕上げに入った。昨日書いた文の添削とその後の文を書いていた。
秋陽は自分が書いた文をあまり良く思わず、新しく描き直そうとしたが、千重はその文を気に入り、書き直すことを許さなかった。
そして最後は主人公と少女は別れる場面を書き、物語は完成を迎えた。
「二人は別れてしまうんですね」
「ああ、あくまで私達の全て書き切ると嫌やからな。二人は私達とは違う別人ということにしておくためや」と秋陽が言うと
ふふと千重は小さく笑った。
「なんだか子供のようですね」
5
ご飯を食べると昨夜の汗を流そうと風呂に誘った。千重は恥ずがり、秋陽は千重をかわいらしいと思った。
千重の体は昨日と変わらず、美しいままだった。秋陽はそれを見て再び安堵した。一つ体を重ねてもこの少女は変わらずにいることに何か人間らしさを感じた。
「千重、うちはここでやりたいことを全てやり切った。小説も完成したし、お前を愛することもできた。そろそろここを離れる時や。寂しいけどな」
千重を前にして秋陽はそう言った。千重はまるで小説の中のように秋陽と別れるかのような表情を見せた。
「千重、また来よう。二人で旅行しにな。ここはうちらの思い出の場所になってしもうた。罪を残してしまったわ」
風呂を出ると、二人は石段へ行こうと外に出た。
「千重、うちは下に行くで、上はもう何度も行ったやんか」
「いえ、まだ神社の先をしっかりと行っていないじゃないですか。最後にその景色を見て目に焼き付けておきたいんです」
秋陽は下に行きたがるが、千重は上に行きたがる。
秋陽は諦めて上へ行こうとした。そしてその時、千重の首元に赤くなった跡があるのに気がつき、背徳に心を殺されてしまった。