5,私は私であるために
ある春の朝、莉子は目覚ましの音でゆっくりと目を開けた。窓の外には柔らかな日差しが差し込み、部屋の隅には小さな観葉植物が静かに揺れている。いつもと変わらない朝の光景だったが、莉子の胸の中には以前にはなかった穏やかな感覚が広がっていた。
ベッドの上でスマホを手に取り、画面に並んだ過去の投稿を眺める。季節の移ろい、ちょっとした食事の写真、散歩中に見つけた小さな花、そして時に込めた言葉の断片たち。
「これ、全部私なんだな……」
長いあいだ抱えていた「私は私である」という感覚が、少しずつ形を取り戻しているのを感じていた。
以前の莉子は、投稿に「意味はあるのだろうか」と疑いを持っていた。誰かに見られるためでも、評価されるためでもないのに、なぜ繰り返すのか。その答えは見えづらかった。
しかし今は違った。記録は未来の自分への手紙だと気づいたのだ。
過去の私が今の私へ送ったメッセージ。そして今の私が、未来の私へ紡ぐ言葉。そうやって、時間を超えて自分と対話し続けることこそが、アイデンティティを形作る営みなのだ。
莉子は、スマホのメモ帳を開き、新しい文章を書き始めた。
《いつか、この記録を振り返った未来の私へ。今日もちゃんと生きているよ。たとえ小さな一歩でも、確かに進んでいる。過去の私たちが頑張ってきたから、今の私がここにいる。ありがとう。これからも一緒に歩こう。》
画面に書かれた文字を見つめながら、莉子の胸には深い安堵が満ちた。孤独ではない。自分の歴史が、心が、時間が、自分を支えている。
その日、莉子は小さな夕飯を丁寧に作り、写真を撮った。投稿ボタンを押す指先には迷いがなかった。
「私は、私を生きている」
そう強く感じながら。