1,記録する日々
スマホの画面を見つめながら、莉子はため息をついた。Instagramの投稿画面には、先ほど撮った夕飯の写真が映っている。照明の加減も悪くない。食器の配置も、まあまあきれいに撮れた。けれど、投稿ボタンに指を伸ばす気になれない。
(こんなもの、載せてどうするんだろう)
その瞬間、頭の中に浮かんだのは、誰かの冷めた視線でも、炎上を恐れる不安でもなく、自分自身の、冷ややかな声だった。
(意味あるの?)
Instagramに料理の写真を上げて、Twitterで「今日の夕飯!」なんてつぶやいて、いったい誰が興味を持つ?フォロワーは数えるほどしかいないし、「いいね」がたくさんつくわけでもない。それなのに、なぜか続けている。この行動の正体が、自分でもよくわからなかった。
莉子は投稿画面を閉じ、スマホをテーブルに置くと、ぼんやりと壁の時計を見つめた。静かな夜。鍋の匂いがまだ部屋に残っている。いつもならこの時間はYouTubeでも見ながら過ごすけれど、今夜は何かがひっかかっていた。
それは、自分の中の「記憶」についての不安だった。
最近、ふとしたときに、「あれ、あのとき何をしていたっけ?」と思い出せないことが増えた。特別な記憶ではない。たとえば、去年の秋に何を食べていたか、どんな服を着ていたか、何を思っていたか――そういう、ありふれた毎日が、ぽっかり抜け落ちている。
(私は、私のことを忘れてしまうんじゃないか)
そんな恐れが、時折、背中に張りつくように広がるのだった。
翌朝、莉子は起き抜けにスマホのアルバムを開いた。そこには、自分が作った料理や、散歩の途中で撮った花の写真、カフェのコーヒー、窓から見た夕焼けなどが、時系列で並んでいた。
その一つひとつに、過去の自分が息づいている気がした。
「ああ、このとき、ちょっと落ち込んでたんだよな」
「この写真、仕事がうまくいって浮かれてた日だ」
写真が、過去の感情や思考を呼び起こす。忘れかけていた感覚が、画面の中からにじみ出すように戻ってくる。そのとき、莉子はふと気づいた。
(私はこれを、誰かに見てもらうためだけにやってるわけじゃないんだ)
記録すること、それ自体が意味を持っている。自分の足跡をたどれるように、かすれかけた記憶をすくい上げるように。そうして過去の自分と今の自分をつなぎ直すことは、「私って、こういう人だったな」「こういうことを大切にしてたな」と確認する作業なのだ。
それは、アイデンティティの確立につながっていく。
過去がなければ、今をどう定義していいかわからない。そして今が曖昧になれば、未来も描けない。だからこそ、たとえ小さな出来事でも、写真に撮って言葉を添えることには、意味がある。
それでも時々、莉子は葛藤する。「意味なんてない」と思ってしまう夜もある。画面を開いたまま、投稿せずに閉じてしまうこともある。そういう日は決まって、心がちょっとだけ曇っている。
でも、それでいいのだと最近は思えるようになった。
投稿したいときに、すればいい。
投稿する理由が見つからないときは、こう思おう。
(私は、私を忘れたくないから)
今日の夕飯を記録する。ただのルーチンではない、自分とのつながりを保つ、ひとつの方法。そんな風に思えるようになったとき、莉子は再びスマホを手に取った。
画面には、昨夜の投稿画面がそのまま残っていた。写真を見て、ふっと笑みがこぼれる。
「まあ、悪くないじゃん」
指先が、投稿ボタンを静かに押した。