あなたはこの物語を一度読んだことがあります
この前書きにたどり着いたということは、
あなたは「タイトル」も「説明」も、すべて読んだということですね。
でも――それ、初めて読んだときと同じでしたか?
念のため、ここからは慎重にお進みください。
この物語は、“初読であると思い込んでいる人”にこそ作用するよう設計されています。
ポストに差し込まれた白い封筒を、なんの気なしに拾い上げた。差出人の名前はなかった。
宛名だけが、はっきりと、僕の名前になっていた。
封を切ると、中から一枚の紙が落ちた。罫線もなく、ただの白い紙に見えたが、
光の角度を変えると、文字が浮かび上がるように読めた。
「これは君が書いた手紙だ」
……記憶にない。
こんな文章を書いた覚えは、どこにもない。けれど不思議と、文体には見覚えがあった。
行の詰め方。読点の打ち方。言い回しの癖。
それらすべてが、妙に“僕っぽかった”。
僕はソファに沈み、読み始める。
⸻
こんにちは、君へ。
君がこれを読んでいるなら、それはすでに二度目か、
あるいは三度目のはずです。
最初は信じなかったかもしれない。
けれど今回は、もう少し深くまで思い出してみてほしい。
⸻
文面はやさしく、だが不気味だった。
「君」「あなた」「きみ」と、書き手の中で二人称が揺れている。
誰に向けているのか、誰が読んでいるのか、それがわからなくなる。
手紙の下部に、日付のようなものが書いてあった。
それは今日の日付ではなく――
明日の日付だった。
僕は手紙を伏せ、もう一度、宛名を見た。
そこに書かれていたのは、たしかに僕の名前だった。
でも、その“漢字の選び方”が、かつて一度だけ――
僕が小学校の作文で使った、あの古いペンネームだった。
⸻
手紙の続きを読むと、「明日、君はこの手紙をなくすだろう」とあった。
奇妙な予言めいた文章だったが、読み終えるころには、さほど気にも留めていなかった。
それよりも、その下に書かれていた一文に、僕は背筋を冷たくした。
『君は今日、図書館で椅子を蹴られて振り向くが、そこには誰もいなかった』
……図書館?
たしかに今日、僕は久しぶりに図書館へ行っていた。
2階の窓際の席で、文庫本を読んでいたとき――
誰かが背後の椅子を蹴ったような音がして、思わず振り向いた。
でも、そこには誰もいなかった。
その瞬間のことを、僕は誰にも話していない。
そもそも、自分でも気のせいだと思い、すぐに忘れていたはずだった。
なのに――なぜ、この手紙の中に書かれている?
⸻
読み終える直前、僕はページの端に「この物語を、あなたは一度読んでいる」という文字を見た気がした。
だが、いま読み返しても、どこにも見当たらない。
……いや、たしかに読んだのだ。
だって、“そのときの感情”を、僕ははっきり思い出せるのだから。
――驚きと、わずかな、怖さ。
⸻
時計を見ると、もう夕方だった。
手紙を畳んで、封筒に戻す。
けれど、その瞬間だった。
封筒の裏に、小さな字でこう書かれていた。
「この封筒を捨てたことを、君はもう忘れている」
僕は息を止めた。
捨てた?
……いや、していない。今、ここにある。
けれど――もしかして以前にも、同じ封筒を拾って、読んで、捨てたことがあったのだろうか。
そしてまた、こうして同じように拾い、読んで――
この瞬間を、繰り返している?
⸻
机の上に手紙を置いたまま、僕は立ち上がった。
けれど、数歩進んだところで、なぜか足が止まる。
振り返ると、そこにあるはずの手紙が、見当たらなかった。
――たしかに置いたはずだ。
代わりにそこには、一冊のノートがあった。
表紙には、手書きのペンでこう記されていた。
《再読用》
⸻
君は今、たぶん首をかしげている。
「これは僕の話だったのでは?」
それとも、「これはフィクションのはずでは?」と。
安心していい。
どちらも、正しい。
君は以前、この物語を読んだ。
あるいは、書いたことがある。
もしくは、書かれることを予想していた。
その証拠に、君は今――
この文が、どこに向かうかを、すでに知っているだろう?
⸻
たとえば。
この次の文が、
妙に間を空けた
このリズムで書かれてくることを、
もう知っている。
⸻
そのことに、どうか気づかないふりをしてほしい。
読み進めるうちに、君はまた忘れてしまうから。
それでいい。
それで、また君は思い出す。
⸻
手紙の内容は、もう区別がつかない。
僕が読んでいるのか、君が書いたのか。
君が覚えているのか、僕が思い出しているのか。
紙の上で重なりあった言葉たちは、いまや誰の記憶でもあり、誰の記憶でもない。
⸻
けれど、君にはもう、気づいているはずだ。
この物語が、君に語りかけていることに。
そう――
これは、君の物語だったのだと。
⸻
ノートの最後のページをめくると、そこには一枚の白紙が貼られていた。
罫線も、余白も、印刷された文字もない。
ただ――うっすらと見える筆圧の跡だけがあった。
僕はそっと指でなぞった。
まるで、自分が書いたものの痕跡を確かめるように。
そして、そこに浮かび上がった文字は、こうだった。
「この物語を、君が書き終える時が来た」
⸻
誰が言ったのかは、わからない。
誰が読んだのかも、もうどうでもよかった。
ただ、はっきりとわかるのは――
この物語を、僕は一度読んでいるということ。
いや、もしかすると、一度だけではないということ。
思い出せば思い出すほど、その“読んだ記憶”は鮮明になっていく。
けれど同時に、どこまでが物語で、どこまでが現実だったのか――境界線は曖昧になる。
⸻
ノートを閉じると、宛名の文字がうっすらと変わっていた。
そこには、こう記されていた。
「あなたへ」
⸻
読者のあなたへ。
ここから先は、君の手で書いてほしい。
あるいは、もう一度、最初から読んでみてほしい。
きっと、前とは違う物語が立ち上がってくるはずだから。
⸻
だから最後に、こう記して終えよう。
あなたはこの物語を、一度読んだことがあります。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
けれど、正直に答えてください。
本当に「初めて読んだ」と言い切れますか?
どこかで読んだ気がした。
ある表現に既視感があった。
あらすじの語り口が、“自分の声”のようだった。
それらはすべて――この物語の仕掛けです。
ですから、最後にお願いがあります。
***もう一度、最初から読んでみてください。***
最初に読んだときとは、きっと違う物語が立ち上がってくるはずですから。