ほとんど普通な一日
商業地区を歩いていた。イレーネの手をしっかり握りながら、肩にはアルテミサがちょこんと座っている。まるで飾り物のように静かに見えたが、その小さな頭は時折きょろきょろと周囲を見渡していた。生きているのは間違いない。
イレーネは時折、広場のパフォーマンスに目を奪われていた。大道芸人のジャグリング、魔法使いによる花火のような魔法、リュートを奏でる吟遊詩人の大げさな物語。中には「呪われたベッドと話すカーテンに閉じ込められたお姫様を、勇者が助けた」というような、とんでもない話もあって、思わず笑った。
けれど、どの物語にも「聖剣の使い手」だの「選ばれし英雄」だのが登場する。世界を救うのはいつも、そういう特別な存在だ。
あいつの顔が浮かんだ。あのイヤな笑み。聖剣の加護を受けた男。きっと、いずれ誰かがあいつの英雄譚を歌うのだろう。
俺はというと、ひたすら「使えそうで誰も見向きもしない素材」を探して露店を覗いていた。アルテミサは微動だにせず肩に乗っていたが、通りすがりのドワーフたちが彼女に一瞥をくれることがあった。感の鋭い冒険者は彼女から何らかの魔力を感じ取ったようだったが、特に気にせず去っていく。
イレーネは静かに俺の手を握っていた。穏やかな日常…そう思った矢先だった。
「泥棒だーっ!捕まえろーっ!」
筋肉の塊が、物を抱えて猛スピードでこちらに向かってくる。後方では商人らしき人々が叫んでいた。次の瞬間、その男の進行方向にイレーネがいた。
「イレーネ!」
焦った俺が動き出すより早く、アルテミサが跳ねた。彼女は華麗に宙を舞い、小さな腕を泥棒に向けて叫んだ。
「パラライズ・サンダー!」
指ほどの雷槍が放たれ、男の顔面を直撃した。バチバチと音を立て、男は泡を吹いて地面に倒れ込んだ。
焦げたような匂いが鼻を刺した。…いや、これって…
昔見たアニメの「感電ギャグ」かよ。
周囲は騒然。おもちゃが動いた、などと囁く声が聞こえたが、イレーネは何事もなかったかのようにアルテミサを拾い、ぎゅっと抱きしめた。
俺は苦笑して顔を手で覆った。信じられない。
「イレーネ…服、買おうか。そろそろ他の服も必要だよな」
イレーネはきょとんとしていた。貧民街で育った彼女にとって、服を着替えるという文化はなかったのだろう。俺は苦笑して彼女の手を引き、生地屋を探すことにした。
石造りの無骨な建物に入ると、中は一変。色とりどりの布地と糸が並び、魔法の光が幻想的な雰囲気を演出していた。店番の老ドワーフ女性がにこやかに迎えてくれた。
「いらっしゃい。布が欲しいのかい? 染料もあるよ~」
「布を。メートルで買えます?」
「お金次第だねぇ」
「…銀貨80枚分くらいで」
「まあ! じゃあ、これなんかどう?」
おばあさんは奥へ引っ込み、ガチャガチャと音を立てて何かを探し出した。出てきた時には、巻かれた布と糸を抱えていた。
「これはね、羊型のデミヒューマン『パン族』の女の子から刈り取ったウール。普通の布より高級。アラクネ(蜘蛛女族)の糸には劣るけど、肌触りはいいよ。糸4メートルと布2メートルで、ちょうど銀貨80枚だ」
…これは高いのか? 安いのか? とりあえず一度考えるふりをして、納得した風を装った。
「じゃあ、それで」
支払うと、彼女は手際よくハサミを操り、数秒で切り分けた。その動きはまるで剣士のような華麗さだった。
「ありがとね~ また来な」
外へ出ると、アルテミサは再び動かず、人形に擬態していた。誰も彼女が“生きている”とは思っていないだろう。
「布は揃った。染めたり他の素材と合わせたり…どうしようか」
そんなことを考えながら歩いていると、また広場に戻っていた。パフォーマーがトリックを披露し、酔っ払いが噴水で寝ている。陽は落ち、空には星が瞬いていた。
イレーネが俺を見上げる。目を細め、静かに両手を上げた。
「…抱っこ?」
仕方ないな。
彼女を抱き上げると、アルテミサが俺の肩によじ登り、くるくると頭を動かしながら警戒を続けていた。
「…平和な日だったな、今日は」




