時が止まる時
戦場には、もう多くは残っていなかった。
混沌は一つの中心に集約されていた——
ゴブリンロード… そしてその背後に付き従うミュータントのヒーラー。
まるでゲームのダンジョンボスのようだった。
だがこれは現実。アイテムも、「セーブ」も、「リスタート」も存在しない。
腐敗した瘴気が、ゆっくりと波のように広がっていた。
それは目に見えない疫病のようだった。
何人かの冒険者は吐き気と目眩で後退した。
これは普通の魔力ではない。
汚され、怨念と憎しみ、飢えに満ちた「腐った魔力」だった。
ゴブリンの前で、ローランドは前線を支えていた。
彼の盾は微かに聖なる光を帯びていたが、
その巨大な剣が振るわれるたび、
まるで巨人が戦太鼓を叩いているような轟音が響いた。
カァン——
再び。
カァン——
ローランドは一歩後退した。
だが、倒れはしなかった。
左側では、隊長が鋭く素早い剣撃でゴブリンの硬い皮膚を突き刺そうとしていた。
だが、それはまるで数十年晒された革のように硬かった。
(これはパッシブスキルか? それとも変異の結果か…)
誰にも分からなかった。
だが、もうそれは関係なかった。
別の場所では、“混沌の斧”のリーダーである大男が、大木を割るように斧を振り下ろした。
カァン。
ゴブリンロードはその攻撃を素手で止めた。
黒ずんだ指が斧の柄を掴み、
彼は笑った。
言葉にならない嘲笑。
人間など虫けらだと言わんばかりに——
彼は「死」を体現していた。
---
俺は…息を潜めていた。
イレーネは俺の背後にしがみついていた。
(……何か、しなきゃ。今すぐに)
俺の針は折れていた。半分の刃。
だが、それは問題ではなかった。
俺は動き始めた。
静かに。
ゆっくりと。
影のように。
ゴブリンロードの意識は、前線の敵に集中していた。
俺のような「虫けら」が動いているとは思ってもいなかった。
狙いは——ゴブリンヒーラー。
あの寄生虫のような存在を、俺が止めなければ終わらない。
顎を噛みしめる。
手は汗で濡れていた。
心臓は金床のように打ち鳴らされていた。
そして——
ザクッ!
俺の針がヒーラーの首に突き刺さった。
抵抗はあったが、押し込んだ。骨まで。
奴は悲鳴を上げたが、もう遅かった。
—「ヒーラーは倒した! ゴブリンロードは回復できないぞ!」
俺は叫んだ。
流れが変わった。
隊長の剣が、ゴブリンロードの左脚を切り裂いた。
ローランドの盾が、奴の牙を一つ吹き飛ばした。
斧の男が、奴の腹を深く裂いた。
そして、俺は——
(今だ。)
走った。
バカのように。
狂ったように。
半分になった針を掲げて、背後から奴を突こうとした。
だが…今回は、見逃されなかった。
ゴブリンロードが反応した。
その巨大な剣が、虫けらを叩き潰すように背後へと振るわれた。
ザシュッ!
俺には見えなかった。
ただ、感じた。
熱い。
腹部に焼けるような痛み。
俺の体は地面に倒れた。
比喩じゃない。本当に倒れた。
色彩が消えた。
落ちるはずの葉は、空中で止まった。
戦場の音が遠くなった。
まるで音楽が途中で止まったように——
そして、俺は…
静かに、地面に伏していた。
血も、空中で止まっていた。
(死んだのか…?)
—「えへへ〜、惜しかった〜!」
甘く、悪戯っぽい声がした。
お菓子の瓶に手を突っ込んだ子供のような声。
目を動かすと——いや、動かしたつもりで、見えた。
…彼女が。
空中に浮かぶ一人の少女。
白いドレスが春の雲のように揺れていた。
髪は長く、光に合わせてピンク、金、青と色を変えていた。
表情は、神聖さといたずら心の混ざったような、奇妙な笑顔だった。
—「ん〜? 気づいた? そうそう、私だよ〜。あの時、君をこの世界に送った神様〜!」
(は…?)
—「そう! 私、創造の女神! 世界を管理する側! 君をこの素敵なファンタジー世界に送ってあげたのよ! 貴族に生まれてニート生活をエンジョイさせるはずだったのに〜!」
(…え?)
—「でもね〜、間違えて別の家に送っちゃったの。うっかりさんだよね、私♪」
ポップコーンのバケツを手に持ち、3Dメガネをつける。
—「でもでも! これはこれで面白い! 見て見てこのバトル! ドラマ! 緊張感! 最高!」
彼女は空中で逆さまになって、俺の顔に近づく。
—「ねぇねぇエステル〜? いつになったら本気出すの? なんで“縫う”能力、もっと上手に使わないの〜?」
—「敵を“切断”したり、“地面に縫い付ける”とか、“魔法を縫う”とかさ〜! 使い方は無限なんだよ〜?」
(でも、俺は…怪我して…)
—「ぷぷっ、それくらいで弱音? そんなの気にしなくていいの!」
額に指を当てた。
温かい光。痛みではなく、ただの「明晰」。
—「よーし、君の “縫合(EX)” の本当の力、ちょっと開放しちゃおうかな〜」
微笑むその目は、どこまでも無邪気だった。
—「距離を縫って、動きを縫って、魔法を縫って、魂すら縫えるかもよ?」
そして、クルクルと空中で回って…
—「さて、私は次の世界へ行くよ〜。次は主人公が火を吐くニワトリの世界の戦争! たのしみ〜!」
彼女はウィンクして、
—「がんばってね、エステル〜!」
…そして、消えた。
俺は、そこに残された。
混乱しながらも、確信があった。
彼女の言葉は…嘘じゃない。
何かが俺の中で「パキン」と音を立てて割れた。
(なぜ俺は、当たり前のことしか考えていなかったんだ…)
俺はスキルを発動した。
《 発動(EX)》
【縫合開始:自己修復】
スキルの対象は——俺の傷。
俺は、針で縫うようにして、自分の腹の傷を閉じていった。
笑った。
乾いた笑み。
そして、ゴブリンロードを見つめた。
—「……おい、バケモノ。まだ終わってねぇぞ。」
——俺は立ち上がる。
戦場が、再び動き始めた




