錆びた短剣と見えない糸
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疲れていた。
体というより、頭の中がぐちゃぐちゃだった。
まるで濡れた綿で包まれているような感覚。
声、顔、記憶…もう全部が意味を失っていた。
残っていた所持品は売り払った。
貴族として着ていた高級な服も、今は古着屋の誰かの手に渡った。
その金で手に入れたのは、安物の服と、
錆びた短剣――
飾りか、墓標か、それともどちらでもないかもしれない。
そして今、俺は冒険者ギルドの依頼掲示板の前に立っていた。
木製の掲示板には、古びた板が無数に吊るされていて、
それぞれに手書きで依頼内容、ランク、報酬が書かれていた。
俺は自分の冒険者カードを見下ろした。
名前:エステル
スキル:裁縫
肝心の「スキルランク」は、どこにも書かれていない。
空白だった。
――これはただの記入ミスか、
それとも「書く価値もない」という意味なのか。
思わず、小さく笑ってしまった。
笑って、少しだけ楽になる。そんな癖がまだ抜けない。
目を動かし、いくつかの依頼を読んでいく。
俺のランクはF。
一番下。つまり、選べる依頼も限られている。
そんな中、目に留まったのが――
依頼内容:マリタ草を5本採取せよ
「マリタ草」は、薬師や錬金術師がポーションや軟膏に使用する魔草であり、
潰して直接、軽い外傷に塗布することも可能。
特徴:長い葉、青みがかった縁、柑橘系の香り。
報酬:銅貨3枚。
派手じゃない。
全く冒険らしくない。
だが、これが俺に残された「仕事」だった。
掲示板から依頼板を外し、カウンターへ向かう。
受付嬢は短髪で、無表情。
まるで一日中同じセリフを繰り返しているかのような口調だった。
「受理。東門から出て、リリアの森へ。徒歩約30分。
毒草に気をつけて。
たまにゴブリンが出るけど……まあ、大丈夫でしょ」
「……信じてくれてありがとう」
「死なないでね」
そして、俺の最初の仕事が始まった。
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サンスパイアの街はまるで巨大な胃袋だ。
人、音、臭いが渦を巻き、常に何かを飲み込んでいる。
中層区の道は、それなりに舗装されているが、
空気は煙と汗と喧騒で満たされていた。
鍛冶屋の打撃音、宿屋の笑い声、行き交う冒険者たち。
誰もが何かを探し、何かを失っているように見えた。
外縁区に差し掛かると、景色は一変した。
崩れかけた家。歪んだ屋根。
吠える犬と、湿った木の匂い。
そして、東門を越えた先――
世界が少しだけ、静かになった。
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森の中は静かだった。
鳥の声、風の音、そして自分の足音だけが響いている。
俺は数分間…いや、気づけば一時間以上探していた。
葉の形が似ている草はあった。
だが、柑橘系の香りはしない。
あるものはカビ臭く、あるものは乾燥しすぎていた。
もう少し森の奥へ進む。
そして――
その香りが、風に乗って届いた。
甘くて、ほろ苦く、確かに**「それ」だった。**
しゃがみ込むと、小さな群生地が目の前に広がっていた。
長い葉、青い縁、柑橘の香り。
「間違いない…これだ」
俺は錆びた短剣を慎重に使って、根元から切り取った。
ぎこちないが、なんとか採取できた。
素人目でも分かる。
これは、状態が良い。
安心した…が、心の奥にまだ疑問が残っていた。
自分のスキル、「裁縫」は一体どうやって使うのか。
思い返す。
女神の声。
EXランクと告げられたスキル。
だが、教会では「C」と言われた。
カードには何も書かれていない。
――もし、これがゲームだったら。
俺は小さくつぶやいた。
「……ステータス、表示」
その瞬間――
半透明のウィンドウが、目の前に現れた。
白い文字、枠、数字。
まるで空中に浮かぶ表のような表示。
「……うそ、だろ……?」
俺はその画面を見つめ、動けなかった。
これが“普通”なのか。
それとも、俺だけのものなのか。
教会では聖具を使って能力を見ていた。
なら、このウィンドウは……?
考えがぐるぐると回る中、
俺は、初めて「自分のスキル」を知る準備をしていた。