サイドストーリー:イヴルー家
石造りの広間にブーツの音が響き渡る。壁には金の槍、血塗られた旗、そして絶対的な支配の空気が飾られていた。
使用人たちは息をするのもはばかられた。二階の書斎では、赤黒いワインを片手に一人の男が無言で報告書を読んでいた。
男の名は――レイナード・イヴルー伯爵。「冷血なる剣」として帝国内にその名を轟かせる戦士である。
かつてはSランク冒険者。その身体に刻まれた無数の傷が、数々の戦いと勝利を物語っていた。
言葉は常に命令であり、沈黙は剣より鋭かった。
彼の妻――オードリー・イヴルーもまた、「災厄の魔女」と恐れられたSSRランクのユニークスキル《天候魔法》の使い手。彼女の気配だけで空気が重くなり、風すら従うほどだった。
イヴルー家は、帝国西部を統治する名門伯爵家。
その支配は血筋によるものではなく――圧倒的な力によって築かれていた。
この家において「子」は継承者ではない。
「武器」である。
子供たちは、生まれながらにして戦力と見なされた。鍛え上げ、磨き、帝国のために使い捨てるための駒。
長男――レオンハルト・イヴルーは鋼の壁のような男だった。SRランクのユニークスキル《審判の鎧》を持ち、Aランク魔獣の群れとの戦いで命を散らした。その死は栄光とされ、名誉の殿堂に刻まれている。
次に生まれたのは異母妹――セレーヌ・イヴルー。SRランクのユニークスキル《精神の旋律》を持ち、外交と洗脳に特化していた。現在は北方の公爵家へと政略結婚が決まっている。
そして問題の子が生まれた。
名は――カエラン・イヴルー。
生誕の際、啓示の魔法陣が太陽のように輝いた。
神の祝福すら疑わぬその光に、教会の聖職者たちは跪いた。
しかし――
現れたスキルは、《裁縫》。
その瞬間、空気が凍りついた。
まずは沈黙。次に激怒。
レイナードはワイングラスを粉々に握り潰し、オードリーはその場に膝をついた。
「我が血を引く者が……針仕事など、あり得ん。」
針では戦えない。針では剣に勝てない。
針では、帝国を導けない。
――「なんの冗談だ。処分しろ。」
レイナードの心では、その瞬間に「彼」は死んでいた。
ただの欠陥品、失敗作として。
オードリーも、もはや目を合わせることすらなかった。まるで神に弄ばれたかのように。
それ以来、カエラン・イヴルーの存在は家の中で語られなくなった。
戸籍も記録も、全てが抹消された。
そして数年後、末子が生まれた。
名は――エドリック・イヴルー。
その産声は雷のように響き、幼い体から魔力が放たれた。
まだスキルの啓示は行われていなかったが、家族は彼を“希望”と称えた。
カエランの存在は、完全に忘れ去られた。
その日、レイナードは書斎で古い記録に目を落とす。
まだカエランの名が残っていた――
「……カエラン・イヴルー」
彼は呼び鈴を鳴らした。
「セバスチャン、処理しろ。
この名を二度と記録に残すな。世に知られてはならん。」
老執事セバスチャンは一礼し、古文書を手にした。
彼の心はわずかに揺れていた。
あの少年は、優しく、賢く、純粋だった。
だが――
主命には逆らえぬ。
書類は炉に投げ込まれ、名前は灰になった。
こうして、カエラン・イヴルーは「死んだ」。
そして、新たな名前が生まれた。
――エステル。




