「裁縫」と追放
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当てもなく歩いていた。
肩に背負ったリュックには、通販で買った安い布が数枚入っている。
クッションを作ろうとしていた。
「うまく縫えたら、次は毛布にも挑戦してみようかな…」
動画サイトで見た裁縫チュートリアルが、やけに頭に残っていた。
気持ちが落ち着くから、なんとなく趣味になっていた。
だが、その時だった。
金属がねじれる音、アスファルトの軋む音、そして…
ガードレールが崩れ落ちた。
体が空に放り出される。
落下する感覚は不思議なほど穏やかで――
痛みはなかった。ただ、温かさだけが残った。
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目を開けると、そこは真っ白な空間だった。
壁も床もなく、ただ光に包まれているような…そんな不思議な場所。
「おおっ……なんて奇妙な存在なのかしら〜」
どこからか、少女のような声が聞こえた。
声はやわらかく、遊び心に満ちていて、どこかで笑っているようだった。
「人間っぽいけど、ちょっと違う…ま、いいわ。どうやらギリギリで拾えたみたい。あと少しで、魂の塵になってたわよ?」
言葉が理解できるのに、口が動かない。
自分の体がどこにあるのかさえ分からない。
「ふふっ、でもラッキーね! あなた、異世界に転生できるチャンスを手に入れたのよ。
ファンタジーな世界! 魔法! チートスキル! エルフの美少女に囲まれたハーレム生活も夢じゃない!
さあ、何が欲しい? 強さ? 魔力? なにもしないで毎日ゴロゴロしたい?」
それを聞いて、心が少しだけ跳ねた。
「……貴族の家に生まれて、毎日寝て過ごせたら最高だな…」
「えっ、ニート希望? 寄生型主人公? いいわ〜面白い!」
少女はケラケラと笑いながら、ぼくの記憶を覗いたようだった。
「ふむふむ、手先は器用だし…あら、裁縫なんか得意じゃない? じゃあ、これをプレゼントしてあげる!」
なにかがぼくの魂を貫いた。
痛みはなかったけど、チクチクするような感覚だけが残った。
【スキル取得:「裁縫」ランク:EX】
「さ〜て、特別サービスだよ♪ 楽しんできなさ〜い♪」
声が遠ざかり、視界もだんだん暗くなっていった。
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「貴様は我が家の恥だ。失敗作だ。家門より追放する。貴様は……存在していなかったものとする!」
その声は、氷よりも冷たく、鋼よりも重かった。
父、“血剣の伯爵”レナードの言葉だった。
彼の隣には、母である**“災厄の魔女”オードリー**。
彼女は何も言わず、ただぼくを見下ろしていた。
冷たい目。まるで感情のない彫像のようだった。
声を返すことさえできなかった。
のどがつまって、息もできない。
なぜこうなったのか――
ただ、分かっていた。
この世界に転生して、貴族の家に生まれて、楽な人生が待っていると思っていた。
けれど、現実は違った。
与えられたスキルは――「裁縫」。
それは、彼らが望んだ「強さ」ではなかった。
何も持たされずに屋敷を追い出された。
手元に残ったのは、儀式用の服と使い古されたリュックだけ。
街のリサイクル店でそれらを売り、小銭に換えた。
その金で簡素な服と、サビの浮いた短剣を買い、冒険者ギルドに向かった。
名前を偽り、戸籍のない存在として登録される。
「登録完了。ランクE。名前は……エステル、と」
スキル欄には、
「裁縫(非戦闘用)」とだけ記されていた。
誰も、それが何を意味するのか分からなかった。
もちろん、自分自身も。
「……まあ、せめて、自分の布団くらいは自作しようか」
そうつぶやきながら、ギルドの階段をゆっくりと降りていった。
背中にぶら下げた短剣が、やけに軽く感じられた。
そして、どこか遠くで――あの神様の笑い声が、まだ響いているような気がした。