5章 進路調査は終わってる
文化祭からおよそ1ヶ月が過ぎた。
準備期間という非日常が日常と化してしまう前に、平々凡々な退屈な日常へと引き戻されてしまう。
これはいい事なのか、悪いことなのだろうか。
仮にこの在り来りな日常がなければ非日常を楽しむことは出来ないだろう。だからこそ、非日常は尊いのだ。
「兄貴、人に質問しといて無視はないでしょ」
「あぁごめん」
黙々と夜ご飯を食べていると、正面に座っている妹の優実花から叱責を受ける。
「部長さんの誕生日プレゼントでしょ?高校生女子ならメイクのコスメとかそういうのじゃないの」
「メイクねぇ……。あいつそんなことするかなぁ」
白餡──俺の所属する化学部の部長は来週の6月14日が誕生日だ。
2年ちょいも一緒にいるのだし、誕生日くらい祝ってやろうという魂胆ではあるのだが、俺は同学年の女子に贈り物をするといった経験が一度もない。
そこで、同性である妹にプレゼントを吟味してもらおうと思うのだが、白餡には一般論が通じなさそうというのも事実である。
「高校生になったら隠れて化粧とかしたくなるでしょ普通。この前兄貴文化祭だったけど、化粧してる女子くらいいたんじゃないの?」
「うーん。クラスの女子で何人かいたような気がするけど、白餡はしてなかったような気がするなぁ」
記憶を辿ってみると、なんか目頭の所にきらきらが付いていた女子がいたような気もする。あれが化粧なのかは知らないけれど。
「化粧しない系なら、無難に図書券とか。あとは消費できる繋がりで行ったら好きな食べ物とかでもいいと思うけど」
「そうだなぁ。でも、図書券とか食べ物もなんか味気ないというか。特別感がないような気が……」
「もうなんなの!?うちがせっかく考えてあげてるのに、兄貴否定ばっかりじゃん!どういうつもりなの?」
「はぁ?真剣に悩んでるからこそあっさりと決められないんだろ。そんな簡単に決まってたらお前に聞いてない」
「何それちょームカつく。うちより先に生まれたからって偉そうに……」
フォークを右手に握りしめ、優実花が席を立った。
そっちがその気ならこちらも応戦態勢である。
「はいはい。2人とも落ち着いて。夜ご飯冷めちゃうわよ」
俺の態度が妹の怒りを買い、議論がヒートアップしたところで、母親からの仲裁が入る。
俺の母親は、怒ったところを一度も見た事がない。聖母のような人間というのが適切だ。
別にマザコンというわけではないが、シングルマザーでありながら、ここまで優しく俺らを育てている母親には尊敬の念がある。
妹の優実花とはそんなに仲が良くなく、決して裕福とは言えない家庭に居る俺だが、それでも家族の時間が1番落ち着くのは母の存在あってからこそだろう。
「はーぁ。年上の兄弟どうせなら兄貴みたいなやつじゃなくて、お姉ちゃんが欲しかったなぁ。うちに優しいお姉ちゃんが欲しい」
「そうですか。なら、タイムマシンでも作って昔の母さんにお願いすることだな」
「何、煽ってんの?ちょーウザイんですけど。こうしてやる!」
煽り耐性が無い優実花がキレて俺の夜ご飯のプレートに置かれているウィンナーに自身のフォークを突き刺す。
「あ、お前俺のウィンナー!」
「へへーん。もーらい!」
そのまま俺の夜ご飯の一部が優実花の口に吸い込まれていってしまった。
クソ、こうなったらもっと早く食べておくべきだったか。
「もう、優実花ったら……。そんなにウィンナー食べたいならもっと焼くよ?」
「いいのママ。こいつから奪うことに価値があるんだから」
「お前いつか覚えとけよ。食の恨みは強いことを知らしめてやる」
こんな風に俺の家庭の食事はいつも賑やかだ。
嫌いってわけじゃないが、逆に静かな場所で黙食をすると言ったような行動が苦手になってしまった。
小学校で黙食の日とかあったでしょう?あれが嫌い。
「まぁ戻るけど、プレゼントなんて何でもいいんじゃない?」
「またそうやって適当な……」
「いやいやこれは割とマジだって。だって自分がもし友達からプレゼントもらったとして、なんだって悪い気分にはならないでしょ。道端の犬のフンとか渡されたら話は別だけどさ」
「犬のフンはもはやそれいじめだろ……」
とはいえ、確かに優実花の言う通りかもしれない。
俺が渡したいもの──と言うと語弊があるかもしれないが、俺が白餡に喜んで貰えそうなものを自分で選ぶことに価値がありそうだ。
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「で、帰っていい?私帰ってテスト勉強したいんだけど」
「いやぁ、そんな固いこと言わずに。ここでだってテスト勉強は出来るじゃないですか」
翌日、化学室で化学部の活動だ。
しかし、今日は人の集まりが悪い。明日から6月考査でテスト日なのだから当然と言えば当然なのだけれど。
今いる人間は俺とまっちゃの2人だけ。まっちゃは俺が無理やり呼び出したのだ。
あれから───文化祭後、河合フィオが化学部入部を希望して以来、綾鷹は化学室に来る頻度を減らしている。そんなに会いたくないのだろうか。
とは言っても、あれからふぃーも実は1度も化学部に顔を出していない。あれは何かはったりだったのだろうか。
「あやねんへの誕生日プレゼントでしょ?そんなの自分で考えればいいのに」
「いやー、まっちゃさんは白餡の昔からの親友らしいじゃないですか。白餡の好きな物とか教えてくださいよ」
まっちゃは白餡と小学生時代からの友人らしく、お互いのことを化学部内で流通している愛称ではなく、昔からのあだ名で呼んでいる。あやねんは白餡の本名である白井綾音から取ったそのままのあだ名だろう。
「私はあやねんの親友なんかじゃないよ」
「それは親友じゃなくて大親友とか恋人だ!的な冗談ですか」
「そんなんじゃない。本当に、私はあの子の親友なんかでいちゃダメな存在だから」
「なんか色々ありそうだな」
かなり含みを持たせた様子で、まっちゃは白餡の親友としての存在を否定してくる。
まっちゃがこんな神妙な面持ちをしてるのは初めて見た。
「中学時代にね。色々あったよ。荒れてないって言ったら嘘になる中学校だったし」
「そうなんだ」
俺は問題集にある物理の問題を解き始める。
まっちゃの話の内容は気にはなるが、何やら多少デリケートな要素を含んでいる気がした。何も知らない俺が首を突っ込むのは野暮な話だろう。
「なに、私の話聞きたくないの」
「いや別にそういうわけじゃないけど、なんか面倒な話になりそうだったから」
「あっそう。そんで白餡のプレゼントでしょ?私は消費出来るものがいいと思うよ」
俺が興味を逸らしている様子を見て、まっちゃが話題を元に戻す。
優実花と同じく消費できるものを推奨してきたが、そんなに消費できるものって良いのだろうか。
「ほう。その心は?」
「形に残るものだと、ほら。白餡のお父さんに捨てられちゃう可能性あるし」
「え?なんで白餡の父親の話になるの?」
プレゼントとしての良さをレクチャーして貰えると思っていたら、予想とはかなり斜め上の返答が返ってきた。
「知らないんだっけ?あの子って結構名のある家系らしくて、父親が厳しいんだよね」
「へぇぇ、そうなんだ。かなり初耳」
「そうそう。だから小学生の時にあやねんとお揃いのアイカシのキーホルダーをランドセルに付けてた時があったんだけど。それが、父親に捨てられちゃった時があって。」
「なるほどなぁ。確かにそれだと飾り物は微妙かもしれないな。というか、2年過ごしてきて全く知らない情報だったんだけど」
消費できるものが良い理屈は分かったが、今はそれよりも白餡の家庭事情の方が気になる。
「別にあの子も隠してはないと思うんだけど。アイスには教えたくなかったのかな」
「何それ。お前には私の心に割り込む余地はありませんってこと?」
「どうだろう。私だったら絶対アイスなんかに教えてないし、その線も有り得る」
「おい」
白餡が隠してないということなのであれば、俺が他人にあまり興味を持たずに過ごしてきてしまったことが原因である可能性もある。
もう少し周りの人間のことを知るべきなんだろうな。
「でもいいなー。有名な家系のお嬢様か。将来は金持ちと結婚して玉の輿じゃん。俺の理想の将来だわ」
「本当に自身の欲求に素直だね。そういうアイスは現実的に将来何をするつもりなの」
「なーんも決めてない。取り敢えず大学でも数学やりたいなーってだけ」
自分で言っててなんだが、なんかかなりダメ人間のセリフのような気がするな。
「よくそんな何も未来を考えずに生きていけるね。不安になったりしないの?」
「まぁね。だからこそ学部を決めなくてもいい東京にある大学を第1志望にしてるんだし。そういうまっちゃさんは将来の夢はなんなの」
「私?薬剤師」
「これまた即答ですな」
俺とは対照的に将来の夢を即答するまっちゃ。きちんと将来を考えている人の証拠だ。
「楽しそうだし、手に職つくし現実的かなって。だから千葉にある大学の薬学部が第1志望。この辺だと薬学部がある所少ないし、私はアイスみたいに東京にある大学とかいう無謀な挑戦はしないからね」
「なっ。無謀って言ったなお前。まぁいいや、この問題教えて」
「いいけど……。って、は?アイスまだ二体問題でつまづいてんの?こんなん重心から見た速度考えたら答えこれしかないじゃん」
「その重心から見た速度ってのが本当に分からなくて……」
まっちゃに馬鹿にされるのも無理は無い。二体問題は物理でおそらく一番最初につまづくべき単元であろう。
しかし、そんなものは2年の3月くらいには克服すべきものなのである。これから先電磁気なども待ち構えているのだから。
「やっぱり、無謀だね。アイス」
「うるさいやい」
「私はもう帰るよ。明日テストだし、ちゃんとプレゼントのアドバイスもしたしね。片付けよろしく〜」
「あっ、ちょおい待て!」
引き止める間もなく、まっちゃは荷物をまとめて化学室から出ていってしまう。
「くっそー。このお茶沸かしたビーカー洗うのダルいんだぞ……。ってあれ?」
ふと、まっちゃが先程まで座っていた机の下に彼女のものらしき予定帳が置かれていた。
「おーい忘れ物かよ面倒だなぁ。……中身見てやるか」
これくらいは落し物を届ける者の当然の権利だろうと思い、予定帳を開くと、何やら小さな紙──写真のようなものがひらりと落ちてしまった。
「おっとっと、何だこれ……。ひぃっ!」
俺はその写真の表面を捲った瞬間に軽く悲鳴を上げてしまう。
「な、何だこれ……」
それもそのはず。写真の表面には黒いマッキーペンによって「ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい」という文字が夥しい量書かれている。
文字によってその写真面は埋め尽くされ、肝心の写真の内容は全く見ることが出来ない。うっすら文字と文字の間の隙間から見えるに、まっちゃと誰かあと1人見えるような気もするが。
これではもはや謝罪ではなく何かしらの一種の呪いである。
「……よし」
俺はその写真を予定帳に戻し、それを閉じる。
「見なかったことにしよう」
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翌日。6月考査の時間だ。
やっぱり毎月テストが行われるのは頭に優しくないと思う。
「お、今日はやる気ですね。いっつも『考査に全力出すとか馬鹿らしい』とかいってスカしてるくせに」
「うるせぇ。この前進路希望調査の紙で、東京にある大学を志望大学にして提出したら、担任の顔が曇ったんだ。俺の人生はここから変わる」
「あはは、そりゃ必死にもなるか」
前の席から恭介──変態ネカマ野郎が茶々を入れてくるが、構っている場合ではない。
これは1週間前の話であるが、進路希望調査として、志望大学を紙に書いて担任と面談して提出するというイベントがあった。
ここで、当然東京にある大学と書いて、面談を行ったら、担任に「うーん、あはは」と言われた。愛想笑いである。
こうなってくると、自分の成績と志望大学との距離を自覚してしまう。意地でも勉強意欲が高まるのだ。
「必死になってるところ悪いけど、アイスにお客さんだよ」
「ん、何?って、まっちゃか」
「うん。あの、昨日私の予定帳見なかった?」
「あ、これ?」
俺はカバンから昨日化学室で拾った予定帳をまっちゃに渡す。
「これだよ!良かったー。……中身見た?」
「いや、見てないっす……」
まっちゃに聞かれて、昨日見たあの中身を逆に思い出してしまう。
俺は目を逸らしながらぎこちなく答えるが……。
「まぁ別にいいけどね。テスト頑張ろ」
「いいんだ……」
長く言葉を交わさず、まっちゃは自席へと戻る。あの呪いの写真、見ても良かったんだ。
と、同時に、担任がテスト用紙を持って教室に入ってきた。テストの開幕である。
「じゃあテスト始めるぞ〜。教科書は閉まって〜」
俺は目をつぶり精神統一をする。これは問題文が配られ、試験が始まるまでの自分なりのルーティーンだ。
これをするとなんだか落ち着く。
「始め!」
担任の合図で沈黙が破られると、数学の試験が始まる。
数学の試験範囲は前回の4月考査とさほど大差は無い。高校3年間の数学全範囲だ。この前と違うのは、数IIIの積分が入っていることくらいである。
「積分の計算問題……余裕だ。比較的簡単めか?」
やはり新しく範囲に追加された数IIIの積分が大多数を占める。
しかし、その結果序盤に簡単めな計算問題や、ウォルス積分などの典型問題などが配置されるため、なんなく最終問題まで到達する。
「よし、最終問題だ。簡単とはいえ、時間は取られるな……。残り20分か」
計算ミスに気をつけながら丁寧に計算をすると、時間がどうしてもかかってしまう。そして出会った最終問題は……。
第12問
空間内にある1辺の長さが1の正三角形ABCで、Aの座標が(0,0,1)であり、BとCのz座標が等しいものを考える。点L(0,0,1+√2)にある光源がxy平面上に作る正三角形の影の部分の面積の最大値を求めよ。
「最後の難問らしく、かなり難しそうだ。図形の問題ではあるが、座標が最初から与えられてしまっている。幾何的な考察もしつつ、ベクトルでゴリ押した方が良さそうか……?」
問題把握をしていると、ある事実に気づく。
「あれ、x軸とy軸を自由に設定できるなこの問題」
与えられている座標は点Aのみ。ということはx軸とy軸は都合の良い向きに設定ができる。
であれば、対称性を使えるように設定するのが定石だ。
「Bのy座標=Cのy座標、x座標はBとCで対称となるようにxy軸を設定してみよう」
このように軸を設定すれば、B(1/2,a,b)、C(-1/2,a,b)
とおけるはずだ。
AB=1より、1/4+a²+(b-1)²=1。整理して
a²+(b-1)²=3/4となる。
点Bの影を点B'、点Cの影を点C'として座標が求められるかどうかってところだな。
OB'=OL+tBL(t:実数)となるから、
(0,0,1+√2)+t(-1/2,-a,1+√2-b)、B'のz座標は0であるから、1+√2+t(1+√2-b)=0。
tが未知数で知りたいから、tについて解いておこう。
t=(1+√2)/(b-1-√2)か。
そんで、多分このt,a,bを用いて、影の三角形の面積は求まるはずだ。
B'(-t/2,-at,0)、C'(t/2,-at,0)であるから、影の面積をSとすると、
S=at²/2。
「意外と簡単な式になったか。tはbを用いて表せているから、a,b変数の2変数関数の最大値。ただ、a,bの関係式は円みたいなのが出てきているから一変数θで表示できる。これは行けたな」
S=(1+√2)²/(2)×(a)/(b-1-√2)²なので、a/(b-1-√2)²の最大値を求めれば良いと。
a=√3cosθ/2、b=√3sinθ/2+1と表されることが先の関係式より分かっているから、求めたい式をf(θ)とおいて、
f(θ)=2√3cosθ/(√3sinθ-2√2)²となる。
「試験時間残り5分です」
まずい!!
f'(θ)の分子=-2√3sinθ(√3sinθ-2√2)²-2(√3sinθ-2√2)√3cosθ×2√3cosθ
=(√3sinθ-2√2){-2√3sinθ(√3sinθ-2√2)-12(1-sin²θ)}
=(√3sinθ-2√2)(6sin²θ+4√6sinθ-12)
=(√3sinθ-2√2)(3sinθ-√6)(2sinθ+2√6)
-1≦sinθ≦1だから、(√3sinθ-2√2)は負、(2sinθ+2√6)は正なので、sinθ=√6/3となるθ=αがf'(θ)の符号が変わる点!要するに最大値を取る点だ!
あとは計算して……。
「そこまで!筆記用具を置きなさい!」
「ぐにゃぁぁ」
クソ……。あと数行……。分かっていたのに!!
俺は危うく悔しさからシャーペンを折りそうになってしまうが、理性で堪える。
「おつー。数学どうよ」
「いや。最後の問題あと3行かければ満点もあった。悔しい」
「凄いな。やっぱそこまで出来ると……」
「ふーん。あれ解けなかったんだ?」
「なっ! 」
恭介が毎度の如く俺のテストの出来を聞いてくると、そこに隣の席の人間が横入りしてきた。
新学期から席替えは行われたが、テストの際には出席番号順に席を入れ替える。
要するに俺の隣の席は河合フィオだ。
「あれ難しかっただろ。20分じゃ解けきれない。まず一変数に持ち込むまでベクトルの作業も大変だし……」
「20分も残ってたなら簡単じゃん。アイスくんには見えなかったんだ?」
「何、喧嘩売ってんの?」
テスト直後にこれだけ俺が解けなかった問題に茶々を入れられるのは非常に不愉快である。
それに、そもそも俺はあまりフィオと話したくないって言うのに。
「売ってないよ。だってあれ、点B,CはA中心の△ABC=√3/4となるような球上にあるでしょ。じゃあBCの中点をMとして、光源と結び、z=0地点までの距離L(θ)を最大にする角度を考えれば初めから一変数だよね」
「え、球上……。何言って……」
この前確率漸化式の問題を聞いてきた人間と同一人物とは思えないほどの論理を説かれ、驚きながらもフィオの言う言葉を頭の中で再現するが……。
「確かに……。それで行けるのかもしれない……」
「でしょ?これが見えてれば時間内に間に合ったかもしれないのに。そんなのにも気づけないなんてまだまだだよね」
「お前……。そんなに数学出来たのか?」
「人並みには出来るよ。だって私、筑波にある大学の医学部志望だもん」
「い、医学部!?」
まっちゃの薬剤師志望に続き、2人目の驚きの進路が発覚した。
俺を陥れたこの女が医者志望だと……?人を救う道とは真逆の行動を取っているというのに。
「ふふっ。意外?また今度機会があったら数学教えてね」
そう言うと、フィオは教室の外へと出ていった。トイレだろうか。
「おい、アイス」
「な、なんだよ恭介」
「お前あの後フィオさんとはどうなってんだ。文化祭でコテンパンにされた後だよ」
「あぁ。恭介は何も事情を知らないんだっけ」
俺は恭介に文化祭で俺がフィオに振られた後の話を細かく話す。
俺はフィオに弄ばれていたこと。
フィオが化学部に入部したこと。
それで化学部が若干険悪なムードになっていること。
そして……。
「俺はまだふぃーのことが好きでもある」
「ぶふっっ!!正気か??お前」
水分補給をしていた恭介がお茶を口から吹き出す。汚ぇことだ。
「あぁ。自分でも不思議なんだが。一目惚れしたのがいけないらしい。フィオの性格がどれだけ悪かろうと、外見の好みで俺の中では中和を起こしてしまってるんだ」
「えぇ。諦めが悪いぞ。あんな公開処刑みたいな振られた方をして、まだ好きだとか。メンタルが強いとかじゃなくてもはや壊れてるんじゃないのか?」
「言わんとしていることは分かる。でも仕方がない」
「そうか……」
二人の間にしばし沈黙が流れる。
「そういうことなら応援はするよ。ただ、もう受験なんだ。深入りはしない方がいいということは何度でも言っとくからな」
「分かってる」
「それならいいけど。そして、次はお待ちかねのお前の苦手な理科だぞ」
「ふっふっふっ。今回の俺を舐めてもらっちゃ困る」
「なに?」
今回の考査、俺は数学だけではない。秘密裏に理科も特訓を重ねていたのだ。
「今回の化学、俺がトップを取らせてもらう!」
「なんだよ化学かよ。物理を克服したのかと思ったのに。化学はお前化学部だし並以上の知識はあるじゃん」
「物理はまだちょっと勘弁してほしい……。だからこそ化学から少しずつ理科を克服しようと思ってるんだよ」
「いい心がけなんじゃない?でもそっか。トップであって1位は狙ってないんだ。どうせ1位は白餡ちゃんだもんね。次いで2位が取れれば良いって感じ?」
「うんまぁ……。もちろん同率1位は狙っているけどね」
化学で単独1位を目指すのは無謀も無謀だ。当然トップ層に入ることを上出来として捉えている。
「ほら、先生来たぞ始まる」
「よし来た」
前の席から化学の問題冊子が回されてくる。物理も回ってきたが、こちらは後回しだ。
「試験を始めてください」
俺は速攻で化学の問題用紙を開き、解き始める。
なぜ俺が今回の考査で化学に力を入れたのか。
それは今回の範囲が有機化学だからである。
無機や理論だと暗記や複雑な計算が必要になるが、有機はパズルのように解くことが出来てかなり楽しい。よってここをメインとする今回の試験範囲は上位をとるチャンスなのだ。
「順調だ。分からない問題もひとつも無い。最後は……、エステルの構造決定か」
問10
同一の分子式C4H8O2で表される4種類のエステルA,B,C,Dにおいて、次の実験を行った。これを元にそれぞれのエステルの構造式を示せ。
(a)エステルA,Bの加水分解により、同一のカルボン酸が得られた。このカルボン酸はアンモニア性硝酸銀水溶液と反応して、銀鏡を生じた。
(b)Aを加水分解して得られたアルコールはヨードホルム反応が陰性で、注意深く酸化するとアルデヒドを経てカルボン酸を生じた。このカルボン酸はCの加水分解でも得られる。
(c)Bを加水分解して得られるアルコールに、水酸化ナトリウムとヨウ素を作用させると、ヨードホルム反応が陽性の化合物を生じた。
(d)Cを加水分解して得られるアルコールを赤熱した銅線に触れさせると、直ちに銀鏡反応が陽性の化合物を生じた。
(e)Dを加水分解して得られるアルコールを酸化すると、カルボン酸を生成した。これはDを加水分解して得られるカルボン酸と同一だった。
「長い……。長いが、反応機構で分からないものはない。単なる基礎の確認だ。いける!」
5つの実験を順番に処理していけばいい。
(a)だが、同一のカルボン酸と言っているのに、銀鏡反応を起こしている。こんなものはギ酸しか有り得ない。
(b)に関して、Aのアルコールだが、反応より第1級アルコールであることが分かる。ヨードホルム反応を起こさないので、1-プロパノールが生じていることが分かる。
要するに、Cで生じるカルボン酸はプロピオン酸だ。
(c)は2-プロパノール、(d)はメタノール、(e)はDが炭素数2ずつに分かれるので、エタノールと酢酸になることを示しているだけだ。
あとは、それぞれのアルコールとカルボン酸をエステル化した構造式を書けばおしまいになる。
「解き切った……」
試験時間120分のうち70分を使って化学を完答した。
残すは物理だが……。
大問1
水平方向に長さが2Lである長方形の空洞が上下に2つ存在している台(質量M)があり、大きさの無視できる小球1(質量m1)、小球2(質量m2)がそれぞれ下の空洞と上の空洞に配置されている。
台の重心の水平方向の位置は、空洞の左端からちょうどLの所にある。衝突は全て弾性衝突で、摩擦は無視できるものとする。
右方向を正として、水平方向にx軸と原点を取り、台の重心のx座標が0となるように初期位置を定める。また、台と小球1からなる系(小球2は含まない)を系Sとする。
小球1、小球2のx座標がそれぞれx1,x2となるように配置し、それぞれに速度v1,v2を与える。
(1)速度を与えた直後の系Sの重心速度を求めよ。
「重心速度……。ってなんだっけ。終わった……」
数学と化学に特化して勉強したツケがやはり回ってくる。最初の大問の(1)から何をすればいいのかが分からない。
「な、何か後の方に解ける問題は……」
(2)系Sの重心から見た小球2の相対速度vrを求めよ。
(3)台と小球2が衝突しないv2の条件を求めよ。
(4)系Sの重心から見た時の台の重心の相対x座標Xrの最小値・最大値を求めよ。
(5)台と小球2が衝突しないx2の条件を求めよ。
「これは日本語ですか……?一つも言ってる意味が分からないのだけど……」
いやまだ続きの問題に希望があるかも……。
(6)下の空洞にある小球1と空洞の左端をばね(自然長L、ばね定数k)で繋いだ。このとき……
「バネが出てきた……」
バネが出てきたことにより残りの50分、俺がとる行動は1つに定まった。
「おやすみなさい!」
俺は睡眠を選択した。
────────────────────────
「おい、おい起きろって」
「ん、あぁ」
「試験時間終わりだよ。お前物理の答案ほぼ白紙じゃねぇか」
「いやぁ何も分からなくてさ」
完全に意識が無くなって睡眠にふけっていたが、どうやら試験時間はもう終わったらしい。
寝ていたのだから、当然物理は白紙。記号だけ全部アで書いたがおそらく0点だろう。
「ったく。そんなんで本当にいいのかよ。まぁいいや。特米食べに行こうぜ」
「いいね。あり」
恭介が昼飯を一緒に食べる提案をしてきたので、俺はそれに乗る。
特米というのは、学校の敷地外にある特米弁当というお弁当屋さんのことだ。
メニューは唐揚げ弁当一択なのだが、この唐揚げが良い意味で何か危ない粉を使ってるんじゃないかと思うほどに美味しい。
この学校にいる人間は全員この唐揚げの中毒になっていると言っても過言ではないほどだ。
「そういやお前にも一応聞いてみたいんだけどさ」
「ん?どした」
俺は特米弁当へと向かう道中に、恭介に質問する。
「白餡への誕プレ、何がいいと思う?」
「それ俺に聞くことか?」
「しゃーないでしょ。俺友達少ないんだから。頼れる人間が悔しくも恭介くらいしかいない」
「誕プレねぇ。男子同士だったらネタに振り切れたプレゼントでも盛り上がるんだけど、女子となると確かに難しいかも」
「でしょ?俺もその気持ちを味わっている」
男子に送る誕プレだったら、何でもいいのだ。
何かしら下ネタに振り切ったプレゼントでもしておけば笑いが取れる。
「そうだなぁ。物にこだわるってのも良くないかもよ」
「というと?」
「ほら。女子って友達と集まるのが好きじゃん。だから、誕生日パーティーを開催するとか。あとは、仲良い人同士でお祝いにどこかへ遊びに行くとか。」
「あーー。良いかもしれない。恭介にしては中々良い案を出すな」
化学部のメンバーを集めて、どこかで白餡の誕生日パーティーを行うというのは中々面白い発想だ。
白餡は化学部が本当に大好きだし、「経験」というのも良い誕生日プレゼントになるかもしれない。
「こっから遊びに行くとしたらどこだろう。常磐線で夢の国とか?乗り換え多いけど」
「茨城には何も無いしね。ほら、特米予約しといたからもう受け取れるよ」
「マジ!?めっちゃ気が利くじゃん。サンキュー恭介」
特米弁当に着いた瞬間、恭介が2人分の弁当を受け取る。
まさか、予約してくれているとは。待ち時間というのがとんでもなく嫌いな俺にとっては良い知らせだ。
「しかし、暑くなってきたな。まだ6月なのに」
「そうだね。こうして恭介と外でベンチに座りながら食べるのも正直苦しい」
「いやでもさ?教室ってこの時間凄い匂いがこもるじゃん。あれが苦手なんだよね」
「凄い分かるよ。その気持ちは」
学校の敷地内にある、旧校舎の前の木陰で弁当を食べながら、他愛もない会話を広げる。
「そういえばさ、恭介は何か夢ってあるの?将来なりたいものとか」
「あぁ俺?具体的には決まってないけどIT関連かなぁ」
「へぇそうなんだ。意外と言うか。割と無難だね」
「悪いかよ。俺が何になると思ってたのさ」
「ネカマ野郎だし。ファッションデザイナーとか」
「はぁ……。別に絵心があればそれでも良い気はするけど」
デザイナーも少しやりたそうじゃん。
しかし、IT職か。理系といえばみたいな将来像なんだな。
とはいえ、なんの目標も持たない俺よりは明確な将来像を持っている恭介は凄いとも言える。
「俺プログラミングが多少出来るしね。それが生かせる様な仕事をしたいんだ」
「なるほどね。良い特技だと思うよ」
「最近は競技プログラミングとかも初めてみてるんだ。中々勝てないけど、楽しいんだよあれ」
「そっか。羨ましいな。恭介にはちゃんと個性があって」
「そういうアイスはどうなのさ。数学得意なんだし、やっぱそれ系の職?」
「その呼び方は……、やっぱもういいや。数学得意って言ってもね。数学は稼げないからなぁ。教職とか取るべきなのかな」
数学科というのは理系の中でも職業の幅がかなり狭い。
純粋数学をやるなら尚更だ。
「しょうがないね。教職は教職でも、いっそ教授レベルまで突き詰めるのもありだと思うけど」
「うわぁ。中々のギャンブルだなそれは」
キーン コーン
弁当も食べ終え、小風に当たっていると、予鈴が鳴る。
「そろそろ戻るか。英語のテストもそれなりにな」
「おう」
────────────────────────
英語のテストは当然出来が悪かった。
単語が分からないのだから読めなくて当然と言えば当然なのだが。
「今日のメンバーはけいちゃんと綾鷹か。綾鷹は久しぶりだな」
「う、うん。久しぶり」
「いや良かったよ。もう来ないんじゃないかと思って心配してた」
「そ、そんなことない。私はべ、勉強を頑張ってただけ」
「そうなんだ。そうだ。綾鷹は将来の夢とかあるの?」
俺は今日話した人間にしてきた話題を平等にこいつらにも行う。
「わ、私の夢……。気象予報士」
「え!?それはお天気お姉さん的なニュースに出るやつってこと?」
「ば、バカ。そんなのが私に出来るわけないだろう。ふ、普通に裏方で天気をデータから予測する仕事だ」
「へぇぇ。気象予報士なんだ。気象予報士ってどうやったらなれるの?」
医者なら医学部へ、ITなら理工系へ、薬剤師なら薬学部へと、大方予想は着く。
しかし、気象予報士になるための進路というものは俺は知らない。
「い、いろんな成り方はあると思うが。わ、私はとりあえず気象にある大学を第1志望にしている」
「気象にある大学?」
「そ、そうだ。その……、説明が難しいな。けいちゃん。頼みます」
「気象にある大学は国が運営している大学だね。卒業するとそのまま気象庁への就職が出来て、在学中も公務員のような扱いを受け、給与が得られる大学らしいよ」
「あ、ありがとうございます。そ、そういうことだアイス」
「給料が貰える大学なんてあるんだ。面白いね」
けいちゃんは本当に何でも知っている。
知りすぎてて怖いほどだ。というか……。
「綾鷹、前々から思ってたけど、俺にだけタメ口で他の人には敬語だよね」
「な、なんだ。悪いか」
「いや、別にいいよ。親しみがあって俺はこっちの方が良い」
「ご、ごめんなさい。わ、私が悪かったです」
「そんな露骨に嫌がらないで!?」
綾鷹に嫌われるのは何か本当にいけないことをしてしまった様な気がして心苦しくなる。本当に嫌だ。
綾鷹の将来の夢は分かった。じゃあけいちゃんはどうなんだろうか。
「けいちゃんは?将来の夢はあるの?」
「僕?僕かぁ」
けいちゃんは少し上を見て考え込む。
「僕は学校の先生になろうかな」
「おーー。めっちゃ似合うと思う。俺もけいちゃんが先生だったら凄くいい」
ここまで予想が出来ないような将来の夢が炸裂していたので、けいちゃんがここまで予想通りだと逆に驚く。
だって、けいちゃんみたいな聖人が教育の立場に着いたらもうみんな良い子に育つに決まっている。
「そう?ありがとう。僕が学校の先生になったら……」
「なったら?」
けいちゃんの言葉が一瞬詰まる。
「学校からいじめを徹底的に排除する」
「っ!?」
その言葉を発したけいちゃんの声は今まで聞いたこともないくらい低い声だった。
そして、目つきも今までの優しいおっとりフェイスから、何かを視線だけで刺し殺してしまうんじゃないかと思えるほどの鋭さに変わっていた。
「い、良いと思います。い、いじめは良くないことですし」
「だよね。綾鷹ちゃんもそう思うよね」
「あぁ。きっとけいちゃんならそんな先生になれるよ。」
「ありがとう。応援してくれて嬉しいよ」
しかし、けいちゃんが不穏な様子を見せたのはほんの一瞬で、直ぐに俺の目の錯覚だったんじゃないかと思うほどいつも通りに戻ってしまった。
それに、そうだ。俺にはもう1つ話題があった。
「それとさ。あともう少しで白餡の誕生日じゃない?」
「た、確かに」
「そうだね。何かお祝いをしてあげたいね」
「そうなのよ。それで、化学部のみんなで白餡の誕生日パーティーを決行したいと思ってるんだけど、どうかな?」
俺は昼休みに恭介から貰ったアドバイスを最善の物として提出する。
「い、良いじゃん」
「面白いね。企画は僕がしようか?」
「いや、言い出しっぺは俺だし、俺がなにか考えておくよ。みんな賛成なら詳細は決まったら伝えるけど」
正直、化学部のメンバーなら誰も反対することは無いだろうと思っている。
まっちゃにもまだ言ってないが、俺の誕生日だったら頑固拒否するものの、白餡の誕生日パーティーなら喜んで参加するだろう。
「ありがとう。日程は何時がいいかな。白餡の誕生日付近の日曜日とかはどう?」
「そうだな。誕生日当日だと白餡は何かと忙しいだろうし、平日だと時間があまり取れないしな」
「わ、私も大丈夫です」
「りょーかい!じゃあ後の2人……」
言いかけた所で俺は止まった。
「あの、さ。フィオって……」
「嫌です」
「ですよねー」
化学部の、残りあと2人にも予定を確認しようと言おうとした所で、フィオの存在に気づいた。
一応仮にもフィオは化学部の所属になったわけだけれど、綾鷹はやはり拒否の意志を示す。
「僕は構わないけれど、気まずい雰囲気になるのも嫌だね。旧メンバー水入らずの会で良いんじゃないかな」
「分かった。じゃあそういうことで、次の次の日曜日かな?一応開けとく感じで」
「わ、分かった」 「分かったよ」
こんな感じで今日の化学部活動は終わった。
白餡の誕生日会、とても楽しみだ。
────────────────────────
3日後、化学の授業の時間だ。
俺は今日この時間を完璧な気持ちで過ごすことができるように努力をしてきたのだ。
さぁ、今こそその努力の成果が実を結ぶ時!
「じゃあこの前のテストを返すぞー」
「来た!」
今日はこの前行われたテストの返却日である。
いつもなら憂鬱な時間でしかないこの時間だが、俺はあのテストの化学に全身全霊を費やした!
ここで勝たなきゃいつ勝つというのだ!
「石川〜はい。もう少し頑張れよー。次、井上〜」
「はい!」
名前の順が最初の方である以上、リラックスしている時間はない。
直ぐに名前が呼ばれる。
「井上!今回はよく頑張ったな!」
「おっ!」
この先生のセリフは!まさか確定演出か!
「今回の井上の化学は学年で1番だ!」
「うおおお!!!やったぁぁぁぁ!満点だぁ!!!」
化学で学年1位、それは白餡と同率で100点満点であることを指す。
はずだったのだが……。
「いや、残念だが違う。はい、答案だ」
「え……?」
違うと言われて俺のテンションは急降下。
そして、返された答案の点数の部分を見ると、そこには『94』と数字が書かれていた。
いや、確かに高得点だ。普段であれば学年2位とかはこの点数を獲得しているのだろう。
だが、この学年において94点で学年1位を取るのは不可能のはず……。
「……っ!?」
俺は慌てて白餡の席の方へ体を向ける。
しかし、白餡は俺と目を合わせようとすらしない。
ずっと下を向き、机の模様を集中して眺めている。
「井上、いいから席に戻れ。次の人に返せなくて邪魔だ」
「あ、す、すみません」
「はい次岩丸〜」
俺は先生から注意を受け、とりあえず席に着く。
「良かったじゃんアイス。学年1位だって」
「いや、そうなんだけど。おかしい。俺94点だぞ?」
前の席から恭介が話しかけてくるが、今は学年1位を取れた喜びよりも困惑が勝っている。
化学の先生が集計をミスしただけなんじゃないか……?あの考査白餡は休んでいたわけでもなかったし……。
「次、白井〜」
考えているうちに、どうやら白餡に答案が返されるようだ。
白餡は無言で席を立ち、先生の前へと向かう。
「お前今回はどうしたんだ。珍しいぞ。大丈夫か?」
「はい。大丈夫です。すみません」
「そうか。それならいいんだが……。次、凄森〜」
あれは……。どう考えても『化学部のモード』だ。
周りのクラスメイトも、白餡が化学で何か小言を言われたことに驚いている様子である。
まっちゃなんて何が起きてるか分からない様子で、鳩が豆鉄砲を食らったかのようだ。
「よし。これで全員返ったな。それじゃあ出来が悪かったところを中心に解説を〜」
化学の先生が解説を始めたが、耳に入れていない。
白餡の方を向くと、彼女も授業を聞いているような素振りは無く、ただ、ぼーっと座っているだけのようである。
「おい、アイス、白餡ちゃん大丈夫なのか?あれ」
「多分ダメ。授業終わったらちょっと話しかけてみるわ」
「そうか」
状況の違和感を恭介も察知したのか、小声で前から声をかけてくる。
とりあえず、今は授業が終わるのを待つしかない。
────────────────────────
「それじゃあ今日の授業はここまで。各自復習しておくように」
化学の授業が終わり、先生が教室から姿を消した。
そうするや否や、白餡は即座に席を立ち、何かくしゃくしゃにした紙をゴミ箱に捨て、廊下へと逃げていく。
「ちょっ!あいつ……!」
俺は白餡が捨てたくしゃくしゃになった紙をゴミ箱から回収する。
それは当然というか、予想通りというか、化学の答案用紙だった。
そして……。
「37……点……?」
ありえない。もちろん平均点より10点低い程度の点数なので、学年に何十人かはこのような点数の答案用紙を持つ人はいる。
しかし、白餡がそれを持つことはありえない。有り得なさすぎるのだ。
化学で100点以外取ったことのない人間が唐突に取った37点。これだけで何かしらの緊急事態を察するには十分である。
「なんだってんだよこれは……!」
俺は慌てて教室を飛び出し、廊下を歩く白餡を走って追いかける。
「おい!白餡!!」
フルシカトである。呼びかけても返事は無い。
「白餡ってば!お前どうしたんだって!」
「なに」
人気のない特別棟──化学室や生物室がある校舎の方まで辿り着くと、白餡はようやく俺の声に反応して振り向いた。
「なにも無いだろ。お前どうしたんだよあの化学の点数」
「どうってことないよ。ただの実力不足」
「そんなわけないだろ!?お前の化学の実力は俺が1番よく分かってる!」
「うるさいなぁ。人のテスト結果に一々文句言わないでくれる?デリカシーってものがないの?」
「それはそうだが……」
確かに客観的に見て、『お前がこんなに点数が低いのはおかしい』と言っている様はよく分からない。
ただ、それほど俺は白餡のことを認めているのだ。
「じゃあね。次の時間は図書室でサボる」
「ちょ、ちょっと待て」
「ほっといてよ!!!!」
「っ!!」
俺は居なくなろうとする白餡の手を掴む。
が、それは白餡の号哭と共に振り払われてしまう。
「アイスは、六フッ化白金になってくれるの?」
「ろ、ろくふっか……?なんだって?」
白餡が何かよく分からない言葉を発する。
しかし、こういう時は大抵何かしらの化学物質なのだ。
白餡が化学を愛している気持ちはやはり間違いない。
「私にこれ以上付け込まないで。何も知らないくせにそうやってズケズケと。フッ化水素の浸透作用みたい。アイス、お前は超有毒物質だよ」
「なっ、お前……!」
喧嘩を売られ、買ってやろうかと思い、白餡の顔を睨みつける。
しかし、白餡の顔には怒りなんてものは存在していなかった。
「白餡……。泣いてるのか?」
白餡は声も出さずに泣いていた。
大粒の涙が白餡の頬を伝って床へと垂れる。
「うるさい!黙れ!!」
白餡はそう言い残し、走って俺の前から姿を消した。
追いかけようかと思ったが、先程の白餡の『何も知らないくせに』という言葉が一瞬頭をよぎる。
その瞬間、俺には白餡を追いかける資格など持ち合わせていないことに気づいた。
────────────────────────
♡
「結局早退しちゃった」
3時間目の化学を終え、4時間目の数学を図書室でサボり、昼休みに荷物をまとめて学校を出てきてしまった。
担任には体調不良ということで伝えてある。
化学のテストはその証拠として十分な効果を発揮してくれた。
「美味しそう……」
バスに乗り、土浦駅へとたどり着く。
私の家はここから常磐線を使い数駅電車に揺られた先にある。
駅の中には多数のショップがあり、私はその中でもクレープ屋さんに目を惹かれた。
「……。」
クレープ屋さんを眺めつつ、私は財布の中身を確認する。
財布の中に札はない。小銭が数百円分入っている程度だ。これでは満足にクレープも買えない。
「カラオケに浪費しすぎたなぁ」
金欠の原因は自分でも分かっている。カラオケだ。
化学部のみんなと行くカラオケも好きだが、最近は専ら1人カラオケである。
カラオケは良い。1人で広めの部屋を独占し、どれだけ大きな声で歌っても文句を言われない。
良いストレス発散法だ。
私はよく自分の気分を落ち着けるためにカラオケを利用していたが、最近はその頻度が増えている。そのせいで金欠になるのは言うまでもない。
「あ、電車来る」
電車がまもなく来る時間になり、クレープを尻目に、慌てて改札を通り抜ける。
「アイスには悪いことをした。傷つけただろうな」
化学の時間の後──あの時のアイスの行動は、どう考えても私を心配してくれてのものだった。
しかし、あの時の私には全てがノイズとなってしまった。
善意を無下にしてしまったのは申し訳ないと思っている。
けれど、個人的にはもう問題は無い。なぜなら、今回の考査は吹っ切れるために作り上げたものなのだから。
「私は、私の夢を諦める」
────────────────────────
「おかえりなさい。お父様」
「あぁ、綾音。帰っていたのか。今日は早いな」
父親が仕事から帰ってくる。私の方へは見向きもせず、カバンを渡してくるので、私はそれを受け取り、要件を話す。
「お父様、先日のテストの結果が戻ってきましたので、是非ご覧頂きたいのですが」
「分かった。飯の時に見よう」
「いえ、出来れば今見ていただきたいのですが」
正直ご飯の時間に父親との会話はしたくない。ご飯を美味しく食べられなくなるからだ。
しかし、父親に少しばかり逆らったことで、父親の機嫌は少しばかり悪くなる。
「……。分かった。見よう、それでどこにあるんだ」
「はい。こちらです」
私は返ってきたテストの用紙を父親に渡す。
「なんだ。点数はいつもよりかなり低得点のような気がするが……。おや、化学の答案用紙はどうした」
化学の答案が無いことに父親が気づく。
当然捨ててしまったのだから、ここにあるわけが無い。
「はい。化学に関しては、いつもとは比較にならないほど悪い37点という点数を取ってしまい、学友にそれを見せ物にされてしまいました。そのため答案用紙は私の手元に残っておりません」
「そうか。それで、本題はなんだ」
私の作り話にはさほど興味が無いかのように、本題を聞いてくる。
正直この作り話の内容も、普通の親からすればいじめを疑い心配してくれると思うのだが……。その感覚はもはや持ち合わせていないようだ。
「はい。今回のテストを受け、私は大学への進学を諦めることに致しました。今後は花嫁修行に邁進したいと考えております」
「それは本当か?」
父親が確認を取ってくる。
私は小学生時代に社会で習った踏み絵というものが理解できなかった。
だって、自分の感情や信念なんて、自分で勝手に諦めてしまえば良いのだから。
「本当でございます」
「分かった。では、近々見合いの手筈を整えよう」
「お見合い……でございますか?」
「あぁ。綾音は来週の木曜日で誕生日を迎えるだろう。そうすれば18歳となり、法律的にも結婚ができる年齢になるわけだ。実際に嫁いでもらい、そこで女を磨けば良い」
話が私の想像の数倍トントン拍子に進んでいく。
お見合いは流石に想定外だ。
「ですが、それは些か早計ではございませんか?私には高校生活もありますし」
「流石に中卒という訳にはいかない。教養があることを示すためにも高校は卒業してもらわないとな。であるから、この高校に在学している期間を花嫁の準備期間として捉えれば良い。そうすれば、高校を卒業する同時に良い結婚生活が送れるだろう」
「しかし……」
結婚……なんてまだ全く考えていなかった。
そのため、脳が反射的に反論を組み立てようとする。
「何か不満点があるのかね」
しかし、その反論は父親の静かな威圧によってかき消されてしまう。
こうなってしまえば、私が取れるべき行動はひとつしかない。
「分かりました」
承知の意を示す。ただ、それだけだ。
6章 家庭環境は終わってる
の更新は翌日となりそうです。お待ちください。
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