2章 準備期間は終わってる
4月も中旬に差し掛かり、あと1ヶ月も経たずに開催される文化祭の準備もいよいよ中盤戦へとなった。
「ちっ、この委員長からのメッセガチでイラつくな」
今はLHR──ロングホームルーム中だ。文化祭のうち、クラスでの出し物を決める話し合いをしている最中だが、基本はクラス会長や意欲のあるクラスメイトに任せ、俺はパソコンをカタカタと叩いている。
俺が今作っているのは前夜祭の企画書だ。前夜祭そのもののスケジュールもそうだが、前夜祭が行われるまでのリハーサルや事前打ち合わせ、更には必要な委員会との連携要素などを数十ページに渡り企画書として作成しなければならない。中々に骨の折れる作業だ。
「動画撮影とリハーサルって全然違うよな……?何言ってんだこのクソ委員長は」
俺が今絶賛イラついているのは委員長から企画書のリテイクが要請されたためである。目の前には『動画撮影とリハーサルって何が違うの?後で直しとけ』という文章が、俺の作った企画書の横に赤文字で添付されている。
そもそも委員長とはいえ委員に対してその命令口調はどうなんだ。という疑問はさておいて、問題は指摘の内容だ。
うちの前夜祭では映画部の協力の元、文化祭のテーマに沿ったようなオープニングムービーを最初に流すのがお決まりである。無論、動画撮影とはそのオープニングムービーの撮影のことであり、前夜祭の1週間前に企画されている。
さらに、リハーサルとはもちろん前夜祭の予行演習のことであり、完成したオープニングムービーを流すことはもちろん、ダンス部や軽音部、合唱部などが本番と同じように企画を行い、タイムスケジュールに矛盾がないかを確認するイベントであり、前夜祭の3日前に企画されている。
委員長はこの全く別な2つを混同してリテイクを要求しているのだ。一体どうすれば良いというのだろう。
「まぁいいや。これは適当に修正して委員長に後で直々に文句を言おう。問題は……軽音部だ」
そう、そしてこの企画書の制作作業には委員長の無能さの他にも重大な問題点がもう1つある。
簡単に言えばそれは軽音部の仲間割れだ。
前夜祭では基本軽音部から選出されるバンドが1バンド2曲ほど披露してくれるのが例年なのだが、今回は軽音部がバンドを2つ出すよう要求している。
1つは「わかさぎ」という名前のバンドで、SHISHAMOという有名J-POPの曲を歌ってくれるらしい。このバンドは軽音部からも実力を認められ推薦されているバンドなので、あまり問題はない。
問題となるもう1つのバンドが「ピーチコア」というやつだ。いわゆる学校にもろくに来ないような不良生徒が3人集まって結成されているバンドで、こちらは我らが第1会場委員会の委員長──件のクズ委員長に直談判し、勝手に前夜祭への出場権を獲得したのだ。
そもそも直談判されてそれを許した委員長の独走にも腹が立つし、それによってタイムスケジュールが圧迫されているのにも腹が立つ。元々軽音部の時間は2曲分用意されているので、1曲ずつ披露するのを提案したのだが、それは両バンドに断られてしまった。両方2曲は披露したいらしい。
「疲れた。無理だこれ」
俺は無理難題を一度投げ捨て、パソコンを閉じる。もちろん保存はしていない、何もしていないのだから。
ふと、黒板を見ると、クラスで行われる企画もおおよそ決まっていたようだ。
「はい。というわけで、3-Fのクラスでの出し物はメイドカジノをすることに決まりました。これで皆さん大丈夫ですね?」
メイドカジノ……?よく分からないが書記を見る限り、カジノのディーラーがメイド服を来ているみたいな感じだろうか。
うちのクラス、女子は40人中9人しかいないけど本当にメイド服要素入れて大丈夫?極めて顧客を不愉快な気分にさせないか?
「大丈夫そうですね。そうしましたら、話し合いはここまでです。続いてクラス劇に出るメンバーを決めたいので、興味のある方は教卓の前に集まってください。他の方々は自習で大丈夫です」
どうやら無事にクラス企画は決まったようだ。委員長の一声により、クラスの行動が分裂し始める。
クラス劇というのは、この学校では通称Mスクと呼ばれており、クラス企画とは別で昇降口の広場で1クラス5分程度の劇を披露するのだ。
時間が短い以上、クラス全員を出すことは難しく、出場者は希望制となることが多いが、クラスがこの劇を行わないことは認められていない。必ず1クラス1個は劇をしなければならないのだ。
が、正直俺には関係ない。俺は1年の頃からこのイベントを黒歴史量産イベントとして冷笑してきた。誰がこんなものに好き好んで出るものだろうか。
と思っていると、俺の右隣から立ち上がる音が聞こえた。
「え、ふぃーはクラス劇やるの?」
「うん。だって楽しそうじゃない?私踊ったりこういうお芝居したりするの好きなの」
「そうなんだ。珍しいね」
ふぃーはダンス部に入っているくらいには活動的な人間だ。確かにお芝居とかにも興味はあっても不思議ではない。
「そうだ!ねぇ、アイスくんも一緒に出ようよ」
「え……?」
俺はふぃーから思わぬお誘いを受けて困惑する。
「これも何かの縁だよ。一緒に出たら楽しいって。ほら行こ?」
「えぇ……でもなぁ」
いくらふぃーからのお誘いとはいえ、即席で作り上げられた台本で即席で芝居をするのは中々ハードルが高い。羞恥心を高値で買い取ってもらう必要がある。
「私と一緒にお芝居するの……嫌?」
ふぃーは俺の両手を合わせ、自身の両手で包み込む。視線は上目遣いで俺のことを見ており、完全におねだりする猫のようだ。
「や、やります!やろうじゃないか!」
「ふふ、やったぁ!」
ここまでお願いされて逃げるのは漢が廃る。決して下心とかではなく、俺は俺の意思でクラス劇に出ることを決めた。
前の席では恭介がヤレヤレ顔でこっちを見てきたが、無視だ。確固たる意思で無視をする。
「はいはーい、私達もやりまーす」
「お、ふぃーちゃんとアイスもやるのね。これで8,9,……10人か。丁度いいかもね」
クラス長の元へ行くとちょうど劇の募集人員が締め切られた。
さて、劇とはいうが、一体何をやるんだろうか。ジャンルは指定されている訳では無いので、推理ものや恋愛もの、ヒーローショーのようなものまで毎年幅広いジャンルの劇が行われているらしい。
「れいちゃーん!うちらは一体どんな劇をやるつもりなの?」
白餡がクラス長──れいさんという女の子に質問を投げかける。というか白餡も劇やるの?部活の時の性格だったら俺と同じで劇なんて絶対やりたくなさそうなのに。
「ふふーん。実は私、これが楽しみで昨日夜なべして台本を作ってきたのです!皆さんさぁどうぞこれをお読みください」
「すげぇ、張り切ってるなクラス長」
クラス長は教卓の下からA4のコピー用紙がホチキス止めされたものを10セット取り出して、皆に配り始めた。まさか、この劇をここまで楽しみにしている人がいるとは驚きだ。
さて、台本の中身は……タイトルは未定か。
高校生の女子生徒Aと男子生徒Bが居て……なるほど、BがAに告白するまでの順当なラブストーリーか。よくあるやつ…………え?
「あ、あのクラス長。この悪の大魔王ってのは一体なんですか?」
台本を読み進めていると、一般的な人間ではない悪の大魔王のセリフが出てきてびっくりした。なんだよ『悪の大魔王「ふはははは!」』って。恋愛ストーリーじゃ絶対出てこないセリフだが?
「くっくっくっ。よくぞ聞いてくれたねアイスくん!そう。これはただのラブストーリーでは無いのだよ!話の鍵を握るのはこの悪の大魔王!」
ま、まずい。クラス長が超ハイテンションで語り始めた。これは長丁場になりそうか?
「悪の大魔王の正体はこの学校に存在する『恋愛したら受験に落ちる』という噂のイデアが現実世界に具現化したものなのさ。そして、その悪の大魔王がAとBの恋愛沙汰を邪魔する。しかし、そこで男子生徒Bが悪の大魔王と決闘して大魔王を打ち倒すのだ!!そして姫Aと勇者Bは永遠に結ばれる……。良いストーリーだと思わないかい?」
「途中からただの高校生が姫と勇者になってますけど」
ラブストーリーとヒーローショーの混合物だった。というかこの感じだとどうやらヒーローショーがメインな感じがある。
「細かいことは気にしてはならないよ。さぁ、配役を決めようか。当然私は監督だけれど。メイン役の姫Aと勇者Bは誰にしようか」
「その厨二病みたいな喋り方元に戻りませんか?クラス長」
てか、ずるくね?今クラス長自分は監督とか言わなかったか?自分だけ黒歴史の製造から逃れようって言うのか?
「はいはーい!そしたら姫役はふぃーちゃんが良いと思います!可愛いし!」
「可愛いだなんてそんな……。照れるよ白餡ちゃん」
まさかの白餡がふぃーを姫役に推薦する。白餡のこっち側のモードなら、『はい!私がお姫様やりたい!』くらいは言い出しそうだと思っていたのだが……。
と、白餡の方を見たが、そのおかげでこいつの真意が完全に理解できた。
俺に向かってウィンクを仕切りに打ってくる。某海賊系有名漫画にいるオカマキャラだったら俺の体は木っ端微塵に吹っ飛んでいるレベルだ。
要するに、白餡の真意は『アイス、お前勇者やれ』ってことなんだろう。ふぃーと仮の姿でも恋仲の関係で居られたら嬉しいだろ?という粋な試みだろう。大きなお世話である。
「いいね。そうしたら姫役はふぃーちゃんにしようか。じゃあ次は勇者役だけど……」
大きなお世話ではあるが、俺がこの機会をわざわざ自分から物にしない理由は無い。
自分が馬鹿にしていたクラス劇に主要キャラとして出演するのは中々気恥ずかしいものはあるが、背に腹はかえられぬと言った所か。
「あ、あの……じゃあ俺……」
「それならばこの僕にお任せあれ。クラス長」
「なっ……」
俺の立候補を遮って自分のことを推薦したのは、熊野優希という名前の男だ。
愛称は「くま」で、俺は高2の頃から同じクラスだったのだが、どうも俺はこいつに苦手意識を持っている。
くまは典型的なナルシストであり、喋り方もなんだか鼻につく貴族のお坊ちゃま風な喋りをするのだが、とにかくイケメンなのだ。顔立ちが整っているのはさることながら、こいつの周りからはキラキラオーラが常に漂っており、化学部に入っているような陰キャの俺は浄化されてしまう。
まぁ単純な話ただの嫉妬だ。でも仕方ないだろう。流石に許してほしい。
「くまくんか。良いね!美男美女カップルって感じ。まさに私の想い描いていたストーリーの理想そのものだよ!……で、アイスくん何か言いかけた?」
「い、いや別に……」
俺が勇者に立候補しようとしていたことが若干バレていたのか、クラス長から質問を受けてしまう。しかし、ここでくまというイケメンに対抗して勇者役に名乗りを上げるほどの容姿と胆力は俺は持ち合わせていなかった。
「もしかしてアイスくんも主役やりたかった!?そうだなぁ……。そしたらそうだ!アイスくん悪の大魔王役やろうよ!似合うよアイスくんなら」
「え、いや……その……」
「うん!それがいいよ!決定!はい決定!じゃあ他のサブキャラの配役も決めようか。まずは姫の友達の子で……」
「嘘……だろ……?」
すっごい強引に悪の大魔王役にされてしまった。え、悪の大魔王って台本見る限り主役級キャラだよな……?俺勇者役じゃないのに主役級キャラをやらなきゃならなくなった??
ほんでクラス長ゴリ押しすぎだろ。あと何?悪の大魔王似合うよって。悪口じゃね??
「……。」
白餡が自分の配役を決めながら遠くから俺を睨んでくる。そんなに凝視しないでください。視線が痛い。ヘタレな自分が串刺しになってしまいます。
「よろしくお願いしますね。マドモワゼル、フィオ姫……」
「うん、よろしくね。くまくん」
ふと、ふぃーの方を見ると、勇者役に決まったくまとはニコニコで親睦を深めていた。
それもそうか、ふぃーも劇とはいえ、カップル役をやるとしたら俺みたいな変なやつよりもイケメンの方が良いか。
ふぃーのその笑顔は俺から笑顔を奪うのには十分だった。
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「ヘタレ」
「分かってる。皆まで言うな」
その日の放課後、化学室だ。今日も無事化学部の活動は行われている────基本お茶を啜るだけだが。
そして、本日のメンバーは俺と白餡とまっちゃだ。
「せっかく私があんだけ手助けしてやってんのに馬鹿なんじゃないの。やる気あんの?」
「返す言葉もございません」
白餡の言うことはごもっともだ。あんな絶好のチャンスがあって物にできていない自分が惨めで情けない。
「何があったか知らないけど、とりあえずアイスが悪いってこと?1発行っとく?」
「まっちゃさんに非暴力・不服従を提唱します」
ガンディーもびっくりの脈絡のなさで俺をひっぱたこうとするまっちゃを何とか静止する。
こいつの暴力はガチで本物だ。いつ証拠を集めて被害届をまとめて出してやろうか。
「はぁ……。せっかくやってあげたことを無下にされるとかなり病むわ。でも仕方ないか、相手があのイケメン君じゃアイスに勝ち目は無いね」
「ぐっ……。そうは言うけど、あのイケメンってお前ら女子的にはありなのか?男子的には大いにNGなんだけど」
別にあいつを嫌っているのはあの鼻につく態度という要素も含まれている。そこをひっくるめて女子にはフィルターがかかり、くまが完璧無垢なイケメンに見えているのかは長年の疑問だった。
「私らはくまと中学時代から同じ学校だったけど、私はあれをかっこいいと思ったことはないかも。ほーちゃんならイケメンさを理解できるんじゃない?」
「…………」
白餡に話をふられたまっちゃさんは無言で下を向いている。
理解できるとはどういうことだろうか?白餡の趣味嗜好は俗人離れしているが、まっちゃは至って普通の女子高生的な雰囲気を持っているためということだろうか。
「どうなんです?まっちゃさん」
「…………帰る」
「え?」
長時間の無言の後、まっちゃの口から出た言葉は帰宅宣言だった。その宣言の後、彼女はノータイムで荷物をまとめ、化学室を後にする。
「はぁ、やっぱりダメだったか」
「やっぱりって何、白餡はこの事態を予測してたの?」
「当然、何年あの子の傍にいてきたと思ってるのさ」
「えぇ。じゃあなんであんな事をしたのさ。多分まっちゃ怒ってたぞ」
あれはどう考えても白餡の発言に対する怒りだ。このくらいは化学部に2年ちょいもいれば容易に理解できる。
「あの子はね。中3の時くまと付き合ってたんだ」
「えぇ!?」
衝撃の事実発覚である。まっちゃがくまと付き合っていた!?
そもそもだ。あの大の男嫌いのまっちゃが男と付き合うというのが考えられない。何かの間違いなんじゃないか?
「普通に嘘だよね」
「マジマジほんと。っていうか、その出来事が起こる前はあの子も今みたいな男嫌いは発症してなかったの。男嫌いを発症したのはあの子がくまと別れてから」
「そうなんだ……。でも、それってどういうことなんだ?」
「そう、そこなんだよ。なぜ破局が原因であの子は男嫌いになったのか。そこが私には理解できないんだ。だからそれとなく探ってはいるんだけど、中々本質に迫ることが出来てないんだよね」
ふむ。イケメンと付き合ったことによってそのイケメンを慕っていた大多数の女性からイジメの標的に合い……という展開は漫画だとよくあるパターンだ。
しかし、その展開は男嫌いになることと辻褄があっていない。どちらかと言えば女嫌いになるだろう。確かに謎だ。
「しかし意外だな。あのまっちゃが普通のイケメンと付き合うとは──いや普通かどうかは知らないけど」
「私と違ってあの子は普通の子だからね。長いものには巻かれるタイプなんだよ。浸透圧ってそういうことでしょ?」
「そういうことかなぁ……?」
浸透圧とは水と水溶液を繋げて置いておくと、水溶液側に水が吸い込まれていく現象だ。似ているかどうかと言われると割と微妙。
「さて、人も少なくなっちゃったし今日は解散しようか。私今からカラオケ行くけど、アイスは来る?」
カラオケか。今は17:30で化学部が向かうカラオケ屋と言えば、駅に向かうまでの道のりにあるカラオケSTEPという店だろう。あそこは学割があって安い。
とはいえ、今から向かうとなれば着くのは遅くて18:00、高校生は20:00までしか居れないため、微妙な時間帯である。
「んー、今日はパスで。また今度いくわ」
「そう。じゃあヒトカラ楽しんでくる」
「了解、おつ」
白餡はヒトカラに行くらしい。あいつ、歌上手いから聞く専に回るという手もあったが、委員会の仕事を家に持ち帰ってる以上、そいつらを片付けないとしんどいことになる。今日はパスだ。
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次の日の朝、今日は運命の日である。今日1日の結果によって今後1ヶ月の気の持ちようが大幅に変わってくるのだ。さぁ…結果は……。
「んぐぅぅぅぅぅ!!!2位!?2位かぁぁぁぁ」
この前行われた4月考査の結果が帰ってきたのである。
点数は各教科の授業の際に答案が帰ってきているので知ってはいるが、その具体的な値はあまり参考にならない。テストによって難易度が大幅に異なるからだ。
重要な指標となるのは、偏差値及び順位となる。この学年内での立ち位置を知ることで今回のテストの出来を探るのが恒例だ。
「数学2位で悔しがってるのは目の前にいる数学67位に対する嫌味ですか?」
「バカ言うなよ。そのくらいの順位より2位の方が悔しさは倍増するだろ」
「1発殴っていい?」
恭介が殴ろうとしてくるが、余裕で見切り、止める。普段からガチで殴ってくる奴を相手にしていると、じゃれ合いの殴打を見極めることなど容易い。
俺の数学の点数は88点。丁度最終問題1問分が落とされている計算になる。平均点は31.4点なので偏差値は86もあり、十分な数字ではあるのだが。
「1位はやっぱりあいつ?凄森」
「だろうね。あの感じだとまた総合も1位なんじゃない?」
このクラスにはもう1人数学の得意な人物がいる。それが凄森だ。名前の通り凄く、数学も然ることながら、全教科死角がない。
漏れ出ている会話を聞く限り、あいつの数学の点数は91点で学年1位のようだ。やはり斜行座標の問題は手をつけておくべきだったか。
「ていうか、お前が見なきゃいけない順位はそこじゃねぇ。ここだ」
恭介が俺の成績表の端っこをトントンと指さす。
何を言ってるんだい。成績表はこの数学の順位が書いてある真ん中だけを見るのが鉄則で……。
「総合順位52位。英語と物理と古典足引っ張りすぎだろ。逆に数学その偏差値でそこまで落ちれるのが凄いわ」
「なっ。勝手に見るんじゃねぇって」
この学校の定期考査において、総合順位は各教科の偏差値の値を平均した値を元に付けられる。
数学の偏差値86が何故か他教科も平均すると偏差値64となって、学年52位に落ちてしまうのだ。
「凄森は数学ではお前と競えるかもしれんが、総合順位ならお前はカスだな」
実際そうである。凄森は総合順位TOP3入りが基本で、他に別クラスにいるあと2人と総合順位を争っている。
俺はその3人の争いに数学という教科単体であれば入ることは出来るが、総合順位の争いに参加できた試しはない。
「皆まで言うな。そういうお前はどうなんだよ」
「俺は東北にある大学にAO3期で行くからどうでもいいの。共通テスト満点取るわ」
「はぁ、ズルすぎ」
「これも戦略だが?」
恭介はどうやら共通テストと面接だけで受けられる入試を志望しているようだ。確かに今の時期からそこまで集中して志望するなら都合のいい入試のようにも思える。
さて、化学部のメンバーはどうやろうか。
「よっ。白餡テストの成績は?」
「じゃじゃーん!化学100点で1位!!凄いでしょー?」
「すごいすごい。そんなのは知ってるって」
白餡は去年から化学で100点以外を取ったことがない。1位じゃないとすれば、それは同率だった時だけだ。
「で、総合は?」
「61位だけど?なんでそう意地悪するわけ?」
白餡が涙目になりながら怒りで訴えかけてくる。
化学は数学と違い平均点が58点と常識的な点数であるため、偏差値が伸びにくい。よって、化学で100点を取ったとしても中々総合順位は伸びにくいのだ。
「52位程度がイキがるな」
「いってぇ!ま、まっちゃお前!」
後ろから不意をつかれ頭部にとてつもない衝撃が走る。
後ろを見ると、まっちゃが英和辞典の角で俺をぶん殴っていた。
「ほーちゃん……!アイスに虐められたよ〜」
「あーよしよし、あと、私は総合35位だから。アイスより上ね?残念でした」
こっちを向きながらまっちゃが舌を出してくる。かなり憎たらしい。
「まぁいいよ。化学部の総合順位担当は俺でもお前らでもないしな。ね、けいちゃん?」
「え、あぁうん」
急に話を振られたけいちゃんがびっくりしてこちらを向いてくる。
「けいちゃんは今回何位だった?」
「えぇと、総合順位は7位だったかな。でも、数学は51点で21位だし、化学は83点で6位、物理は78点で11位だからみんなの足元には及ばないよ」
そう、化学部の総合順位エースはこのけいちゃんにこそあるのだ。
俺は数学が得意だが、英語古典物理が苦手。
白餡は化学が得意だが、数学古典地理が苦手。
まっちゃは物理が得意だが、数学英語が苦手。
というように、他のメンツは全員得意教科で覆いきれないほどの苦手教科を持つため、総合順位が下がってしまう。
ところがどっこい、けいちゃんはなんと得意教科は化学であるが、苦手教科はひとつもない!よって全ての教科で平均点+20点程度をとり、総合順位が大幅にアップするのだ。
「そんな謙遜しないでいいって。凄いよけいちゃんは」
「そう?ありがとう。そう言って貰えると嬉しいな」
けいちゃんがはにかみながら笑顔を見せる。
こいつ、化学部内の女子より普通に可愛いな。
「そうだ!今日空き教室でみんなで勉強会しよう!これの復習も込めてさ!私もけいちゃんから数学教わりたいし」
「数学は俺がいるだろ。でも、それは良いアイデアかもね。化学室は今日2年生が使うから使えないけど、多分近くの空き教室なら空いてるかな」
今日の放課後に空き教室で勉強会を開こうという提案だ。俺も白餡から化学を教えて貰える機会があるのはかなり有難いし、とても良い。
すると、後ろから見知った声が聞こえてきた。
「あの……。良ければでいいんだけど、私もその勉強会参加していいかな?」
「え?ふぃーちゃんも!?いいよいいよー!人数は多い方がいいからね」
まさかのふぃーが参戦である。こんなに嬉しいことがあるだろうか。
「私英語は点数取れるんだけど、数学が苦手で……。アイスくんに教えてもらおうかな?って。良いかな?」
「うんいいよ〜。アイスの教えとかうちら要らないから独占しちゃって〜」
「なっ。酷い言い方だな全く」
「本当に?ふふっ、ありがとう!よろしくね!アイスくん」
「は!ひゃい!」
天使のような笑顔を向けられて思わず声が裏返ってしまう。
「え、きも。あやねん向こう行こ」
「だね〜」
白餡とまっちゃにはドン引きされてどこかへ逃げられてしまった。無理もない。
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「さぁ、第1回!化学部勉強会開催です!!」
「わーーい!」
「あ、今日そのテンションで行くんだ」
ミルキーボイスで場を盛り上げるふぃーとは裏腹に、俺の感想は白餡のテンションについてだった。
一応これも化学部内の活動ではあるから、テンションがいつもの感じに戻るのかと思っていたけど、今日はふぃーが居るから教室内のテンションなのかな?
「そこ!うるさい!もっと勉強に集中しなさい!」
「まだ始まってすらいませんが……?」
お説教を受けてしまったが、気にせず鞄から今回のテスト問題等を取り出し、準備を進める。
「じゃあ私はけいちゃんとまっちゃから地理と物理を教えてもらうから、そっちは適当に教えてて!」
「え?あ。はい」
なんか投げやりに俺とふぃーがペアにされてしまったが、これも白餡なりの思いやりなんだろう。本当にお節介だが。
「あの、じゃあアイスくん。早速いいかな?」
「は、はいどうぞ!」
「じゃあこの問題なんだけど……」
ふぃーが提示してきたのは数学の定期考査2枚目の最後の問題だ。確かに2枚目の最後を縁取るに相応しく、中々手応えのある問題だったとは記憶している。
第10問
赤玉1個と白玉3個が入った袋Aと空の袋Bがある。
袋Aから玉を2個取り出して袋Bに入れた状態を「最初の状態」とする。
以下(i)(ii)の操作を行う。
(i)袋Aから玉を1個取り出し、白なら袋Aに戻し、赤なら袋Bに入れた後、袋Bから玉を1個取り出してAに入れる。
(ii)袋Bから玉を1個取り出し、白なら袋Bに戻し、赤なら袋Aに入れた後、袋Aから玉を1個取り出してBに入れる。
最初の状態でAに赤玉がある確率をP0、最初の状態から操作をn回行った時、袋Aに赤玉がある確率をPnとする。
(1)P0,P1を求めよ。
(2)Pnを求めよ。
(3)n回の操作後袋Aに赤玉がある時、最初の状態で袋Aに赤玉があった条件付き確率を求めよ。
「これかぁ……」
いわゆる確率漸化式と言われる問題だ。問題文で用紙の30%くらいが埋め尽くされており、状況把握にかなり時間がかかった問題だ。
確率漸化式である以上、状況把握が出来れば大したことない問題ではあるのだが。
「何やってるのか途中で分からなくなっちゃって……。これどうすれば解けるのかな」
「そうだね。まず確率漸化式の問題は推移図を書きながら状況把握を進めていこうか」
「推移図?」
そう言って俺は白紙のコピー用紙の左上に「P0」左下に「1-P0」右上に「P1」と書く。
「そう。推移図っていうのはnが一個増える時に、1個前の状態からどのくらいの確率で事象が起こるかを図にしたもの。まず、P0は試験中にも解けたみたいだけど、1/2だね」
「うん。これは3C2/4C2で求められるから簡単だったよ」
「いいね。じゃあまずはこのP0の状態からP1の状態へ向かう確率がどのくらいかを調べよう。操作が2つもあるから順番にね。(i)の操作の後袋Aに赤玉がある確率はどうだろう?」
「袋Aから赤を取り出さなければいいから、1/2?」
ふぃーがとても分かりやすく、操作の(i)の場合を考えて1/2と導出したようだ。しかし、それだと抜け落ちがある。
「確かにそれもある。でも、赤を袋Aから取り出しても(i)の袋Bから1個戻すフェーズでまた赤を引けばOKだよね?」
「たしかに。じゃあ1/2+1/6=2/3かぁ」
「その調子だね。次は(ii)だ。(i)の後もAに赤玉があるなら、(ii)の後も確実にAに赤がいるから、(i)の後にBに赤がいる場合を考えよう。この時も同様に考えると?」
「袋Bから赤を取り出してAから取り戻さなければいいから、1/3×1/2×2/3=1/9だ!」
うんうん。さすがこの高校に通っている以上、飲み込みが早い。教えることが少なくてありがたい限りだ。
「だね。ってことはP0からは2/3+1/9=7/9でP1に行くよ。後は1-P0からP1に行く確率だね。この時も同じように考えれる?」
「うん!今度は(i)の操作が無意味だから、(ii)の操作で赤をAに入れる確率、さっき求めた1/3でP1に行くってことだよね?」
「おっけー、そしたらもう全部できるよ。以上より、確率漸化式はP_n+1=7/9×P_n+1/3×(1-P_n)になるわけだから、整理してP_n+1=4/9×P_n+1/3だ」
確率漸化式は漸化式を作れてしまえば、あとは容易い。漸化式の公式に当てはめて解くだけだ。
「これなら解ける!まずP1はP0=1/2を代入してP1=5/9!問題の漸化式の特殊解は3/5だから、変形してP_n+1-3/5=4/9×(P_n-3/5)だ。P1-3/5=-2/45だから、初項-2/45、公比4/9の等比数列とみて、P_n=-2/45×(4/9)^(n-1)+3/5じゃん!うわぁ。分かれば簡単だ……。なんで試験中に解けなかったんだろう」
「数学だとそういうの良くあるよね。過集中で見逃しちゃう解法。テスト中ってやっぱ悪魔が潜んでるって感じ」
テスト中はさっぱり分からない問題でも家に帰って問題を眺めていると解き方を思いつく。なんていうのは数学なら日常茶飯事だ。数学において緊張感はかなりの強敵となる。
「後は(3)だけど……。条件付き確率って見るだけで私はアレルギー反応が……」
「大丈夫だよ。純粋な確率だと条件付き確率は難しかったりするけど、漸化式が出てる以上困難はない。今、条件付き確率の分子はP_n∩P0で、分母はP_nだよね。だから、分子だけ求めればいい」
「とは言ってもだよう。そんな確率どうやって求めるの?」
さぁ、ここで確率漸化式の時に使った推移図が聞いてくる。
「見てて、今推移図を見ると、P1はP0から7/9で来てるんだよね。で、P1の残りの成分はこっちの下側の道から来てる。今このP_n∩P0ってのは、上側だけの道を通って出来たP1を考えたいってこと」
ここで、ふぃーがピコーン!と閃いたような顔をする。
「え、じゃあまさか初項P1'を7/9×P0にして漸化式を解けばいいってこと?」
「その通りだよ!初項が変わるだけだから、漸化式の解はP_n∩P0=-19/90×(4/9)^(n-1)+3/5だね」
すらすら〜と用紙に高速で計算をして、答えを書く。ここまで来ると計算はおよそ本質じゃないので、俺が直々にやってしまっても構わないだろう。
「じゃあ後は分数にして、整理すると…答えは
(19×(4/9)^(n-1)-54)/(4×(4/9)^(n-1)-54)
になる!凄い…こんな簡単に解けちゃった……」
「理解出来たならそれは何よりだよ。そんでもって……」
俺とふぃー、2人して数学に夢中になっていたから気づかなかったが、問題を解き終わって集中が途切れると、俺たちは3人の人影に囲まれていた。
「なんでお前ら3人は俺らのことガン見してるのさ」
「いやはは……。アイスの授業が意外に分かりやすかったからつい……」
「白餡に同じく」
「ごめんね……僕も」
「そういうことならまぁ別にいいけど。悪い気分では無いし」
よし、けいちゃんは許そう。他の2人は自分の胸に日頃の行いを聞いてみな!
「それにしてもあれだね。2人ともそんな仲良かった?ってくらいフランクに喋ってたじゃん!アイスなんてふぃーちゃんと話すといっつもキョドっててキモかったのに」
「最後の一言は余計だが……。確かにふぃーとちゃんと話せたかもしれない。数学の話だったからかな?」
「アイスくんほんと数学好きなんだね。ふふっ、可愛い」
「か、可愛いとか男子にそんな気軽に言うもんじゃありません。勘違いするでしょ?」
「うわ……。ってあれ?誰か電話鳴ってない?」
まっちゃの一言で教室内が閑静になると、電話の着信音が鮮明に聞こえるようになった。
「あ、わりぃ俺だ。」
電話の着信音は俺のバッグの中にあるスマホからだった。
すぐさま電話を取り出すが、着信元は俺が所属している第1会場委員会の副委員長からだった。
「もしもし、どしたん?」
「あぁごめん今まだ学校にいるか?今日はシフトじゃなくて申し訳ないんだけれど、ちょっと体育館でトラブルが起きたから来てほしい」
「トラブルか……。分かった、すぐ向かう」
トラブルと聞く時点で良い予感は全くない。また委員長が何かやらかしたのだろう。
副委員長はその尻拭いを毎度させられていて本当に可哀想だ。
「ごめん!俺委員会で呼び出されちゃったから抜けるわ」
「えぇ〜。数学担当消滅じゃん」
「残念だけど、委員会なら仕方ないよね。行ってらっしゃい」
「ありがとう。じゃあ行ってくる!」
ふぃーに見送られ、荷物を持って廊下を駆け足になりながら体育館へ向かう。大したことないと良いのだが……。
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「体育館の機材が使えない!?」
大したことがあった。なんなら前夜祭含め体育館企画が全ておじゃんになるレベルのトラブルだった。
「うん。体育館の機材は全て放送委員の管轄だから、本来なら委員長が放送委員に掛け合って機材使用許可を得なきゃいけないらしいんだ。でも、委員長がそれを出していないらしくて……」
副委員長が申し訳なさそうに状況を説明してくる。
また委員長かよ……。問題を起こさずにはいられないのか?あの人間は。
「それで?問題の委員長は?」
「それが……。委員長はもう家に帰っちゃったらしくて。あいつの家はここから3つ隣の市だから呼び戻そうにも呼び戻せないし」
「はぁ。もう意地でも呼び戻そうぜそんなん」
そもそも委員会活動はシフト制になってるとはいえ、委員長が居ない日に活動していいものなのか。しかもこんな大事な日に限って居ないなんて。
「すみません。お話よろしかったですか?」
「あ、はい。えっと?」
俺が悩み始めると、後ろから名前も顔も知らない初対面の人間に声をかけられる。
一体誰だろうか。
「申し遅れました。私放送委員の委員長を務めさせて頂いているものです」
「あ、放送委員会さん。すみません、この度はとんだご迷惑を」
誰かと思えばトラブルに巻き込まれてる張本人だった。本当に申し訳ない。
「いえ、それで先程連絡があったのですが、どうやらそちらの委員長さんは放送委員に対する許可を取ったつもりだったらしくて」
「へ?と言いますと?」
俺が聞いた話だと、許可を取らずに今大モメしているという現状のはずだ。許可が取れているのなら話が変わってくる。
「それが、実はそちらの委員長さんが実行委員会に対して提出なさった『用具使用許可証』の用具欄に、仮設ステージや照明、ならびに『放送委員会』と書いてあったらしくてですね」
「…………は?」
開いた口が塞がらない。まさかあの委員長は放送委員会のことをそこらの備品と同じような物としてカウントし、使用許可を得ようとしていたということなのか?
ダメだ、理解が追いついていない。
「毎年、我々の方からも放送器具を使用したい際は我々の許可を得るように連絡を周知させております。しかし、直接の許可を得ようとせず、ましてや道具扱いとして我が委員を扱われるのには信頼関係に対する揺らぎが生じます」
「ごもっともです。返す言葉もありません」
「そのため、本来であれば使用許可などは出したくないのですが」
が……?逆接ということは勝ち確フラグ来たか?
「1つ交換条件を元に放送委員として、私の権力を使い使用許可を与えたいと思います。そして、井上さん。あなたはその為にここへ呼ばせていただきました」
「は、はぁ」
使用許可を与えてくれるのは助かる。
が、交換条件がどうしても気になりすぎる。命と引き換えとかだったら丁重にお断りさせて頂くのだが。
「私、軽音部の方で『わかさぎ』というバンドでキーボードを担当しています。このバンドが前夜祭にて曲を披露させて頂くのはご存知かと思われます」
嫌な予感がしてきた。前夜祭とかいうワード、もう最早聞きたくないところまで来ていたというのに。
「単刀直入に申します。我がバンドの披露曲を4曲にし、『ピーチコア』の出演を取りやめてください」
───────────────────────
「どうしろってんだ……」
前夜祭のことを一生考えながら帰路に付き、家に帰ってからも自室で前夜祭の仮タイムテーブルとにらめっこをしている。
前夜祭は昼休みが終わる13:15から15:00までという風な制限が設けられている。
これ以降の時間前夜祭を行うことは、定時制の方々に迷惑がかかることから、禁止されている。
だがしかし、
13:15-13:20 オープニングムービー
13:21-13:34 軽音ライブ1『ピーチコア』
13:36-14:01 軽音ライブ2『わかさぎ』
14:04-14:29 ダンス披露
14:31-14:39 お笑い企画
14:41-14:49 合唱部ミュージカル
14:51-14:58 応援部演舞
14:59 退出指示
「ギリ耐えか……?いや耐えないなぁ」
分レベルでスケジュールを管理してこれだ。しかも、各演目の間の準備時間を2分程度しかとっていない。
軽音部の楽器入れ替えからダンス部の準備までを2分で行えるとは到底思わない。これは無茶だ。
それに問題の軽音部だ。先程『ピーチコア』のリーダーに電話して前夜祭へ出場しなくてもいいか聞いたところ、当然「無理に決まってんだろ?絞めるぞ?」と脅されてしまった。
そのため、ピーチコアは2曲、わかさぎは4曲ということで、放送委員長のバンドの曲数条件を満たしつつ、ピーチコアの出場権利剥奪は無理だったと今の所は後出しで誤魔化すしかない。
「兄貴、飯。持ってきたから置いとくわ」
「あぁ、ありがと。食べたら下持ってく」
「当たり前。さっさと食べて片付けといて」
ガチャンと扉が開いては一瞬で閉まる。
妹の優実花が夜ご飯を持ってきてくれたようだ。確かに、帰宅即部屋にこもってパソコンを叩いていたので、夜ご飯を食べていなかったような気がする。
「とりあえず一応このスケジュールを印刷して、明日持って行って見るか……。100%無理なんだけどさぁ」
理論上は無理で、机上の空論であっても、成果物がないよりはある方がマシである。何もやっていなかったわけではない事の証明になるからだ。
今日の夜ご飯は生姜焼きらしい。部屋の入口に置かれたプレートから美味しそうな匂いが漂ってくる。
正直これ以上考えても仕方ない。ご飯を食べてあとは明日の自分に託そう。
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譲:目の前にいるピーチコアのリーダー
求:昨日の自分を殴る権利
「おい、第1会場委員さんよぉ。わかさぎの出番が増えるったぁどういう風の吹き回しだい?」
「いや、その……。それには語るにも語りきれない深い事情がありまして……」
俺がちょっと朝早く登校してきたのも束の間、待ち伏せされていたのか分からないが、ピーチコアのリーダーにガンを飛ばされてしまう。
お前普段はろくに学校なんか来ないくせに。
「てめぇらの事情なんか知ったこっちゃねぇよ。まさか俺らの出番が無くなるなんてこったァねぇだろうな?」
「あぁ、はい。それなら一応こんな感じでスケジュールは組んでまして……。ピーチコアさんもきちんと2曲出来るような時間を確保……」
「気に食わねぇな」
「え?」
なんとかスケジュールが書かれた紙を見せて怒りを沈めようとしたのだが、何故かそれが彼の怒りを増幅させてしまう。
ドスの効いた声で不満を顕にされた。
「俺らのバンドが13分、そんであいつらのバンドの出番が25分か……。こらぁ不平等なんじゃねぇのか?」
「いやまぁ、でも当初から出演時間の方は変わっていませんし……」
「俺らも25分だ」
「え?」
「俺らも出演時間を25分にしろってんだ。それでチャラにしてやる。いいな?」
「え、いやしかし……」
ピーチコアまで時間を25分にしたら大問題だ。軽音部だけで前夜祭の時間を50分も使うことになる。
そもそも、軽音部の持ち時間は元々15~20分を予定していたのだ。それを50分も使うだなんて無理が過ぎる!!
「つべこべ言わずにやれってんだ!」
「ひぃ!」
俺が反論しようとすると、顔面を目の前に近づかれ、廊下中に響き渡るような大声で威嚇をされ怯んでしまう。
「楽しみにしてるぜ。じゃ、俺は帰るわ」
そう言うと、不良のリーダーは昇降口から出ていってしまった。今から朝が始まるというのに。
先程の大声に怯んだまま廊下に突っ立っていると、目の前から見知った顔が俺の元へと歩いてきた。
「大丈夫?アイスくん。喧嘩?」
ふぃーだ。慕っている相手の声というのはこうも荒んだ心を癒してくれるというのか。
「ううん。大丈夫だよ。殴られたりとかはしてないからね」
「そう、怪我がないなら良かったぁ。じゃあ一緒に教室まで行こ?」
「え、うん!」
ふぃーと2人横に並んで教室まで向かう。
こんな大したことの無い距離であったとしても、一緒に並んで歩くという行為がとても心地よい。
まるで付き合っている彼氏彼女のような、そのような錯覚に自身がまとわりつかれているのを感じる。なるほど、これは中々危うい体験だ。
「おはよう〜」
「おはようさんお2人共!丁度いい所に来たじゃないか!!」
クラスに軽く挨拶をしながら入ると、大多数のクラスメイトはもう登校しており、どんちゃん騒ぎが始まっていた。一体何事だというのか。
騒動の中心に目を向けると、そこにはメイド服を来た白餡が立っていた。
「あ、アイス!ふぃーちゃん!見て!!くるり〜ん!」
俺に気づいた白餡はそのまま目の前にやってきて、その場で一回転をしてみせる。
青を基調とし、白のフリルが付いたメイド服はその円運動により回転軸から外側への遠心力を受け広がる。
その広がりからは細くもスラッとして美しい白餡の太ももが垣間見え、また、このモードの白餡から感じるロリっぽさもかなり良い。
令嬢の小学生が、メイドさんからお洋服を借りて着てみちゃいました!といったような雰囲気を演出している。
「エロ……」
「は??普通ここで出てくる感想で私を喜ばせるのって『可愛い〜!』でしょ?下心満載で見てるんじゃねぇ!!」
ローキックが目の前から飛んできたが、今目にした眼福の前にはダメージが無かった。ゴム人間よ、大いなる秘宝はここにあったぞ。
「さぁさぁ、ふぃーちゃんも着てみてよ、メイド服!みんな待ち望んでたんだから」
白餡のメイド衣装に見惚れていると、奥からクラス長がもう1着メイド服を持ってきて、俺の隣にいるふぃーに渡した。
マジで?白餡ですらこんな眼福だったのにふぃーのメイド服なんて見たら俺は……。
「いいよー」
そう言うと、ふぃーはピンク色のカーディガンを脱いで机の上に置き、ワイシャツのボタンを外し始めた。そして、ピンクの下着が見え……。
「え?」
ふぃーの胸をコーティングし支えるピンク色の布から反射した光が、俺の網膜を刺激するのとほぼ同時に、俺の体は重力に逆らう方向へ回転し、背中ごと床に叩きつけられた。
「現行犯逮捕。4月27日金曜日、午前7時51分」
「よくやった!ほーちゃん!アイスとかいうそこの変態はそのまま取り押さえといて!ちょっとふぃーちゃん何してるの!!」
「えー、別に減るもんじゃないし、いいかなぁって思ったんだけど。ダメかな?」
「ダメに決まってるでしょ!さっき私のことを舐め回すように見てたそこの変態の視線を見てなかったの??襲われちゃうよ!?」
襲わねぇよ!!と理性はつっこんでいるが、実際はどうだろう。知るよしはない。
というより、今の体勢が苦しい。床に仰向けになった状態で顔には多分まっちゃのスクールバッグが押し当てられている。
そして、その顔面に対してかなりの圧力を感じ、腹部にも圧力を2ヶ所感じている。よって推察では俺の顔面に押し当てられてるスクールバッグを座布団に、まっちゃが体育座りをしていると考えられるのだが。
これもこれでどうなんだ?若干アウトな体勢な気もしますが。
「はい、メイドさん着れたよ〜。アイスくんも起こしてあげて。ほのかちゃん」
「本当に大丈夫?わざわざこいつに見せる必要無いよ?」
「いいよいいよ〜。ほら」
ふぃーの許しを得て、視界が開けたので起き上がる。
そこには天使がいた。上から順番に視界を下ろす。
まず目に入るのは白のフリルが付いたカチューシャだ。黒髪ロングのふぃーの髪とは色合いが対になっており、ワンポイントとして全体像を綺麗に引き立てていく。
さらにメイド服にも感服だ。藍色のメイド服なのだが、正面には白のエプロンのようなものが付いている。そのエプロンから強調される小さくない胸の膨らみが俺の自律神経を稼働させていく。
スカート部分は短めで膝が見える程度なのが素晴らしい。この感じでさっきみたいにくるりんなんてされたら……。
「これがいいんだっけ?くるりーん」
「がはっ!」
目の前で天使が回転した。もうこれ以上幸せなことは無い。このままいっそ天国にまで連れてってくれたら……。
「はいおしまい。次は君たち男子の番だよ」
「え?」
クラス長が男子の番と言い始めたので、まさかと思い周りを見ると、恭介がメイド服を着ていた。
「ヤバいなこれ。背徳感が凄い」
「うわぁ……」
ネカマ趣味のある人間がメイド服で女装なんてしたら、それはもう完全にアッチ系に染まってしまうのでは……?
「さぁさ。アイスも着てくれたまえ」
「えぇ」
クラス長にごり押されるがまま、俺はメイド服を着る。正直男なので着替えるのは楽だ。ワイシャツだって別に気兼ねなく脱げるし、あとはメイド服を来た後、あとからズボンを脱げばいい。
「これは……」
「これは?」
メイド服を着終えた。感想としてはどうなんだろう。
近くに鏡がないのが不便ではあるのだけれど。
「キモいな」
「おえっ」
「あちゃぁ」
「ふふっ、面白い」
「はいもう脱ぐ!二度と着るか!!」
俺はメイド服を投げ捨てて、文化祭当日も二度と着ないことを心に誓った。
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ゴールデンウィークが明けて、気温も上がり、文化祭の準備もいよいよ大詰めへと向かっていく。
ゴールデンウィーク中にあった大きなイベントといえば、オープニングムービーの撮影だ。
何やら今年はMCがソシャゲのガチャみたいな演出で排出されて現実の会場へ登場するみたいな感じらしいが、詳細は分かっていない。こういうお楽しみは最後に取っておくべきだからだ。
「さて。今日は仮設ステージの組み立てだな」
第1会場委員会唯一の力仕事と言っても過言ではない仮設ステージの組み立てが今日から始まる。
いわゆる踊り場のようなものを体育館のステージ中心に木枠を組み立てることで設置し、軽音やダンスの出来る場所を広くするのだ。
「よーし、じゃあこれで全員揃って……あれ?委員長は?」
委員全員いることを確認し、早速作業に取り掛かろうとするが、どうもカス委員長の姿が見当たらない。
「あぁ、それなんだけど、委員長はなんか先生とお話することがある?みたいで」
キョロキョロしていると、副委員長が委員長の動向を教えてくれた。
しかし、先生とお話とは一体何用だ?
「一体どうしたん?今日は少しでも労働力が欲しいから、極力委員は全員集合だっていうのに」
「それが、何用なのか教えて貰えなかったんだよね。自分も行った方がいいか聞いたんだけど、『いや、うーん。まぁ要らない』って言われちゃったし」
「そっか。でも、会議とかがあるわけじゃないし、直ぐに終わって合流してくれるでしょう。じゃあ始めますね。まずは土台から……」
正直委員長が居ないのは想定範囲内だ。ここまでは予測した上で動いている。
仮設ステージの土台はいきなり重い。20本の柱を留め木でしっかりと固定しなければならず、しかもこれを横向きの状態でやってはならない。
厳密には横向きの状態でやっても後から回転させれば良いのだが、柱の重さは1本で5kgある。総重量100kg超えのステージを半回転させるのはどれだけの人数がいても難しい。
1年の委員メンバーに柱を持ってもらい、我々上級生の委員がその柱の凹みに新たな木をはめていく。
「これで土台はできた。それじゃあ、ステージ上にはめるから、みんなまだ手を離さないでね」
続いて演者たちが乗るステージをこの上にはめていく。
これも細長い板1枚10kg程あり、それを6枚横に並べていく作業で骨が折れる。
「よし、完成だ。あとはこれを……」
これにて仮設ステージが完成した。が、問題はここからである。
現在は体育館入口、いわば体育館後方だ。
ここで完成した仮設ステージを舞台の方まで運ぶ必要がある。
最初から舞台側で作ればいいというお話があるが、それはバスケットボール部の顧問が許さない。コート内でわちゃわちゃされるのがどうもお気に召さないようだ。
「すみません。バスケットボール部さん一度休憩に入ってもらってもよろしいですか?ステージを運びます」
バスケ部の顧問は毎回嫌そうな顔で俺の方を見てくるが、一々相手にしていては仕方ない。
「みんな、一気に運ぶぞ!持ち上げなくてもいい。引きずらないように1mmでも浮かせてほしい!」
仮設ステージを運ぶ。総重量は300kgオーバーだ。委員総動員で23人で運ぶも、1人あたりの両手にかかる負担は30kg程にもなり、かなりのストレスだ。
「あれ?今ステージ運び中?頑張ってね〜」
「あ?委員長!」
体育館入口の方から声がして、両腕の体力の限界であまり余裕が無いが、声がした方を見ると、委員長が戻ってきたようだ。委員長はそのまま俺の方へと向かってくる。
助かった。これで労働力が1人でも増える。
「昨日提出してもらったスケジュールだけど、やっぱり軽音部の出番が50分あるのは異常だよ。それに、閉会時間も15:09で予定時刻を9分もオーバーしている。それだと前夜祭としては認められない」
「はぁ、はぁ。あ?」
俺含め委員20人近くが必死の形相で重量級の物体を運んでいるというのに、こいつはスマホで何やら資料を見ながら俺にやたらと話しかけてくる。
前夜祭がスケジュールが……?とか言ってる?ちょっと待ってくれよなぁ。
「確かに僕も軽音部の演奏は聞きたいし、贔屓したくなるような気持ちもわかるけど、とはいえ2バンドで50分は長いんじゃないかな?それは前夜祭じゃなくて本祭の企画で……」
「いいから運ぶの手伝えよ!!!お前は状況判断も出来ねぇのか!!!?」
俺はガラにもなく、委員長に対して大声をあげて怒鳴り散らしてしまう。許してほしい。
が、委員長は手伝わない。ただし、俺に対するスケジュールのクレームは一旦止んだため、これでも上出来だ。
「ふう……。運び終わった。みんなお疲れ様」
10分ほどかけて、仮設ステージを体育館前方へ持っていく仕事が完遂した。
ここから先はスポットライトの設営など、照明器具に関する設営を今日中に行う予定ではあるが、一旦十数分ほど休憩を取った方が全員のためだ。
それで…………。
「おい、委員長。一体なんだって?」
「あ、終わった?それで前夜祭スケジュールのことについてなんだけど」
あ、終わった?じゃねぇよ。手伝うんだよ!お前も!と言おうとしたが、運んでいる時に分泌されていたアドレナリンはもう切れており、激昂するような体力もない。
「軽音部の出演時間を50分も取って贔屓するのはおかしくない?って話なんだけど」
「贔屓……?」
確かに元々軽音部の出演時間は25分だった。
だけど、贔屓も何も元はと言えばこいつが放送委員と連携しなかったことから生じている錆なわけだ。
正直放送委員の委員長もこちらが下手に出ていればいい気になってという感じではあるが、原因がこっちにあるのは明確な以上、強気には出れない。
俺、そこら辺の事情も全部もろもろ説明したよな……?
「そもそもなんで軽音部の出演時間が50分なのさ。ここを削っていた最初の案の方が余程……」
「何故って言われても……。あなたが色々やらかしたせいで軽音部が付け上がっているとしか言いようがないんですが」
不祥事その1、勝手にピーチコアに出場権を与えた。
不祥事その2、放送委員と連携を取らなかった。
「それは言い訳だよね?理由になってない。僕は理由を聞いてるの」
「は?」
俺の中で何かの糸がプッツンと切れる音がした。
「言い訳じゃねぇだろ??なぁ。そうやって委員長は適当に仕事持ってきて?結局それに対処するのは下請けの委員。どれだけ無茶な問題が襲ってきても、やれる限りのことはやってるじゃんか?お前それを何頭ごなしに否定してるの!?頭おかしいんじゃないか!!」
怒りに任せた状態で自分でも何を言ってるのか分からないほどに委員長をまくし立てる。
論理が通っていないところもあるだろうが、今この際それを考えている余裕は無い。
「分かりました。そこまで言うのなら……」
分かった……?分かったのか?
「井上爽さん。あなたを本日付で第1会場委員会、クビにしてあげます」
解雇通知が言い渡された。
────────────────────────
その週の週末、クビになっても仕事が無くなるわけじゃない。なんせ文化祭まで残り1週間、前夜祭に至っては平日はあと3日しかない。
『ごめんね。委員長は昨日あぁ言ったけど、人手不足でもあるし、今さら残りのメンバーで前夜祭関連を仕上げるのは無理だから、手伝ってもらってもいい?』
昨日あそこから俺が直帰した後、速攻で副委員長から送られてきたLINEだ。
何も悪いことをしていない副委員長に対してここまで言われてしまったらやらないと仕方がない。
現状のタイムスケジュールを整理しよう。
13:15-13:20 オープニングムービー
13:23-14:13 軽音ライブ
14:15-14:40 ダンス部
14:42-14:50 お笑い企画
14:52-14:59 合唱部ミュージカル
15:00-15:08 応援部演舞
15:09 退出指示
となっている。
確かに9分オーバーしているが、これ以上削れる可処分時間もない。手詰まりだ。
そして、さらに仕事は増え続ける。前夜祭のしおりの作成だ。
題目や、本祭で行われる企画の広告、後は前夜祭に携わってくれた方々への謝辞を述べるものになる。
それらを編集ソフトにて作成、ならびに1000部の印刷が俺に残されているタスクだ。
さらに、来週の水曜には前夜祭のリハーサルもある。ここまでには何事もなく上手くいってほしいものだ。
とりあえず今日は徹夜でしおりの作成をしよう。残りはそれから考えることにする。
────────────────────────
「大丈夫?アイスくん。顔色悪いよ?」
「あはは、大丈夫だよ。心配してくれてありがとう」
そして迎えた前夜祭前日。リハーサルの日である。先週の土曜日から俺の平均睡眠時間は1時間を切っているため、顔色が悪くなるのも致し方ないだろう。
今日に至っては徹夜だ。仕事って次々にこなしていったとしてもそれだけ新たな仕事が見えてくるだけらしい。
しおりの文書の作成は終わったのだが、さらに重要な問題が発生したのだ。それが前夜祭MCとの連携不足である。
前夜祭MCは俺が有志で募集した4名に行ってもらうのだが、このMC勢と委員長が大喧嘩を勃発してしまったらしい。
というのも、火曜日に俺がアリーナでダンス部と軽音部が実際行う題目を見ていたところ、勝手に委員長が前夜祭のMCの練習をすると言い出し、俺に報告せずにMCを体育館に呼び出したのだ。
俺は現在クビ扱いだから、報告しないのはそれはそうなのかもしれないが、呼び出した委員長当人でさえも、体育館に現れなかったらしい。
おそらく誰かがやってくれると思っていたのだろう。
そんなことは露知らず、MCを1時間ほど待たせていることになってしまった俺は、軽音部、ダンス部、合唱部の題目視聴は全て動画に保存してもらうことにして、MC対応を行うことになったわけだ。
当然MCからも叱咤激励の言葉はあり、大幅に時間が取られて帰宅したのは23:00、そこから後回しにしていた題目の視聴などを合わせると、今日は寝れるわけがなかった。
「あんまり、無理しないでね。今日も前夜祭リハーサルがあるんでしょ?」
「ありがとうね、ふぃー。ふぃーのダンス部の踊りもライトの演出込みで見れるの楽しみにしているよ」
「うん!頑張るから絶対見ててね」
ふぃーはなんて優しいんだ。もう心身共に疲れきってしまっている俺にはこんな優しさでさえも身に染みてしまう。涙が出てきそうだ。
「アイス、おいちょっと」
「え?」
感傷に浸っていると、白餡から呼び出しを食らった。しかも、教室内でのハイテンションモードではなく、化学部内でのローテンションモードだ。
呼び出された先は、朝は人気のない空き教室。この前勉強会をしたところだ。
今はカーテンも閉まっていて、薄気味悪い。
「アイスお前……、大丈夫か?」
「白餡が心配してくれるなんて珍しいね。でも俺は大丈夫!ほら元気元気!」
白餡にも心配されてしまった。俺は今そんなに酷い顔をしているのだろうか。生憎、手鏡などを持ち歩いて自分の容姿をチェックする習慣は持っていないので、確認は出来ないが。
俺は出来る限り精一杯の笑顔をつくろい、心配をかけないように返答する。
「私は……。分かるんだよ、人の感情の浮き沈みが。自分がこんなんだからな。今のアイスは感情がpHジャンプして負の方向に沈みすぎている」
「何言ってるかよく分からないけど、平気だよ。前夜祭だって明日で終わるんだ。あと少しの辛抱だって」
「…………」
白餡は無言だ。何も言い返さず、俺の顔を──俺の眼をじっと見つめてくる。
「まぁそういうなら干渉はしないけど。何かあったらすぐに頼りなよ。化学部総出で手伝うからな。うちらは仲間なんだ」
「へぇー。白餡ツンデレのデレ期ってやつですか?これはレアですな」
「そうやって茶化すならもう知らん。勝手にしろ」
白餡はそう言い残して空き教室を出ていってしまった。プンスカプンって感じの怒り方だったな。
それにしてもこの空き教室、程よい暗さで眠くなるな。少しくらい目をつぶっても……。
っていやいや!ダメだよダメ。今寝たら授業に出れなくなる。寝るなら授業に出席して、授業中に寝なきゃ。
───────────────────────
今日は授業が午前中までしかなく、午後以降は自由だ。
一応理論上は帰ることも可能なのだろうが、文化祭のクラス企画も手伝わずに帰るようなやつは今後の人生が上手くいかないことになるに違いない。
「クラス長、毎回ごめんね。委員会で抜け出しちゃって」
「いいんだよ。前夜祭が終わったら手伝ってくれればいいから。最高の前夜祭を楽しみにしてる!」
「ありがとう。期待しててほしいな」
そうだ。俺が作りあげる予定の前夜祭は楽しみにしてくれてる人が沢山いるんだ。絶対に成功させないと…………。
「それは……。一体どういうこと?」
「残念だけど、言葉通りの意味です。リハーサルは僕が録画しておくので、井上くんは今から前夜祭のしおりの印刷、ならびに作成に当たってください」
体育館についてリハーサルのための仕事をしようとした瞬間委員長から宣告されたのはこの言葉だった。
前夜祭のしおりの印刷って……。
「前夜祭のしおりの印刷は、昨日俺がお前に頼んだはずじゃ……」
「とはいえですよ。昨日の夕方に頼まれても僕はもう帰宅してますし、学校のコピー機が使えないでしょう?僕の家のコピー機だって、1000部超えの印刷なんて重労働はさせたくありません」
「いやじゃあ今から委員長が印刷しにいってくれれば」
昨日俺がMCとの打ち合わせ、題目の確認をしている間に前夜祭のしおりの印刷は委員長に頼んでいたはずだ。それをなんでこんな今さら……。
「僕は前夜祭に出番があるんだ、開式のことばと閉式のことば。きちんとタイムスケジュールにも書いてあるだろう?よく見た方がいい。前夜祭で君の出番は無い」
「…………。」
返す言葉もない。これは怒りを通り越した上での呆れだ。そもそもこのリハーサルは俺が作ったタイムスケジュール通りに題目が進むかの、俺がタイムキーパーをやるために行う企画だ。
それをこんな変な理由でおしゃかにされてしまっては、非常に困る。
「きちんとリハーサルの内容は録画して共有しておくから、家に帰ったら見るといいよ。今日は前夜祭のしおり作成にあたってくれ。全12ページを1000部印刷、並びにチラシの挟み込みまで1冊1冊丁寧に行うことだ。人数分の紙をクラスにそのまま渡すというのでは良くない。それは委員会の信用に関わる。きちんと1冊を作り上げてから全校生徒に配布すること。じゃあ、行ってらっしゃい」
「はい。分かりました」
1000部印刷して挟み込み。どうせ誰にも邪魔されないところで前夜祭の演目を1人で見たいだけなんだろう?
体育館で1000部を広げて挟み込みするのは邪魔にもなるし、現実的では無いか。これは委員会の倉庫でもある耐震倉庫で作業をするしか無さそうだ。
印刷室へと辿り着き、USBを差し込んで、データをプリントする。
ガタン、ガタンと1枚1枚ゆっくりとプリントされているのを眺めているだけだ。
ここから逃げ出したい気持ちにもなるが、委員会の印刷室の使用制限で、「コピー機の使用中はコピー機から離れないこと」というものがある。もし今俺がここら逃げ出したら委員会全体に迷惑がかかってしまう。それだけは出来ない。
─────1時間が経過した。しおりの本体の印刷は終わり、次は本祭で行われるチラシの印刷である。時刻を見ると、午後2:30。前夜祭のリハーサルも今頃ダンス部の演目が行われている辺りだろうか。
ふぃーのステージ上でのダンス、見たかったなぁ。アリーナでは見たけど、あれは明るいところでのダンスだし、照明とかを最大限に利用したフルのダンスは見れたことがない。
それに本番で見ることもおそらく無理な話だろう。本番こそリハーサルより忙しい。もっと様々な無茶が飛び交うに違いない。
─────そうやってボーッとしていると、印刷が終わったようだ。ダンボール箱に詰めて、台車で耐震へと運ぶ。
こういう時はエレベーターの使用も認められているのだ。
耐震倉庫に付き、しおりをページごとに束にする。1つの束から1枚取って全てをまとめて折ると、しおりが1部完成する。
「1冊作り終わった……。バイバインとか落ちてないかな」
ひみつ道具の手も借りたいほどの単純作業だ。耐震倉庫は日当たりも悪く、暗くジメジメしているため、気分がどんよりとする。
時刻は16:00、このペースならまぁ。22:00──学校が完全に閉まる時間には間に合うか。
「なんで俺こんなことしてるんだろう」
2冊目、3冊目……。と途方もない作業をしていると、頭の中はどうでもいい自問自答で埋め尽くされていく。
答えの出ない問いを自身に問いかける度に、心が締め付けられるような、そんな心持ちになり、気分がどんどんと沈んでいく。
「ダメだ!ちゃんと!ちゃんとしないと!」
俺は自分の頬を思いっきり叩き、気持ちを高めて作業を再開しようとする。
しかし、その手は上手く動かない。視界がぼやけ、世界が水中に沈んだかのような錯覚に落とされる。
「あれ、なんで俺泣いて……」
心の中では自分を奮い立たせようと、脳はそう体に命令しているのに、感覚器官が言うことを聞いていない。こんな経験は初めてだ。
「あれ……あれ……」
体が思うように動かない。もうここら辺が俺の限界なのかもしれないと悟った瞬間だった。
「アイス!!!!」
耐震倉庫の扉が大きな音を立てて開かれる。扉が今飛んでいったような気がするが、もしかして壊れてはいないだろうな。
「白餡、それにみんなも……」
暗く電灯の光だけが照らしていた耐震倉庫に差し込んできた陽の光と共に、姿が見えたのは白餡──そして化学部のメンバー、まっちゃにけいちゃん、綾鷹もいた。
「私もいるよー」
「ふぃー!?なんで、リハーサルは!」
「ダンス部のパートだけ終わったから逃げ出してきちゃった。正直それ以外興味無いしね」
「そっか……」
まさかふぃーまで俺の元に駆けつけてきてくれるとは思わなかった。心がじんわりと温まっていくのを感じる。
「もう、アイスくん私のダンス見るって約束したよね?約束破っちゃってさ」
「ご、ごめん。俺も見たかったんだけど……」
「だいじょーぶ。誰も責めたりなんてしないよ。よく頑張ってるね」
ふぃーに頭を撫でられて、止まりかけていた涙がさらに加速して溢れ出していく。
「おーおー、涙が出てますねー。これ化学室に持って帰って原子吸光法でNaが多く含まれてるか実験しに行かない?」
「お、おもしろそうです」
「楽しそうだけれど、後回しにしようか。まずはアイスくんを手伝うよ」
「らじゃ!」
化学部の面々の会話が連ねられる。あぁ、最近部室に顔を出せていなかったからか、余計にこのやり取りが懐かしく、微笑ましい。
それに、まだ一言も喋ってないが、まっちゃも来てくれている。
「まぁ、別に私はあやねんに引っ張って来られただけだから。手伝えってなら手伝ってあげるけど」
「ううん。ありがとう。嬉しいよ」
「そう、直球に感謝を伝えられると、困る」
まっちゃは照れながら腰を落とし、紙の束の前へと陣取る。俺と顔は合わせてくれなかったが、それでも心遣いは本当に嬉しい。
「じゃあ化学部+ふぃーちゃんで、アイスを手伝うよ〜!おーっ!」
「「「おーっ!」」」
「みんな、本当に……本当に……」
「ほらほら、アイスも感傷に浸ってないでやるよ。これってこの順番でいいの?」
「うん、これはこの順番で、その後このカラーコピーのチラシを挟む感じで……」
労働力は一気に6倍だ。みるみるうちにしおりが完成してくる。
終盤謎に1ページだけ足りない事態に陥って、どこで2枚重ねてしまったかを探すといったような事件も発生したが。
仲間がいるってこんなにも心強い。多少のミスなんてなんだってリカバリーできてしまいそうだ。
そして、1時間ほどでついに───
「よーし!完成!これにて一件落着だね」
「マジか……。まだ18:00前だよ。こんなに早く終わるとは思ってなかった」
1000部のしおり作成が完遂である。
正直また徹夜かと思われたが、今回ばかりはちょっとは眠れそうだ。
リハーサルのチェックもしないといけないから、睡眠時間自体はそう長く取れなそうではあるけれど。
「アイス」
「はい!」
少し低めな声で白餡から名前を呼ばれる。
俺は咄嗟のことだったので、体を硬直させながら元気よく返事をする。
「言ったでしょ。頼ってって。私たちはみんなアイスの味方だから」
「うん。ありがとう」
俺は満面の笑みで白餡に対して微笑んだ。
前夜祭という文字はもう聞きたくないと思っていたほどウンザリしていたが、この日だけは、この日だけは文化祭の中で最強の思い出になったと思う。
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