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1章 新学期から終わってる

この物語はフィクションです。実際の地名、人物とは一切の関係がないことをご了承ください。

 朝7時、バスに揺られながら俺はスマホで音楽を聴きつつ仮眠を取る。これを行うために毎日バスを1本見逃し、待機列の1番先頭を取って座席に座れるようにしているのだ。これは最早高校に通う上での俺の欠かせないルーティーンとなってしまっている。今更バス内で目をばっちりと開いていることなど不可能に近い。

 周りの乗客たち────といっても同じ学校へ向かう生徒であることには違いないが、そいつらは皆参考書や単語帳を開き、勉学に勤しんでいる。

 なんと模範的な学生集団であろうか。


「はぁ……」


 高3の春、何も考えずに悠々自適と過ごしてきた高校生活もあとぴったり1年で終わってしまう。これ以上に憂鬱なことは存在しない。

 本音を言えばもう勉強だってしたくないし、かと言って働きたくもない。将来に対して何も思慮を持っていないが、漠然と不安を持っているようなわけでもない。至極、どうでもいいのだ。


「次は終点、丘の上高校〜丘の上高校〜」


 運転手のアナウンスと共に誰もがバスを降りる準備を始める。急勾配の坂を登ってバスが辿り着いたのは、俺の通う高校、「丘の上高校」だ。

 所詮郊外に位置する公立高校ではあるが、偏差値は有名なネット上のサイトによると73もあるらしい。俺の周りの友人を見てる限りそんなことは絶対にないとは思うのだけれど。

 いわゆる地方の自称進学校というような高校ではあるが、客観的に見ても進学実績は割とある。日本一の東京にある大学に年20人前後輩出していれば、公立高校としては褒められるべき成果だろう。


「下りるか……」


 有線のイヤホンをはめたまま、俺はバスを降り、昇降口へと向かう。高校と地区が連携して運行されているバスは実質スクールバスであり、学校の敷地内まで運んでくれるので、歩く距離が少なくなるのはありがたい。


「よっ」


 トンネル状になっている校舎を抜け、その先へとずかずかと進んでいく。


「おい、無視すんなよ」


「いってぇ!なんだよ急に叩くことないじゃんか!」


「こっちは1回声掛けたっての。イヤホンで音楽なんか聞いてると耳壊すぜ?」


 後ろから急にグーパンでどついてきたのは、石川恭介(いしかわきょうすけ)。別に仲が良いって程では無いが、委員会が同じであり、かつ通学手段として同じバスを使うことが多いので、顔を合わす頻度が多い。

  仕方ないので俺はイヤホンを外し、恭介と横並びになって歩く。


「クラス替え楽しみだな〜」


「俺も恭介も物化地理選択だろ?3クラスしかないんだから、大体メンツ決まってるようなもんじゃん」


「はーー。分かってないね。3クラスでも十分ランダム要素は強いって」


 高3にもなると、文理や各々の選択している科目によってクラスが編成される。クラス替えなんてもう大体顔見知りの人間で固定されるのが読み切れるオチだ。


「まぁ、それもそうか。おっ、名簿昇降口に貼り出されてるじゃん」


「ちょっと混雑しすぎだね。FかGかHだろうし、上あがってから確認する?」


「あぁ、そうしよう」


 昇降口の扉には大きな紙に名簿が貼り出されているが、2,3年が挙って集まっているあの人混みに入っていく気力は無い。3年のA〜H組の8クラス中、理系の物化地理選択はF、G、H組のいずれかだ。校舎に入って確認した方が早い。

 特に気軽な会話もなく、靴を上履きに履き替えて歩きスマホを互いにしながら3階へ向かう。そしてF組の前に着き、名簿を確認しようとすると教室の中からけたたましい声で俺の名前を呼ぶ声が聞こえた。


「アイス〜〜!私たち同じクラスだよ!!!」


「うるさ。マジで?俺と白餡って同じクラスなの?」


「そうだよ。F組、なんなら化学部のうち綾鷹ちゃん以外はみんなFに集まってる」


 危うく耳が破壊されそうになった。

 この騒音被害を今廊下中に出してる女は白井綾音(しらいあやね)、通称、白餡(しろあん)。俺の所属している化学部の部長だ。

 化学部では何故か部員を食べ物の名前による愛称で呼ぶことが流行っており、こいつは名字から連想して白餡。そして、俺、井上爽(いのうえそう)は名字と名前の順番のイニシャル、I.S.をもじってアイスと呼ばれている。他にも綾鷹が居たりする。


「あ、恭介くん!恭介くんも同じクラスだよ!えふえふ〜」


「そうなんだ。ありがとう、じゃあ教室入ろうぜアイス」


「お前はその呼び方するのやめてくれない?普通に認めてないから」


 こういう身内ノリが身内以外のところに知れ渡るのは本当に苦しい。化学部内だけに留めてくれませんか?部長。と思いつつ、教室の中へと入り、スマホをポチポチしながら自席へと座る。


「ってか、そうか。名字的に名前の順だと俺は恭平の後ろか」


「そうっぽいね。テストの時とかカンニングしないでよ?」


「誰がするか。カンニングしたら逆に点数が落ちる」

 

「はぁ、喧嘩売ってんの?」


「普通に事実を言ってるだけだろ」


「うぜ〜〜。別に数学以外の教科だったら似たような成績のくせに」


 俺の得意教科である数学だったらカンニングなんてしたら点数が下がるだけだ。数学はこれまでの2年間トップ5をキープし続けている。

 それ以外の教科は30~50位前後だし、古文に至っては320人中290位くらいではあるんだけれど。定期考査なんてものに全力を出す方が疲れてしまう。この程度が十分すぎるものだ。


「まぁ、俺らももう受験生だしさ。正直この1年は勉強づくしなんだろうな」


「それ本当に憂鬱だから自覚させないでほしい。SNSとかもやめなきゃだよね」


「SNS……ねぇ……」


 俺は右手でいじっているスマホを軽く操作し、文字投稿型SNSである、もじったーを開き自分のフォロワー欄からあるアカウントを探す。


「うわ」


 ある投稿を見て俺は思わず声を上げてしまう。それは紛れもなく俺の目の前にいる恭介のアカウントによる恭介の投稿なのだが……。


 12分前


 みんな、おっはよ〜〜❤❤

 今日から私は新学期だよ〜学校なんてテンション下がる⤵︎⤵︎

 フォロワーさんも、お仕事頑張ってくださいね!頑張れのキスしてあげる!ちゅっ(´。>ω(•ω•。`)ぎゅー♡


「おえっ」


 さらに俺はその投稿のコメント欄を見て吐き気を催す。


 9分前


 きょうかチャン!ありがとう!お仕事頑張ってくるネ!お返しの(*>ω<)ω<*)ぎゅ〜♡


「……………………」


「ん?何見てんの?急に嗚咽の真似なんてして」


 気持ち悪がっている俺の様子が気になったのか、恭介が俺のスマホの画面を覗き込んでくる。


「ちょっ!お前やめろって!なんで見てんだよ!」


「なんで見てんだよって……。そりゃもじったーは公開型SNS、誰が見たって文句は無いだろ。鍵垢にしてない恭介が悪い」


「い、いやまぁそれはそうなんだけどさ。流石にこれ同級生のクラスメイトに見られるのはちょっとキツイわ」


「受験勉強とか云々とか考える前にさ、流石にこれはやめなよ。高3にもなってSNSでネカマは厳しいよ。ってか、12分前ってさっき俺と廊下で歩いてる時にこの投稿してたの?本当に引くわ」


 恭介の隠れた趣味────いや隠れてはいないんだけど、ネカマ趣味がこいつにはある。高1の時初めてこのアカウントを見つけた時はマジかと思ったけれど、尋ねたら意外とあっさりこいつは認めた。


「いや、そうだよね。辞めた方がいいのは分かってるんだけどさ……」


「けど……?」


 俺が聞き返すと、恭介の顔が歪んだ。そして狂ったような笑顔を浮かべ、今にも涎が垂れそうになりながら語り出す。


「ダメなんだ……。リプ欄で俺を女と勘違いしてるおじさんから満たされる承認欲求。それに、憐れなおじさんの滑稽な姿を見ることが出来る優越感。誕生日や何かイベントがあればプレゼントだって貢いで貰えるし、ほしい物リストなんて1週間あれば全部届く。こんな生活に慣れちゃったらもう二度と普通の生活には戻れないんだよ!!へ、へへ……」


「ダメだこいつ」


 恭介はもうとっくにイカれてしまっていたらしい。要するにネカマに釣られている人間を見下すのが止められないってことだ。もう俺には助けられないところまで来てしまっているみたい。

 そのうち誰かに刺されたりしない事を祈っているよ。


「そういう曲がりなりにも人の恋愛感情を馬鹿にした行動が簡単にできるの、本当に嫌いだわお前。」


「自覚はあるよ」


「まぁ俺は恋なんてしたことないからなんとも言えないけどね」


「あ、そうなの?」


 そうなの?って恭介に言われるのも若干癪ではあるが、俺はこの高校生活中に全く恋愛に関与してこなかった。というのも、特定の女子を好きになったことが俺にはなかった。

 中学の頃、お付き合いをさせて貰っていた女子はいるが、それがあっても何か自分の心境に変化が起こる訳でも無く、数ヶ月で別れてしまったという経験がある。


「まぁ別にいいんだ。俺は恋なんてしなくても。それにもう高3だしね。恋愛なんかにうつつを抜かしてられないよ」


「ふーん。アイス人の心とか分からなそうだもんね」


「失礼な。あとその呼び方をやめろ」


 ある程度会話を済まし、辺りを見渡す。次に気になってくるのは俺自身の周辺の席に座る人物だ。

 とはいえ、俺は窓側の壁際だから、後ろと右しかご近所さんが居ない。前は恭介で、後ろはまだ来てないのか。右もまだ来てないけど……。


「ん、これって……」


「あぁ。アイスの隣、フィオさんなんだね」


「フィオ……ハーフの人とか?」


 座席表を見ると、俺の右隣の人の名前は川合(かわい)フィオと書いてあった。珍しい名前である。高1の頃、廊下の黒板に掲示される英単語テストの成績上位者には割と高頻度で名前が載っていたような気もするが、顔を見た事も会ったこともない。


「ん〜。俺は高1の頃同じクラスだったけど、あんまり接点なかったから分からないな。大人しめの女子だった記憶はあるけど」


「そうか」


 恭介から情報を貰う。何も貰ってないも同然だけど。そっか、大人しめの子か。それなら、白餡みたいな公害の被害に合わなくて済みそうで良かった。


「あ、来たよ。あの人がフィオさん」


「そうなん…………っ!」


 恭介が指さした方を見ると、目の前に可憐な女子が向かってくるのが見えた。髪は意外と黒髪ストレートで腰ほどまで長く、身長は150cmあるかないかという小柄な姿ではあるものの、胸はある程度強調されており、小さすぎず大きすぎずバランスが取れた造形をしている。って、何だこの分析、我ながら少しキモすぎるぞ。

 そのままフィオさんは俺の隣の席の机にカバンを置く。


「初めまして。よろしくね」


「は、ははい!よろしくおね、がいします!」


 俺に向かって発せられた声は少し気だるげだけれど、きちんと感情のこもった声質をしていた。視線は何かを見つめているようで見つめていないような。何か、不思議ちゃんのような属性を感じることが出来る。


「どうしたの?人見知り?」


「い、いやそんなことは……」


 俺は人見知りなんてするような柄じゃない。どちらかと言えば誰とでも適当に話せるようなタイプだ。だけれど、今このフィオさんと対峙している時は何故か上手く言葉が喉を通らない。緊張して上手く顔を直視することも出来ない。そして、胸の動悸も止まることを知らない。


「ふふっ。まぁいいけど」


 小悪魔的な笑顔を浮かべ、フィオさんは席について荷物の整理を始める。その笑顔が俺の胸の拍動を早くする。認めたくはない、いや認めてはいけない。こんな大事な時期に、こんな感情は絶対に認めてはいけないのに……。


「お前……マジか?」


 恭介にはもうおそらく勘づかれている。俺は、高3の春に俺は人生で初めて、恋をした。一目惚れだ。



 ──────────────────────


「おい、アイス」


「なにさ」


 始業式が終わり、体育館から教室に戻る途中、恭介に声をかけられた。だからその呼び方はやめろって。


「お前、フィオさんに恋したろ」


「な、なな何を根拠にそんなことを言ってるのさ。流石に根拠が不十分じゃない?」


「いや、見てれば分かるって……」


 やっぱり勘づかれてた。そりゃそうか。俺があんな感じになるのは人生で初めてである。何かしらのエラーが発生してると考えるのが普通だ。


「ま、良いとは思うけどさ。知ってる?受験期に恋愛した男は大抵志望大学に落ちるらしいよ」


「めっちゃ聞いたことあるな。それ……」


 受験生には長年代々と受け継がれながら伝わってきた言い伝えだ。両者落ちるのではなく、男だけが志望大学に落ちるという文言がかなり信憑性を高めている逸話である。

 俺には無縁の関係ない事だとは思っていたが。


「成績は落とさないようにしろよ。目指すんだろ?東京の大学」


「まぁ……。正直高望みではあると思うけどね」


「んなことないって。アイスなら余裕よ」


「どうした?急に褒めても飯は奢らんぞ?」


「人が優しさを見せてあげてるって言うのにその態度かよ。まぁいいや、俺は弁当食うよ。アイスは食わんの?」


「いや早過ぎるだろ。まだ9時前だぞ」


 教室について席に戻るなり、恭介はカバンから弁当を取りだし白昼堂々と早弁をし始める。始業式のドタバタもあり、あと30分くらいは自由時間があると見ての試みだろう。

 そして、恭介に言われた通り、俺の現時点での志望大学は日本トップの大学、東京にある大学だ。とはいえ、自分には割と高望みな目標なことに違いない。高2の時に受けた難易度が高めの全国模試であるバンダイ模試では、数学は9割の得点率を誇り、偏差値は大台の80を超えたものの、英国はどちらも5割程度。中の下程度の実力しか持ち合わせていない。

 得意科目が数学というのは大学受験において中々リスキーだ。いくら得意とはいえ、その実力は数学オリンピックに出れるような実力ではなく、秀才の中の上位というだけだ。誰も手も足も出ないような超難問が本番に出てしまえば、受験者の数学の点数は落ち着いて差がつかず、他教科で差をつけられてしまう。そのためにも、今年は数学以外の教科の勉強に励まなければいけないのだけれど。


「アーイス!」


「うるさいなぁ。なに?どした」


 俺に声をかけてきたのは白餡だ。ベージュの髪のポニーテールを揺らしながらこちらに向かって走ってきたようだ。この小さくて小学生みたいな姿から出される小学生みたいな高音は、予期していないといつも鼓膜が破れそうになる。


「今日化学部の活動ありね!第1化学室で17:00から」


「了解。なにすんの?」


「決めてないけど、まぁ文化祭のこととか諸々!忘れないでね!」


 どうやら新学期早々部活があるようだ。正直だるいが、目の前でルンルンでポニーテールを揺らしている白餡の目の前で断るような理由も持ち合わせていない。


「分かった。やっぱり教室での白餡は元気があっていいね」


「え?……私元気なのが取り柄ですから!じゃあまた化学室でね!」


「はいよ」


 人間スピーカーが俺の元を去っていく。しかし、静かになったのも束の間。


「ねぇ」


「うわぁびっくりしたぁ!……なんだまっちゃか。驚かせないでくれよ」


 目の前に現れ、低い声で声を掛けてきたのは、同じく化学部の部員である興津帆乃香(おきつほのか)。抹茶と和風なものが好きだからまっちゃって呼ばれてる。

 こいつも本当は本名をもじって名前を付けたかったんだが、どうもピンとくるような食べ物が無く、結局好きな食べ物という無難な名前の付け方になってしまった。


「驚かせてるつもりは無いけど。今、白餡に何した?」


「何って……。別に何もしてないけど」


「嘘、白餡がちょっと悲しげな顔してたの分からなかったの?ほんと男ってデリカシーないよね」

 

「主語がデカすぎませんか……?まっちゃさん」


 まっちゃは……、なんというか男嫌いの気が激しすぎるのだ。何かと理由をつけては男性という集団に文句をつけたがっている。あまり良くない思想だとは思うのだけれど、なぜそんな思想を持っているのかは知ったこっちゃない。


「白餡を傷つけるやつは絶対に許さないから。覚悟しなさいよ。アイスみたいな男ってさっさと滅べばいいのに。というか、私がいつか絶対滅ぼす」


「ひぇーー」


 顔は命を奪うことも辞さない、他人に恐怖を植え付けるような顔をしている。まっちゃは男嫌いなのもあるし、それと同時に白餡に対する好きのベクトルも若干大きい。そのせいで化学部の中だと割と俺がまっちゃの罵倒の被害を被ることが多い。


「アイス、お前楽しそうだよな化学部」


「本当にそう見える?それは実情を知らないからそんなことを言えるんだよ」


 恭介が正気の沙汰とは思えない言葉を放つ。今のやり取りから一体何を読み取ったんだ。


「やっぱ経験者だけが分かる苦しみってのがあるんですか」


「そんなやわな言い方では形容できない様相を呈しているよ」


 化学部……正直あそこにいる人間は俺も含めてだけど全員癖が強い。まっちゃが男嫌いの悪い方のフェミニスト気質があることなんて最も些細なことのように思える。


「やべっ先生来た」


 そんな話をしていると、教室に担任の先生が入ってきた。早弁をしていた恭介は慌てて弁当箱を片付ける。

 始業式でも見たけれど、今年の担任の先生は物理の先生らしい。でも、物理の先生のくせして何故か容姿はイケメンで二人の娘を持つ父親らしい。そんなことある?物理の先生だよ?


「このクラスの担任になりました。前田です。皆さんはこれから受験生として〜」


 受験生向けのお決まりテンプレートみたいな言葉を先生がかけ始めたので、話半分に聴きながら俺は視線を右側へと移す。

 フィオさん……。やっぱりフィオさんを見てると自分の拍動が速度を上げるのを感じる。退屈そうに話を聞きながら、爪をいじっている様子でさえも今の俺を惚れさせるには十分すぎるほどだ。

 たまに教室の何も無い壁の一点を見つめていたりと、何を考えているのか分からないような所も愛らしく、愛でてあげたい気持ちが刺激される。庇護欲といったようなやつだろうか。


「それでは今から4月考査を始めますね。皆さん机の上は筆記用具だけにしてください」


「は??」


 フィオさんに見惚れていると、担任から意味のわからない言葉が発されたので、思わず驚きの声が反射で出てしまった。4月考査……。考査ってのはその定期テストって意味の考査ってことであってるよな……?


「アイス、今日4月考査あるって知らなかったの?去年の担任が言ってたじゃん。いつもだったら4月考査は始業式の翌日だけど、今年は当日にやるって」


「え、この学校正気なの?」


 恭介が机の上でテストの準備をしながら後ろを向いてくる。が、正直意味が分からない。

 この学校は定期テストが月に1度行われる鬼畜仕様であり、4月考査の存在自体は知っていたのだが──いやそんな物が有るのはおかしいのだけれど──まさかここまでイカれたスケジュールを組んでくるとは思わなかった。だから化学部の活動開始がいつもより少し遅めだったのか。


「まぁいいじゃん。教科は数物化英だけでしょ。それだけでも楽だよ」


「それは、そう」


 問題の本質はそこじゃないんだけどね?学校1日目から数学120分、物化120分、英語100分の拘束はどうなの?って話なんだけど。


「はいじゃあ問題を配ります」


 恭介から問題が後ろへと回ってくる。まず一教科目は数学だ。正直、数学に関してはこう抜き打ちチックな場合でも対処できる。問題はトップ5争いで1番を狙いたいところなんだけど。


「はじめ!」


 考査が始まる。おかしい。俺さっきまで弁当食ってるやつを尻目にフィオさんを見てたはずなのに……!

 問題の内容は2年までの範囲の総復習と言った所だ。机に乗り切らないサイズの問題用紙兼解答用紙が3枚あり、それぞれ裏面を計算用紙にしながら全ての途中式や記述をしていくスタイル。本当に毎回腱鞘炎になりそうだ。


「極限…三角関数…対数グラフの図示…群数列…2枚目までは簡単だな……」


 3枚ある問題のうち、1枚目は教科書に載ってる基礎問レベル、2枚目は市販の参考書に載ってるような応用問題レベルだ。ここまではいつもスラスラと解くことが出来る。

 問題は3枚目だ。3枚目には左半分と右半分で2問だけ問題が書いてあるパターンが多く、ここに難問──一般的には大学入試の過去問などが配置される。配点は30点前後あり、ここを取りきることがトップ争いには必要不可欠だ。さて、問題は……。


 第11問

 0≦t≦2とする。x⁴-2x²-1+t=0の実数解のうち最大のものをg1(t)、最小のものをg2(t)とする。

 ∫(0→2)(g1(t)-g2(t))dtを求めよ。


「………………」


 計算だるそうーーー。微積の融合か……。これだけでやる気を無くすが、手を動かせば解けることには違いない。とりあえず方程式のtを移項して左辺を微分し増減表からのグラフ、あとは直線を上下させて解を求めればg(t)は……。


 g(t)=±√(1+√(2-t))!?


 おいおい待ってくれよルートの中にルートがあるじゃないか。g(t)=sとおいて置換して……。


「試験時間残り10分です」


 まずい!間に合わないこれの他にもあと1問あるのに!置換すると

 ∫(√(1+√2)→1)s(4s-4s³)ds

 だから…


 4(2+(4+√2)√(1+√2))/15

 だ!!!


「試験時間終了です。筆記用具を置いてください」


「どひゃぁぁぁぁ」


 毎回数学の試験終わりは体力がどっと持ってかれるからしんどい。チラッと見えた次の最後の問題、斜交座標で1発っぽかったし先に解けば良かったかなぁ……。


「どうだったよ、数学」


「最後の1問だけ時間切れ。他は合ってると思う」


「ほんとすげぇな。普通の人間は3枚目辿り着かないって」


 正直時間の戦いだもんね……この考査。と続けようとしたけど、休憩時間も程々に次の物化の問題が配られる。

 物化は……苦手だ。数学が得意なら物理も出来るだろとか言ってくる連中を全員根絶やしにしたいほどには苦手だ。特に今回の範囲の熱力学は本当に苦手すぎる。


 問1

 ピストン中の気体が圧力Pのもと、体積がV1からV2まで膨張した。このとき気体が外部からされた仕事はいくらか?


「うーん」


 正直公式を覚えていない。仕事だから力×距離で……。圧力が力÷面積で、体積は面積×高さだから……。うぅ……ダメだぁ……。

 よし、化学に取り掛かろう。これは化学部所属としての意地だ。


 問2

 溶液A(酢酸水溶液0.10mol/L)のpHは?

 酢酸の電離定数は2.7×10^-5とする。


 これは……あれだ。√Cαを計算すれば良いから、log2.7=0.43が与えられてるし、3-0.215=2.785だ。四捨五入して2.8にすればいいかな?

 よし、解ける……、解けるぞ……!


 問3

 溶液A1000mLに溶液B(NaOH水溶液0.10mol/L)を500mL加えた溶液CのpHは?

 問4

 溶液C1500mLに10mLの溶液D(NaOH水溶液1.0mol/L)を加えた溶液のpHは?

 問5

 溶液A1000mLに溶液B1000mLを加えて中和した時のpHは?水のイオン積は1.0×10^-14とする。


 はい無理ーーーー誰が解けるねんこんなの!!!化学部の意地とかもう知りません!pHばっか求めさせやがって馬鹿が!!!


「試験時間終了です」


「本当に……理科が出来なすぎてまずいかもしれない……」


 理科の答案用紙が回収され、机の上に項垂れる俺に前の席の恭介が声をかけてくる。


「そんな落ち込むなよしょうがないじゃん。うちは理科の進度遅いんだから。2年で基礎範囲しか終わってないわけだし」


「いやでもこれじゃあ間に合わないって……」


 日本一の大学を目指す上で競争相手となるのは、中学生のうちに高校範囲の学習を終えてしまっているような都会の私立に通っている連中だ。こんなものに手こずっているようでは一切歯が立たない。


「アイス〜化学部で集まってご飯食べよ!」


「あ、うん」


 机に覆いかぶさっていると、白餡からお昼ご飯のお誘いが来た。フィオさんは……、もう教室から姿を消していた。どっか行っちゃったみたい。

 このクラスにいる化学部は全部で4人、部長の白餡と、まっちゃ、俺、そして……。


「けいちゃん、どうだった?テスト」


「今回の理科は難しかったね。大変だった」


「だよね〜〜」


 もう1人は高木圭介(たかぎけいすけ)、通称けいちゃんだ。化学部では同期で俺以外の唯一の男子部員であり、気が知れた仲である。

 なんでけいちゃんだけ食べ物の名前じゃないのかは誰も知らない。けいちゃんはけいちゃんという呼び方が一番しっくり来る。


「全くさ、もぐもぐ、化学部部員としてさ?もぐもぐ、理科で躓いてるのはどうなの?もぐもぐ」


「食べるか喋るかどっちかにしなさい」


「え、アイス今白餡のこと否定した?許さないけど。」


「してません。ごめんなさい」


 お、俺は食べながら喋るなという至極当たり前の常識を白餡に対して説いただけなのに……!別に否定しようとしたわけじゃないのに……!


「そういう化学部部長の白餡さんは化学出来たわけ?pHを求める問題ワケわからなかったけど」


「問2が2.8、問3が4.6、問4が4.7、問5が8.6」


 俺は皮肉交じりに白餡にテストの出来を尋ねるも、即答で答えらしき数字を列挙されてしまう。

 そのまま白餡は右手で箸を動かしながら、左手で化学の問題用紙を机の中から取りだし、問題を確認しながら続ける。


「問3は酢酸と酢酸ナトリウムの濃度同じだし、問4は緩衝作用が起こるから酢酸の電離平衡が動いて水素イオンがちょっと減るだけ。問5は酢酸ナトリウムの濃度に水のイオン積かけてルート取ったやつがpOHになるから、そっから逆算してpHを求めた方が早い」


「流石化学グランプリ金賞、並びに化学オリンピック代表だっただけの実力はあるんだな」


 この化学部部長、こんなアホっぽいなりをして、高2の時に国際化学オリンピックの代表に選ばれた経験がある。普通に化学のエキスパートといっても過言じゃないのが凄いと思う。


「ふふーん!もっと褒めてもいいんだよ!といっても、化学は私が面白いと思ってずっとやってるだけだから、趣味の一環なんだけどね」


「キモいな。化学が趣味って」


「はーー!?今私の事バカにした!?」


「うん。今のは明確に白餡への悪口だよね?なんでそういうワードチョイスをするかなぁ……」


「はーいごめんなさーい」


 まっちゃも割り込んで怒ってきたので、適当にあしらって俺は弁当のウインナーを口に入れる。

 しかし、みんなお弁当をむしゃむしゃ食べてる中で、1人だけお弁当箱を広げながらも何も食べてない人がいた。


「けいちゃん、ご飯食べないの?」


「え、うん。僕は今日は……」


「ごちそうさま!続いて第2次弁当!けいちゃんのお弁当も美味しそうだね!いただきます!」


「えぇ……?」


 何故か自分の食事に手を付けないけいちゃんを見てたら、自分の分のお弁当を食べ終えた白餡が唐突にけいちゃんのお弁当を目の前に持ってきてバクバクと食べ始める。


「え、けいちゃん。白餡にめっちゃ弁当食われてるけどいいの?」


 訳がわからなくなり、白餡の方を指さしながらけいちゃんに状況を尋ねる。


「うん。今日の朝に僕のお弁当も食べたいって白餡ちゃんに言われたから、あげることにしたんだ」


「は、はぁ……」

 

 納得出来るような感じで説明されたが、全く説明としては納得がいってない。お弁当を食べたいって言われたからあげた……?


「じ、じゃあけいちゃんは俺もけいちゃんのお弁当が食べたいって言ったらどうするの?」


「そうだなぁ。明日で良ければ僕の分をあげるよ。それとも、今すぐが良ければ購買で何か買ってこようか?」


「いや……。別にいいかな」


 けいちゃんは高1の時からずっと思っていたのだが、要するにこういう所がある。なんというか、お人好し過ぎるのだ。それも自分を犠牲にすることを全く厭わないお人好しだ。少しは自分が嫌だと思うことは嫌だと言った方がいいと思う。


「白餡は白餡で食べすぎでしょ。自分の分今さっき食べた後だよね?」


「ん?今食べた私のお弁当は昨日食べれなかった夜ご飯の分。このけいちゃんのお弁当は今日の朝ごはんの分だよ。化学室でなにかお昼ご飯食べよっかな〜」


 一般的な生活をしている人間よりも1食分過去を彼女は生きているらしい。

 白餡は自称身長150cmの、実測149.5cm。さらに胸も下手したら胸筋が多少ある分俺の方が大きいレベルだというのに、この体のどこにそんな食べ物が入るのだろうか。そもそも、なぜそのエネルギーが成長に使われないんだ。


「そんな食生活してたら太るぞ?」


「なっ……!」


「ふんっ!」


「ま、待ってください!まっちゃさん暴力は反対です!!」


 隣に立っていたまっちゃが俺の頭上に右手の拳を振り上げたので、慌てて静止させる。振り下ろされたら痛くて困るので、反射反応で咄嗟にまっちゃの右手首を触ってしまったのだが、それが良くなかった。


「な、何触ってるの!!触らないで!!」


「いってぇ!!」


 俺がまっちゃの体に触れたことが彼女の逆鱗に触れたらしい。残っていた左手がノータイムで俺の頬をビンタする。結局暴力を受けることには変わりないのか……。


「アイスに触られた……。最悪…」


「大丈夫?ほーちゃん。よしよし」


「うぅ……。あやねん……。」


 目の前では白餡がまっちゃの頭をさすり、まっちゃは白餡に抱きつくという高度なイチャイチャが広げられている。こいつらはどうやら小学校からの幼馴染らしく、家も近くて相当仲が良いらしい。たまに愛称呼びも忘れて本名をもじった昔からの呼び方が出ることもあるみたいだけど。


「次の教科は英語かぁ。苦手だ」


 普通に理不尽な扱いを受けながらも、何か反抗するような気も起きないので、別の話題へと転換を試みる。


「この部に英語得意な人なんていないもんね〜。誰も助けにはなれないよ。けいちゃんですら得意じゃないみたいだし」


「ごめんね。僕がもう少し頭が良ければ」


「いや、別にいいんだ。俺もとっくにこの教科は諦めている」


 うちの高校の英語の定期テストはいわゆる典型的な教科書暗記テストだ。しかし、覚えるものは教科書2冊にワーク3冊、単語帳1冊にサイドリーダーと呼ばれる英語の小説や伝記の類を1冊と、並大抵の努力量では全く覚えきれないほどの量がある。これが厄介だ。


「英語といえば、フィオさんって英語得意そうだよね。単語テストも上位にいつも君臨してるし」


 ふと思い出したかのように、フィオさんの話題を入れてみる。どうせなら彼女のことを俺はもっと知っておきたい。


「あやねんは1年生の頃同じクラスだったんだっけ?」


「うん。ふぃーちゃん可愛いよね〜」


「それは私より?私とフィオちゃんならどっちが可愛いと思うの?」


「そ、それはもちろんほーちゃんかなぁ〜あはは」


 白餡がまっちゃに圧をかけられている。こいつもこいつで大変なんだな。心中はかなりお察しします。


「せっかくなら、アイスはふぃーちゃんに英語教えて貰ったら?ほら、席も隣なんだし」


「え、あぁ。確かにそれもありか」


 白餡に言われてはっとする。そうか、英語を教えてもらうという口実で話しかければ、何も不自然じゃなく接点が持てる!これは1歩近づくチャンスなのかもしれない。


「ほら、ふぃーちゃん戻ってきてるし、話しかけてきなよ」


「本当だ」


 自分の席の隣を見ると、フィオさんが既に席に座って何やらスマホを弄っていた。これは話しかけるチャンス……!


「行ってくるわ」


「お〜いってら〜」


 俺は自席に戻るルートでフィオさんに近づき、意を決して声をかける。


「あ、あの。フィオさん!」


「え、はい。どうしたの?」


 急に話しかけられたのかフィオさんは驚き若干引いたような目線でこちらを向いてくる。


「えっと……。次の英語のテストが不安で、英語を教えてほしくて……」


 2人の間に沈黙が少しの間流れる。


「うーん。英語で教えること?無いかなぁ。だって英語って覚えるだけだし」


「あ、あぁ。そうだよね。なんかごめんね?あはは……」


 会話をバッサリ途切れさせられた。そんな……俺はもっとフィオさんと話したかっただけなのに。


「ふられたな」


「振られてんじゃん。おもしろ」


「可哀想」


 遠くから声が聞こえてくる……。うるさい!


 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


 英語のテストを終えて時刻は16:50。英語のテストは予想通り散々な目にあったが、気にしてもしょうがない。俺は第1化学室へと向かって化学部の活動準備を行う。


「ん、けいちゃん早いね」


「アイスくんお疲れ様。こういうのは僕が率先してやらないと」


「そんな硬いこと言うなって。手伝うよ」


 第1化学室の扉を開けると、そこでは既にけいちゃんがお茶の準備を始めていた。帰りのホームルームが終わった瞬間姿を消していたし、速攻でここに来て準備を始めたんだろう。

 この化学部、学年間の交流はほとんどなく、曜日ごとに1年、2年、3年が化学室を取り合って使用している。果たしてそれはもはや同じ部活の一員とは言えるのだろうか、という話ではあるが。

 化学室の後方にある「化学部用!さわるな!」と書かれたいかにも危険な用具が入っていそうな扉を開け、紅茶の葉っぱとコンビニで売ってるようなクッキーの詰め合わせをテーブルに出す。ガスバーナーを用意して台とビーカーも取り出せば準備完了だ。


「これこそ化学部の特権ってやつだよな」


「僕も驚いたよ。まさかビーカーとガスバーナーを使ってお湯を沸かしてもいいだなんて」


 進学校ほど校則は緩いというのは聞いたことがあったが、こういう漫画でよくみた化学部あるあるみたいなものが実践できるとは思わなかった。この学校の校則って放課後にピザを出前で取ってはならないことくらいしかないらしい。

 ガスバーナーをテーブルの元栓にくっつけ、元栓とコックを開ける。チャッカマンを使って火をつけたあと、ガス調節ねじと空気調節ねじを回し、炎を青色にすればOKだ。


「あとはお湯が沸くまで待つだけだね」


「そうだな。そろそろ部長たちも来るだろ」


「おつ」


 噂をすればガラガラっと扉が開き、部長が入ってきた。部長こと白餡は……、やっぱり化学部モードだ。


「はぁ……。アイス、今日はコーヒーで頼むわ」


「ごめん、今コーヒー切らしてる。紅茶しかないんだけど」


「そう……。じゃあ……ゴニョゴニョ……」


 机に体の上半身を大の字で広げながら、白餡はぶつぶつと何かをつぶやく。声が小さすぎて『じゃあ』の後に何を言ったのか全く聞き取れない。


「ごめん。聞こえなかった。なんて?」


「じゃあ紅茶でいいって言ったの!はぁ……」


 一瞬だけ声を荒らげて返答される。まるでヒステリックを起こしている人間かのようだ。

 白餡は部室にいる時、要するに化学部の活動中はいつもこうである。教室でのテンションと打って変わって、ミジンコ以下のテンションへと成り下がる。素人診断を下すのはあまり良くないのだろうが、一種の躁鬱的な何かなんだろうなと俺は解釈している。


「もうちょっとさ、教室の時みたいに出来ないの?テンションの寒暖差で風邪ひくわ」


「別にいいでしょ。アイスはこっちの方を先に見てるわけだし」


 白餡の目の前に紅茶を置きながら諭す。俺が白餡と同じクラスになったのは高2からで、化学部は高1からずっといるから、こっちのモードの方が慣れてるのは事実だ。

 未だにどちらが本物の白餡なのかよく分からず、接し方が難しいと思い続けている。


「で、文化祭のことって言ってたけど、文化祭で化学部は何をするの?」


「テルミット反応」


「バカなのか?絶対許可おりるわけないだろ」


「うるさいなぁ。やらなきゃ分からないでしょ?」


 テルミット反応はを確か銅を使った爆発的な還元反応だ。とても危険なのでおよそ学校の文化祭の安全性レベルでやっていい代物ではない。


「どうしようね。去年は僕たちでスライムを作ったけれど、同じじゃつまらないかな?」


「そうだね。俺ももうちょっと捻ったやつがやりたいんだけど……」


「え、えと。それならルミノール反応なんてどうですか?」


「あ、綾鷹いたんだ」


 この化学部には、今日はいないけどまっちゃと、白餡にけいちゃんに俺、その他に綾鷹という女子がいる。本名は渡辺(わたなべ)あやか。影が薄いので存在を認識するのが若干難しい。

 三つ編みのツインテールを揺らしながら綾鷹が提案したのはルミノール反応だ。確かにそれは面白い。


「ルミノール反応……。確か刑事ドラマとかで血液痕を見つけるために使うやつだね。僕も見た事あるよ」


「は、はい。それで何か刑事ドラマのような操作をして推理とか脱出ゲームが出来たら面白いんじゃないかと」


「ルミノールか。多分この化学室にもあるよな。多分この辺に……あった」


 綾鷹が面白いアイデアを出してくれた。それに呼応して、この行為が果たして許されているのかどうかは分からないけれど、適当に化学室の戸棚を開け、ルミノールという薬品を探すとすぐに見つかった。


「実験してみようか。じゃあ私の血液を……」


 そういって白餡がおもむろに自分の筆箱からカッターナイフを取り出す。


「おい待て待て!」


「なに……?」


「うっ」


 俺が止めようとして声をかけた時、白餡は既に自分の左腕の袖をまくっていた。

 その細い左腕に見られたのは夥しい量のリストカットの跡である。数えなくてもざっと20以上の線状のかさぶたが白餡の手首には刻まれており、直視するのが苦しく思わず目を背けてしまう。


「もう2年も一緒にいるんだから慣れてほしいんだけど」


「流石に人間の傷に慣れる人間がいたらそれは医者かサイコパスだと思うぜ」


「ふーん」


 俺の答えには何も感じないかのように、白餡はほぼ無視とも取れるような返答をする。


「あのさ、普通にやめないの?そのリスカってやつ」


「無理」


「えっ」


「これはもうやめるやめないとかの次元じゃない。家にいたら無意識に気づいたら傷が増えてるだけ。心理的苦痛を肉体的苦痛に昇華していると思えば。後は自己否定の具現とも認識できるけど」


「そうですか……」


 難しい言葉を難しいように並べられ、何言ってるかはよく分からなかったが、俺が何か言えるようなものでもないのだろう。

 白餡は……そう、自傷癖がある。典型的なメンヘラというやつだ。躁鬱でメンヘラなんだから救いようがない。自己肯定感が低く、いつも自分を卑下しているのも厄介だ。彼女の性格がこうなってしまった理由は俺は知るよしもないけれど。


「血液は流石に運営から許可がおりないと思うから、僕は大根を使うのも良いかと思うんだけど、どうかな」


「大根?」


 けいちゃんが代替案として唐突に大根を提示してきた。一体どういうことなのだろうか。


「そう。ルミノール反応によって呈色するのは血液の他にも大根おろしなんかがあるんだ。だから、大根おろしから出る透明な汁でダイイングメッセージのようなものを書いて、お客さんには刑事のように謎解きをしてもらう。なんてのを思いついんたんだけど」


「凄い良いじゃん!2人はどう?」


「いよ」


「いいと…思う」


 けいちゃんが出してくれた案は全会一致で可決される。刑事捜査みたいなのが体験できるのはかなり面白そうだ。俺が小中学生で遊びに来た時にそんなブースがあったらワクワクして仕方がなかっただろう。


「じゃあ決まりだな。要するに謎解きを題材とした出し物をするだけだから、何か謎を考えたいよね。やっぱり化学に関係するものがいいかな」


「なんでもいいでしょ。とりあえず答えは『犯人はアイス』になるように作ってね」


「なんで俺!?」


「この中だと1番何かしらの事件の加害者になりそうなのはアイスじゃん。適材適所ってやつ」


「ノーコメントだ」


 俺のいる化学部のメンツだと、確かに犯罪しそうなのは俺しかいない……。客観的に否定はできないのだ。


「それじゃあ謎は僕が考えておくよ。アイスくんは委員会の活動もあって忙しいもんね」


「マジ?それは助かるわ」


「えー?別にアイスに任せておけばいいのに」


「お前には俺の苦労が分からんだろう。2つの委員会を兼任する辛さが」


「入ったのは自分じゃん。自業自得でしょ」


 俺はこの化学部という部活の他にも、文化祭関連の委員会に2つ所属している。メインで活動してるのは第1会場委員会。これは、主に体育館で行われるバンド演奏や前夜祭に後夜祭などの行事を取り仕切る委員会だ。俺は前夜祭について基本取り仕切っている。

 もう1つはGATE委員会、この学校の文化祭では、毎年学校の入口に大きな3階建ての門型のオブジェが作られるのだが、それを設計し、木材から建築する所までやる委員会である。普通に大工レベルの肉体労働が強いられるので苦しい。こちらは、恭介に誘われて一緒に入っただけの委員会なので、モチベーションはあまりない。

 そして、既にこれらの委員会の活動は始まっている。文化祭があるのは5月の中旬であるが、それらの準備は前年度の2月辺りから始まるのが例年通りだ。今現在は前夜祭のスケジュール管理や出演メンバーを把握するのに忙しい。軽音部やダンス部など色々あり、それらの代表者に何をやるかを書いた書類を提出してもらわなければいけないのだが。


「まぁそうなんだけどね。意外と大変なのよ。3年にもなると」


 そう白餡に告げると、コンコンと化学室の扉がノックされた。『はい〜』と営業ボイスに戻った白餡が陽気な声で扉を開けに行く。


「あれ!?ふぃーちゃんじゃん!どうしてここに?」


「え!?」


 思わぬ来客に変な声が出てしまう。綾鷹は何か嫌悪を示したような顔をする。俺の声そんなにキモかっただろうか……。少しショックではある。


「うん。私は井上くんに用事があって」


「俺?」


 まさかの要望は俺のようだ。え、なんだろう。英語のテスト前の俺がキモすぎて絶縁宣言とかだったら、後で白餡にリストカットのやり方を教えてもらおう。


「はいこれ。井上くんに渡せばいいんだよね?」


「ん……。あぁ、前夜祭の出演希望ね。フィオさんダンス部の部長だったんだ」


 フィオさんから渡された紙はラブレターなんてそんなはずもなく、ただの業務上の書類であった。

 先程も言った通り俺が仕切っている前夜祭は、フィオさんの所属するダンス部も出演する。どんな曲を踊り、どのくらいの時間を所要するのか。また、その曲は公序良俗に反していないかを確認しなければならない。


「これは…K-POPってやつ?」


 どうやらダンス部の踊る曲は俺の知らないタイトルが英語の曲だ。こういうのは大抵韓国のアイドルが踊っている曲の可能性が高い。


「そうだよ〜。ダンス部の練習で体育館使いたい時はまた頼みに来るね」


「あ、うん。フィオさんも練習頑張ってください」


「ありがとう。あと、私のことはふぃーって気軽に呼んでね?じゃあまた明日ー」


「え」


 軽快な挨拶とともに目の前の扉が閉まる。え、今なんて言った……?


「まさかの呼び捨てOK……?さらに愛称でいいなんて……これは脈アリか?」


「きも。ふぃーちゃんは誰とでも基本あんな感じだから勘違いしない方がいいよ」


「そう……なのか」


 そうだよね。ふぃーは気さくそうだもんね。みんなと仲良く接していそうだもの。俺はなんて勘違いをしたんだ。


「てか、アイスふぃーちゃんのこと好きなの?初耳なんだけど」


「一目惚れした」


「キモすぎる。酸化されたアニリンの色くらいキモい」


「例えが分からんて」


 スマホで『アニリン 酸化 色』と調べると、工業廃棄物みたいな色の液体が出てきた。マジで?俺今このクソ汚い物質と同格で例えられたってこと……?


「まぁ、でもやめた方がいいと思うよ。私は」


「はぁ?俺とふぃーじゃ釣り合わないってか?」


「ガチでいきなりふぃー呼びするじゃん……。うーん、それもあるけど、一目惚れほど失敗しやすい恋愛はないと思うよ」


「と言いますと……?」


 白餡がまともそうなことを言い出した。確かに一目惚れともなると、俺はただ容姿だけで彼女を判定したことになる。彼女が一体どういう人物なのかは俺に知るよしは無い。


「CuHAsO3は綺麗な緑色が作れるからこそ人々はこの物質に集まった。しかし、その物質は人体にかなりの有毒性を持つ物質だった」


「酸性亜ヒ酸銅だね。昔はこの物質から抽出された緑色の着色料が衣服等に使われていたけど、その物質に含まれていた有毒性から衣服を着衣した人間や、製造会社の工場員が中毒を起こした事件が頻発したそうだよ」


「解説助かる」


 けいちゃんが白餡の言動に含まれたよく分からない単語の解説を入れてくれる。正直何言ってるか分からんかったから助かる。


「自然界にはこういうことがありふれているでしょ?有毒な花は毒を浴びせたい生物にとって好ましい匂いを生成する。一目惚れにはこれと同じリスクがあるってことだよ」


「んー、要するに、綺麗な花には毒がある。ってやつか?」


「それでいいんじゃん」


 理解しているのかしていないのか分からないような返答をすると、白餡はふてくされて紅茶を飲みに戻ってしまった。

 でも、綺麗な花には毒があるって言ってもなぁ……。ふぃーに限ってそんなことはないだろう。

 ないよね……?



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