6章 家庭環境は終わってる
「と、言うわけなんですが……」
今日は土曜日。運動部ではないので、普段化学部は週末に活動など行わない。
しかし、今は例外だ。昨日──白餡が早退した後に、化学部の部員を全員招集して、今日緊急会議を行うことを俺が決めた。のだが……。
「まず、なぜふぃーが居る」
「えぇ?来ちゃダメなの?私だって化学部の一員なのにさ」
「俺は個別に綾鷹、まっちゃ、けいちゃんに声はかけたけど、ふぃーには声をかけてないぞ」
「ふふっ。そんなの、盗み聞きすればいいだけだよ。土曜日なんて暇だから活動があるなら来たいしね」
「うーん。そうは言ってもだなぁ」
このイレギュラーがいることが原因で、イライラしているお方が若干2名存在する。
言わずもがな、まっちゃと綾鷹のお茶コンビだ。
「それに、白餡ちゃんのことなんでしょ?私もさすがにあの様子じゃ心配だよ」
「まぁ、そういうことなら別に……」
人が誰かを慮る気持ちを制限出来る言われはない。
仕方ないのでふぃーがこの場にいることは受け入れよう。
「それで、この中で昨日から白餡と連絡がついたやつはいるか?」
「……」
長い静寂。これは予想通りだ。
「やっぱり誰も連絡ついてないんだな。俺も昨日送ったLINEが未読無視だ」
「実は私、今日あやねんの家に行ったんだけど」
「え、それは本当?」
ここでまっちゃが衝撃の事実を伝えてくる。
現状、白餡の家を知っているのはまっちゃだけだ。
「うん。だけど、お父さんに追い返されちゃった。声すら聞けなかったよ」
「そうか。八方塞がりだな」
「アイスくんは?昨日化学の授業の後、白餡ちゃんを追いかけてたけど、何も無かったの?」
けいちゃんが昨日の出来事を思い出す。
「あったと言えばあったが、正直何も出来なかったな。テストの点数の低さに落ち込んでいるようにも見えたけど、やっぱりそれ以上の何かがある気がする」
と、昨日の様子を思い出している最中、俺はふと白餡の発言を思い出す。
「そういえば、昨日白餡を追いかけてた時、『ろくふっかなんちゃらになってほしい』みたいな事を言われたような気がするんだが、誰か何か分からないか?」
「ろくふっか……、六フッ化白金のことかな」
「おお!流石けいちゃん。それで、それはどういう物質なの?俺がそれになればいいって話だとは思うんだけど」
白餡の発言によれば、俺がその六フッ化白金とやらになれば良いはずだ。
いや、自分でも何言ってるかはよく分からないんだけど。
「六フッ化白金は、かなり強力な酸化剤だね。その酸化力は本物で、本来化学反応を示さない安定した希ガスのような原子すらも酸化してしまうんだ」
「ほう。その物質についてはよく分かった。それで?俺がそれになるにはどうすればいいんだ?」
「それは……。人体には白金が含まれていないから……」
「うーん」
六フッ化白金とやらの性質が分かったところで何も話は進まない。
いつもの事ではあるが、白餡の化学を用いられた比喩は読み解くのが非常に難解なのだ。
と、4人で悩んでいると、1人が口火を切る。
「え、アイスくん達本当にわかってないの?」
「なんだよふぃー。お前は白餡の真意が分かるとでも言いたいのか」
「いやいやいや、そりゃ分かるでしょ。理系バカって本当に頭が固いんだね」
「チッ……」
「綾鷹さん落ち着いて、舌打ちなんてするキャラじゃないでしょう?」
ふぃーが俺らを煽る煽る。そのせいで綾鷹が攻撃表示で召喚された。
「要するに、その物質は酸化剤なんでしょ?酸化剤といえば、本質は電子を奪うことなわけじゃん」
「それはそうだけど、それがどうしたってのさ」
ふぃーが去年化学基礎でやったような話をし始める。
それが今の事と関連があるようには思えないのだが。
「まだ分からない?だから、白餡ちゃんは自分を電子に例えてるんでしょ。希ガスという安定した場所に存在している電子。安定しているというのは客観的に見たら良いことなのかもしれない。だけど、その電子は本当は不安定を望んでいる。」
「なるほど?」
「つまり、白餡ちゃんの真意は『私を連れ出して』ってことだよ。まるでロミオとジュリエットみたいにね。良いね〜、凄いロマンチックで私は好きだよ」
「確かにその比喩の意図は分からなくもないが、とはいえ、何処から白餡を連れ出せばいいんだ?」
「そりゃ、あの家からでしょ」
「え?」
ここに来て、まっちゃが俺に対して返答する。
「あやねんはあの家というか、親を凄く嫌ってるんだよ」
「な、なんで?だって、白餡の家庭って名家なんでしょ?大金持ちで、白餡だってお嬢様扱いされて幸せなんじゃ」
「それはアイスから見た幸せ。人の幸せの基準は必ずしも画一的なものじゃないよ」
「そういうもの、なのか?」
俺は白餡の家庭事情を聞いて、とても羨ましいと思っていた。
でも、白餡はそれを嫌っていて、さらにそこから抜け出したいとまで考えているというのか。
「特にあやねんが嫌っているのは、父親だね。あの人はかなり前時代的な思考を持っているというか、女性蔑視のような思想を持っている。そこがあやねんの嫌っているポイント。その父親にただ従順なだけの他の家族のことも嫌いらしいけど」
「雷親父ってやつか。だけど、とはいえ18年も一緒に暮らしていれば、慣れるもんなんじゃないのか?家族なんだし」
俺にとって、『家族を嫌う』とは、妹の優実花に対する感情が最大値だ。
正直、想像がつかない。
「そうもいかないんじゃないかな。それに、この時期というタイミング。分かるでしょ?」
「え、どういうこと?」
「進路調査だよ。あやねんのお父さんが前時代的だとするならば、あやねんの将来の夢である化学者は間違いなく反対される。女がそんなことしてどうなる?ってね」
「そんなことが、あるのか?親なのに?」
親というのは、子の失敗を戒めつつも、子の夢に対しては、ただひたむきに応援してくれる存在なのだと思っていた。
だって、俺がそうなのだから。
それなのに、子の夢を否定する親が存在するというのか……?
「そうだよ。その将来に対するいざこざが、今あやねんを悩ませているんじゃないかな」
「なるほどね、そういうことなら」
「そ、そういう事なら私たちに出来ることは無いですね」
「え?なんでだ綾鷹」
白餡の抱える問題が仮定ではあるが、推測ができた。
これからその問題を解決するための策を練ろうという所だったのに、綾鷹が口を挟む。
「あ、アイス。ぶ、部長はこれが運命だったんだよ。う、運命からは誰も逃れられない。そ、その運命に取り込まれる前に予知でも出来ない限り」
「運命ってそんなスピリチュアルな」
「い、いや運だよ。ひ、人は産まれてくる場所もどんな人と接するかも選べない。け、結局は全部運に任せるしかないの」
「そんなことあるわけな」
「ある!」
俺の否定の言葉に覆い被さるように綾鷹は声を荒らげて反論する。
いつも小さな声で話す人間の突発的な大きな声は俺を怯ませるには十分だった。
「あ、アイスは私が運が良いのを知っているでしょ。そ、それは私が運命に身を任せているからなの。ひ、人は運命からは絶対に逃れられないんだって」
「綾鷹……お前そんな薄情なやつだったのか?」
「は、薄情も何も無いよ。し、仕方ないと言っているだけ。ぶ、部長はそれが運命だったんだから」
「もういい。綾鷹は少し静かにしててくれ」
「わ、分かった。べ、別に考えた所で何も変わらないと思うけど」
やり取りによって少々綾鷹への義憤が高まってしまった。
綾鷹──こいつがここまでオカルトチックだとは俺も思っていなかった。人見知りで運が良いやつなだけだと思っていたのに。
「そーれで、アイスくんは結局どうするのさ」
「考え中」
「やっぱそれこそロミジュリ的な展開でしょ。お姫様をお城から引きずり出しちゃいなよ」
「いや、俺はそんな野蛮なことはしたくない。白餡の父親だって、親は親だ。きっと白餡からきちんと気持ちを伝えれば了承してくれるはず」
「うーん。それは無理かなぁ」
「なに、まっちゃまで否定的なの?」
なんというか、さっきから俺だけ考えてばかりで、化学部の他の面々はもう諦観のような雰囲気を出している。
確かに、他人の家庭事情だ。首を突っ込み過ぎるのも良くない。
でも、大切な友達が困っているんだったら、どうにかしてあげたいと思うものじゃないのか?
「あやねんはね、中学の時クラスメイトに虐められてたんだよ」
「っ!」
「そうなのか」
まっちゃが白餡の中学時代のことを語り始めようとする。
隣でけいちゃんがビクッと反応したが、直ぐに笑顔へと戻った。
白餡がいじめの対象となるのは察しが着く。成績優秀で先生から気に入られやすい女子というのは、そういうものだ。
「勿論、あやねんはその事をお父さんにも相談した。でも、お父さんは『気にするな』とか、『立ち向かえ』とか言って、何も解決しようとはしてくれなかったらしい」
「え……?」
「確かに、アイスの家族は話を聞いてる限り、仲が良いんだと思う。でも、世の中にはそんなアイスの尺度じゃ測れない家庭だって存在している。そんな家庭に私たちが足を踏み入れるべきじゃない」
「そうなのかもしれないけど……。でも、白餡は友達でしょ」
「アイス」
まっちゃは俺のことを諭すかのように、真っ直ぐ顔を見つめる。
「家族の縁は、友情なんかよりよっぽど強いんだ。切ろうとしても切れない。そんな嫌らしさが家族の縁にはある」
「………」
「もちろん、あやねんの原因が他にある可能性もあるけどね。アイスがストーキングしてきて辛いとかさ」
「そんなことはしてない」
「でも、原因が家族にあるなら、私は手を引くべきだと思う。月曜日、あの子に直接聞いてみるべきなんじゃないかな」
「そんな……」
まっちゃはそう言って席を立ち上がる。
「さて、言いたいことは言ったし私は帰るね。もちろん、原因が別にあってただのあやねんの躁鬱だったって言うなら、誕生日パーティーは呼んで。じゃあおつかれ」
「お、おつかれ」
まっちゃは席を立って化学室を後にする。
残された4人の間には会話もなく、沈黙が数十秒流れる。
「安心して、アイスくん。僕は白餡ちゃんを助けたいと思うし、アイスくんに協力するよ」
「ありがとうけいちゃん」
「私も協力してあげようか」
「要らない。うるさい。やかましい」
「酷っ、そんなに私のこと目の敵にしなくたっていいじゃん。もう1回私に告白してきてもいいんだよ?」
「それで、その告白は受け入れるのか?」
「振るに決まってるじゃん。馬鹿じゃないの?」
「ウザ」
本当にこいつは相手にするだけ無駄だ。
「わ、私も無理に首は突っ込みたくないかも。あ、アイスが何かするって決めたら協力する」
「そうか」
綾鷹は中立のような、でもどちらかと言えば俺よりの意見を示してくれた。
「今日はみんな土曜なのに集まってもらって悪かった。この件は一旦俺が自分で考えようと思う。何か白餡の様子がおかしかったら教えてほしい」
「分かった。じゃあ片付けようか」
「俺も手伝うよ」
4人で実験器具という名のお茶沸かし器を片付ける。
昨日白餡にも言われた通りだ。
俺はこの件に首を突っ込む為の資格を持ち合わせていないのだろう。
それでも、白餡は俺に助けを求めたのだ。それが例え劇的に解読しにくい比喩だったとしても、それに応えるのが友人ってものだろう。
ビシャーン!!
「えっ!?雷?」
片付けていると、化学室の窓の外が一瞬激しく光る。
どうやら雷が降ったようだ。それに呼応するかのように激しい雨が降り始める。
「本当だね。今日は天気予報でも降水確率0%の晴天だって話だったのに。まさか雨が降るとは」
「うん。傘なんて持ってきてないよ」
「……はい」
「え?」
傘を持ってきておらず、けいちゃんとどうしようか悩んでいると、綾鷹が傘を2本突き出してきた。
「こ、この雨はあと2時間17分続く。こ、ここで待つか、わ、私は傘このために4本持ってきたから、使うといいと思う」
「え、そういうことなら使わせてもらうけど。よく今日雨が降るって分かったね」
「い、言ったでしょ。わ、私は運が良い」
「綾鷹ちゃん私の分の傘は……」
「ない。手ぶらで帰れ」
「そんなぁ」
運が良いとかそういう次元じゃない気がするのだが。
得体の知れない不気味さを綾鷹に感じつつも、ふぃーと問答している綾鷹を尻目に、俺はけいちゃんと一緒に借りた傘を差してバス停へと向かう。
その2時間17分後、雨はピタリと止み、空は満点の快晴となった。
────────────────────────
♣︎
「結局無理やり傘を持ってかれちゃった」
私は歩く。土曜日の学校前のバス停は、バスの往来が極端に少ない。
駅までのバスは1時間に1本しかない為、5分前にバスが出たということは、駅まで歩いた方が早いという計算になる。
「ふんふふん」
鼻歌を歌いながら陽気に帰る。1人って素晴らしい。これを誰に聞かれることもない。
「るーるる、っ?」
突如、私の頭右側頭部に軽い刺激が走る。感覚で言うと、金属製の物質を冬に触って静電気が走ったくらいの感覚だ。
『明日は午前11:27まで雨、それ以降は曇り』
「そっか〜。じゃあ午後から図書館に行こうかな」
突如、私の頭の中に直接文章が届く。面白いのが、この文章を発する声の主は私自身であるということだ。
急に現れる脳内への啓示──これは小6のとある頃からずっと私の中に発現している。
初めは私もこれを信じることなど無かった。
でも、徐々に気づいた。ここで言われたことは絶対に本当になる。
これがなんなのかも必死に考察した。オカルト、幻覚、未来予知。もう既に私は何かしら精神に異常をきたしており、深層心理が無意識的に脳内に出てきているだけなのかもしれない。
でも、そんなことはどうだっていい。この啓示は100%当たるのだから。考える必要なんてない。
もちろん嫌なことを告げられることもある。でも、それを避けることなんて出来ない。いくら試そうとしても、必ず私の知っているように世界は動く。
「っ!」
2連続でお告げが来た。正直毎日の天気を教えてくれるだけで私は良いのだけれど……。
『すい──びしろ──は───に────────て────する』
「そう」
近場の知見ではなく、少し遠い時間の様子が聞き取れた。
この啓示は嫌なことの方に分類される。出来れば聞きたくなかったし、こんなことは起こってほしくない。
「でも、しょうがないよね。未来は変わらないんだから」
私は目から涙のようなものを流しながら、ただ駅へと向かった。
────────────────────────
「ただいま」
「お帰り兄貴、おやつのクッキーあるけど食べる?」
「あぁ、うん。制服から着替えたら食べるよ」
「分かった。用意しとく」
家に帰宅すると、玄関で妹の優実花が出迎えをしてくれた。
どうやら今日はおやつにクッキーがあるらしい。おそらく母親と妹の手作りだろう。大好きだ。
俺は手を洗い、ちゃちゃっと着替えて、リビングの席へと着く。
「ん。美味しいな。これはなんだろう、桃?」
「そう。おじいちゃんから桃が送られてきたから、それ使って桃風味のクッキーにしてみた。兄貴桃好きでしょ?」
「うん好き。でも正直桃ならなにかに混ぜ合わせるよりそのまま食べたい」
「はぁ?文句があるならじゃあ食べなくていいです〜〜」
優実花がクッキーの積もった皿を俺から遠ざける。
「食べないとは言ってないだろ。普通に美味しいし」
「普通にって何よ。美味しさを強調しなさい」
「はいはい」
クッキーはやはり手作りで、かなり美味しい。市販のものとして売り出したら結構高めの値が張るレベルだと思う。
「喧嘩しないの。それで、爽、部活の方はどうだったの?」
「あ、うーん。ぼちぼちかな」
母親が俺の今日の学校の話を聞いてくる。
普段休日登校なんてしない部活が、急に土曜日に活動をやると言い出したら、親としてなにか気がかりなものはあるだろう。
「しろあ───部長がなんか困ってるらしくてさ。助けになりたいんだけど、どうすればいいか分からなくて」
「あら、そうなの。部長さんはどうして困ってるの?」
「それがまぁ。こういう言い方をしていいのか分からないけれど、家庭環境の問題で。部長が父親から少し嫌な思いを受けているっていうか。」
「なるほどね。少し詳しく話してみなさい」
「うん」
俺は母親に、白餡の家庭事情について。白餡の父親について。白餡が助けを求めていることなど、今日の化学部活動で話したような内容を説明する。
「そうねーー。難しいけれど、逃げちゃえばいいんじゃないかしら」
「それが出来たら苦労はしないよ。それに、子供は親と一緒じゃないと生活できないし」
「あら。そんなことないじゃない。」
「え?」
母親がどうしようもない、何とも大人目線の意見を言ってきて辟易としたが、根拠がきちんとあるようだ。
「現に、あなた達には今父親が居ないでしょう?」
「いや、それはそうだけど……」
「爽、貴方はね。父親から逃げることが出来たのよ」
「……どういうこと?」
父親の話は今までしてきたことがなかった。だから、どういう人物なのかも記憶に残っていない。なんせ3歳の頃にはもう既に父親は俺の傍に存在していなかったのだから。
「これは優実花がまだ私のお腹の中にいた頃の話ね。爽はまだ3歳だったかしら」
母親が昔話を始める。
「あなた達の父親は働きもせず、ずっと家にいたわ。そのせいで私は妊娠3ヶ月なのにも関わらず、働いていたの」
「へぇ、全然覚えてないな」
「もう15年も前だからね。でも、悪いことだけじゃないと思っていたわ。私が働いている間、爽の面倒はその父親が見てくれていたのよ」
ということは、俺は未就学児の頃かなり父親と接点を持っていたということだろうか。
「でも、そのせいで気づけなかったの。私が働いている間、爽、貴方は父親に酷い仕打ちを受けていたのよ」
「そうなんだ」
「あら、意外と反応は薄いのね」
「そりゃ覚えてないことだしね。なんか架空の物語を聞いているみたいで」
実感が無ければ、俺が父親に何をされていたとしても、復讐心が湧いてくるようなことはない。
顔も雰囲気も覚えてないようなやつを恨むとか、出来るわけがない。
「気づいたのはとある日、私が仕事から帰ってきた時ね。家に帰ってふと、爽が視界に入らないことに気づいたわ。焦ってそこら中を探していると、家の外にあるゴミ捨て場──ゴミ袋が沢山置かれてる場所ね。そこに置き去りにされている爽を見つけることが出来た」
「えぇ?」
「もちろん爽を見つけた私は大喧嘩になった。けれど、向こうの言い分はただの自己満足でしか無かったことに私は幻滅したの。それに、このようなことは私が気づかなかっただけでこれまでにも何回かあったらしいしね」
目の前の母親からとんでもない話を淡々と聞かされている。
全く覚えておらず、確信が全然持てない。
「だから、私はあの人の元から爽を連れて逃げることにしたの。そして今に至るって感じかなぁ。正式には離婚はしてないし、籍は入ってるまんまなんだろうけどね」
「そんなことが……本当に?」
「うん。本当。爽のことを優しい子に育てすぎたのかもしれないけれど、世の中にはどうしようもない性格が終わっているクズのような人間もいるの。そんな人を『説得』しようだなんて思うだけ無駄よ。どうしてもと言うなら、そこから『逃亡』するしかない」
確かにそうなのかも。俺が世界を知らなすぎているだけなのかもしれない。
「うん。でも、出来る限り俺は俺のやり方でやってみるよ。それに、部長を親元から離れさせるっていうのも、それこそ難しい話だし」
「そうね。でも、爽も1人じゃ父親から逃げ出すことなんて出来なかったはずよ。私が居たから爽は逃げることが出来た。その部長さんにとって、助けになるというのはそういうことなんじゃないかしら」
「うーん。少し難しすぎてよく分からないな」
「仕方ないわね。他人のことなんて完璧に理解しようとする方が難しい。価値観の違いは必ず現れるものよ。でも、出来る限りやってみなさい。私はなんでも協力するわ」
「ありがとう。母さん。……ってあれ?俺の分のクッキーは」
話を区切り、テーブルの上のクッキーに手を伸ばそうとしたが、俺の手は空振りした。
「長話しすぎ。もう4時だよ、夜ご飯のために今日のおやつタイムは終了です」
「えぇ〜そんなぁ」
優実花が既にクッキーにラップをして冷蔵庫にしまった所だった。
逃げる……。そんな選択肢が取れるものなのだろうか。
────────────────────────
月曜日、朝の学校である。
「アーイス、今日放課後和菓子食べに行こ?」
「朝来て早々、放課後の話とはちょっと気が早くないか?」
「え〜楽しみにしてたんだもん、しょうがないじゃん。昨日思いついてもう居てもたってもいられなくて」
金曜日の出来事がまるで嘘だったかのように、白餡は俺に話しかけてくる。
しかも、教室モードだ。ハイテンションで話しかけてくるのが、逆に空元気を感じて薄気味悪くもある。
「まぁいいか。和菓子久しぶりに食べたいし。じいちゃん家とか行くと、よく置いてあるんだよな。じいちゃん家にだけ置いてある謎に美味い菓子とかあるよな」
「……ごめん私のおじいちゃん7歳の頃に亡くなってて」
「マジですまなかった」
俺は大地雷を踏んでしまった。
椅子から速攻で降り、ジャンピング土下座をぶちかます。
「いいのいいの、別に小さい頃の話だから覚えてないし」
「あ、あぁ。そ、そうだ!行く人は?化学部の面々か?」
俺は暗い空気に持っていかれそうなのが耐えられなくなり、無理やりに会話のベクトルを変える。
「うん!あぁでも、けいちゃんは今日予備校があるから無理っぽい」
「え?けいちゃん予備校なんて行ってるの??あんなに勉強出来るのに」
「予備校行ってるからあんなに勉強が出来るんじゃない?自らの鍛錬を忘れない心、大事にしたいよねぇ」
俺は白餡と会話をしながらも、彼女を注意深く観察する。
何か変わったことはないか。おかしな様子はないか。
でも、そんな事は読み取ることが出来ない。なんてったって、白餡の教室での擬態は完璧だ。今日の放課後、化学部モードになるだろうから、その時に詳しいことを聞こう。
「んじゃね。また放課後に……」
「白餡ちゃん。私もまーぜて?」
「お前……」
俺と白餡との会話に横入りしてきたのは、そう。ふぃーである。
ふぃーがこの放課後のイベントに混ざるのは個人的な事情として、かなり都合が悪い。
他の化学部の面々が嫌がるからという理由は置いておいて、ふぃーが放課後の活動に加わる場合、白餡は化学部モードにならない可能性が高い。
そうなると、またこいつの真意を読み取ることが難しくなるのだ。
「いいよー。ふぃーちゃんも行こ行こ〜」
「やったぁ。白餡ちゃん大好き!」
白餡の返答は、まさかというか、やっぱりというか、承諾である。
白餡とふぃーはくっつき、お互いを抱きしめる形になる。
「え?白餡良いのか」
「私には断る理由ないよ?それにこっちの方が都合がいいしね」
「都合がいいって、それはどういう」
「なんでもなーい。じゃあまた放課後ね」
「あ、ちょおい」
俺の呼び止めも虚しく、白餡は教室から出ていってしまう。綾鷹でも誘いに行くんだろうか。
「それで、ふぃー。お前の真意はなんだ」
「なになに?真意って、そんな深い意味はないよ」
「正直ふぃーがいると邪魔なんだ。白餡が何で困っているのか、本当の状況を聞き出すには、いつもの化学部モードでいてほしいんだ。ふぃーが居ると教室でのモードにしかならない」
「そのモードってのがよく分からないけれど。邪魔とか言われると悲しいなぁ。私はただみんなと純粋な気持ちで遊びたいだけなのに」
ふぃーがあからさまに悲しげな表情をする。これも演技なのだろう、腹立たしい。
「そうは言ってもだなぁ。今は白餡について思案するのが第一目標で」
「それが本当に白餡ちゃんの望んでいることだと思うの?」
「そりゃそうだろ。俺はあいつから助けを求められてるわけで」
「でもさぁ?今日放課後遊びに行きたいって言うのは、別にそれとは関係ないかもしれないじゃない。ただ楽しみたいだけかもよ。そんな場面に変な思慮を入れてくる方がウザイでしょ」
「だからって」
「そもそもウチらが考えた白餡ちゃんの事情はあくまで仮説の段階。もう吹っ切れてる可能性だってあるし、それなのに無理に追求するのは流石に自意識過剰乙って感じじゃない?」
「きつい正論パンチだな。でも俺はもう自分の意思を曲げるつもりは無い。逆に白餡からなにかストップをかけられるまでは詮索を続けるつもりだよ」
「……」
お互いの口論は止み、お互いに黙る。
「分かったよ。それなら私は今日は行かない。適当に理由つけて断っとくわ。あーあ、和菓子食べたかったんだけどなぁ」
「なんか食べたいのがあるなら、俺が買っといてやるから」
「やったー。どこ行くか知らないけど、最中はあるでしょ?それと可愛いやつがあったら買っといて」
「分かった」
そう言うと、ふぃーは俺の両手に手を絡め、上目遣いで俺を見上げてくる。
「もちろん……。奢って?」
「だる」
「えぇいいでしょ〜?奢ってよ〜」
顔を近づけられ、俺はふぃーの顔を直視出来ず、照れながら顔を横に逸らす。
「分かった。分かったから離れてくれ」
「やった〜楽しみにしてるよん」
「はぁ……」
奢りが確定してしまったが、ふぃーはようやく俺から離れて去っていった。
さて、勝負は放課後だ。まずは白餡が何で悩んでいるのか、そこから把握しなければならない。
────────────────────────
迎える放課後、メンバーは俺、まっちゃ、綾鷹、そして白餡の4人だ。
けいちゃんが居ない化学部だと、俺が若干ハーレムっぽくなってしまうので、居心地が少し悪い。
「じゃあ和菓子屋さん行こっか〜!レッツゴー!」
そして誤算があった。
ふぃーが居ないのに白餡が化学部モードにならない。
カラオケの時は化学部モードになるし、別に外だからという訳でもない。なぜ今日に限って……。
「このメンバーなのに今日白餡テンション高くない?」
「何言ってんのさアイス。テンションは上げた方が楽しいでしょ?」
「否定はしないが。まぁそれでいいなら別に咎めることもないか」
無理をしているような様子も見受けられない。
それに、何か変なことをしないかどうかと、まっちゃがこちらを睨んでいる。この状態で白餡と接しているのは危険だ。
「わ、和菓子屋さんってどこの和菓子屋さんですか?」
「そういえば俺も知らないな。何か行くあてがあるのか?」
綾鷹が今から向かう場所を尋ねてくる。確かに、和菓子というのはあまりピンと来ていない。
「あぁ、それなんだけど。この前の文化祭で茶道部を見て回ったでしょ?その時に食べた和菓子が本当に美味しくてさ。それで、茶道部の部長さんの家が経営してる和菓子屋さんに行こうと思うの」
「おおめっちゃ良いじゃん。どこにあるの?」
「んー。駅前っぽい。歩く?」
この高校から最寄りの駅までは、バスで行くか徒歩で行くかの二択が迫られる。
この4人は全員バスの定期券を持っているので、バスで行ってもいいのだが、如何せんこの時間だ。帰ろうとする生徒でバスが大行列を起こす。
「凄い混んでるから歩こうよ、あやねん」
「そうだね。俺もまっちゃに賛成だわ」
「よーし。じゃあ歩いていこー」
4人で急勾配な坂を降り始める。
ここから駅までだと大体20分程度だ。軽く雑談をしていれば着いてしまう。
「それでさ、白餡金曜日の話なんだけど」
俺は沈黙に耐えきれず、本題へと突入する。
まっちゃが驚いた様子で見てきたが、構わず続ける。
「あれから大丈夫だったの?そもそもなんであんなに情緒不安定だったわけ?」
「アイス、言い方」
「あはは〜。この前はごめんねぇ。ちょっと嫌なことが積み重なっちゃって自分で抱えきれなくなっちゃっただけだよ。」
まっちゃは俺を制止しようとするが、白餡はきちんと返答を返してくれる。
「別に何か怒ってるとか、悩んでるとかじゃないし。それに、皆に何かしてもらいたいとかじゃないから大丈夫。アイスも強く当たっちゃってごめんね」
「なんだ。俺らの考えすぎか。ちょっと白餡のことめっちゃ心配しててさ」
白餡に関してはどうやら俺らの考えすぎ。杞憂であるというのが、表面上の結論のようだ。
「いやぁ申し訳ない。ほら、今日は楽しもうよ〜」
「ぶ、部長それは本当ですか?」
「ん?本当だよ?」
白餡の元気発言に対して綾鷹が疑問を呈する。
「本当に、本当に何も思い詰めてることは無いのです?」
白餡の顔は一瞬条件反射で歪むが、やはり即座に笑顔を顔に貼り、答える。
「何も無いってばぁ。みんなそんなに私の事を心配してくれてたんだね」
「そ、そう。な、ならいいんですけど」
綾鷹の質問はこれで終わる。
が、やはり綾鷹の質問に対する表情を見て確信した。白餡は何かしら今も悩み続けているのは確定だ。
とはいえ、やはり内容は教えたくないらしい。そこが分からなければどうしようも無いのだけれど。
「ほら、6月とはいえちょっと暑いし、さっさとお店に行って涼もう」
「あ、あぁ」
白餡はこれ以上詮索を入れてほしくないのだろうか。
この会を早く終わらせたいのか分からないが、駆け足になって急ぐ。
その後も会話は続いたが、白餡の回避能力は凄まじく、いつの間にやら関係ない話へと話を逸らされてしまう。
そしてそのままなんやかんやと和菓子屋さんへ到着してしまった。
「到着!田中清月堂!」
「へぇぇ。こんな所に和菓子屋さんがあったんだ」
「ね、早く中に入ろ!」
中に入ると、そこはショーケース制のお店で、目の前のショーケースの中にはたくさんの種類の和菓子が並んでいる。
「こ、これ綺麗。う、うさぎさんだ」
「私は抹茶味の饅頭がいいな」
「えっと、最中を探さないとな。みかん味なんて面白そう」
みんなが思い思いの和菓子を選んでいる。
旬の果物を取り入れたものから、王道の餡子系まで沢山だ。
「あれ、白餡は選ばないの?」
「!」
ショーケースに釘付けになっている俺らを後ろから見ているだけの白餡が気がかりになり、俺は振り向いて白餡に声をかける。
驚いた様子の白餡は一瞬顔を拭い、何も無かったかのようにテンションを取り戻す。
「お前今泣いて……」
「さーて!私は当然白餡が使われてる和菓子がいいな。このどら焼きなんて美味しそう!」
「あやねん白餡のどら焼きは志ち乃のやつが1番って言ってるじゃん」
「そりゃあ、あれしか食べたことないですからね」
今、白餡は確実に涙を流していた。俺が振り返った時に顔を拭ったのは涙を隠すためだ。
一体なぜ涙を……?俺らが和菓子を選んでいる様子に泣く要素があったか……?
「まいどありー」
「ほら、アイスも早く会計済ませちゃってよ。図書館のバルコニーで食べよ」
「あ、うん」
白餡に急かされて、ふぃー用の最中、それと自分用のお饅頭を購入し、会計を済ませる。
和菓子って意外と安いもんだ。ケーキとは違うんだな。
そして店を出たその瞬間だった。白餡の表情が一変する。
「あ、え……?」
店の目の前には黒塗りのタクシーのような高級っぽい車が路駐されていた。
運転席からスーツ姿の男の人が出てくると、白餡はたじろぐように後ずさりする。
「綾音。車に乗りなさい」
正体不明の男の人は白餡を見つけると、彼女の腕を握って車に連れ込もうとする。
俺は当然それを防ぐ。
「ちょ、ちょっと待ってくださいお兄さん。白昼堂々こんな目撃者がいる状態で誘拐とは肝が据わってますね」
「……」
俺は男を睨みつけるが、向こうもこちらを見下すように冷ややかな目を向けてくる。
そして、男ではなく白餡が口を開いた。
「大丈夫だよアイス、この人は私の父だから」
「白餡のお父さん!?」
正体不明の男はどうやら白餡のお父さんのようだ。
話には聞いていたが、威圧感がとてつもない。
近づくもの全てを覇王色の覇気で気絶させることが出来るのではないかという迫力を持つ。
そして、特徴的だと感じたのはその目だ。目がまるで人を見ているような目ではない。何か下等的な生物を見ている目。何者かを見下しているような目をしている。
こんな目に見つめられてしまうと、頭がおかしくなりそうだ。
「そういうことだ。誤解させたのは謝罪しよう。今日は綾音を引き取りに来た」
「いっ!」
「ちょっ!嫌がってるじゃないですか!」
父親は白餡の腕を固く握り締め、強引に自分の元へと引き寄せる。
白餡は痛みを感じたのか、反射的に声が漏れ出た様子だ。
「親だかなんだか知らないですけど?子供を暴力で自分の言う通りに……」
「アイス!!」
俺が男に攻撃的な姿勢を見せようとすると、白餡がそれを防ぐ。
大きな声で俺の名前を呼び、俺の言葉は途中で途切れてしまう。
「大丈夫、私は大丈夫だから……。だから、何もしないで」
「言ってる顔が大丈夫じゃねぇって……」
白餡の顔はぐしゃぐしゃだ。涙も鼻水も垂れていながら、顔は笑顔である。満面の笑みなのだ。
この顔を見てその人は大丈夫だろうと思う人など一人もいないだろう。
「話は済んだか。早く後部座席に乗れ」
「はい。お父様」
「お、おい白餡」
男は後部座席のドアを開け、白餡を無理やり車に乗せる。最後、扉が閉まる前に白餡が発した言葉を俺はギリギリ聞き取ることが出来た。
「みんな、さよな」
バタン!
『ら』の音は勢いよく閉められたスライド式のドアの音でかき消されてしまう。
そのまま間髪入ることもなく、車はエンジンを入れて走り去ってしまった。
「お、おい。なんだってんだよあれ。あれが……白餡の父親なのか?」
「そうだよアイス。分かったでしょ。あやねんはあの人に支配されてるの」
「そんな……だってあんな子供を道具として見てるような目が……」
まっちゃは軽く下を向き俯く。
彼女も今まで白餡と関わってきた中で、あの人と対立を起こしたことはあったのだろう。お揃いのキーホルダーを捨てられたとも言っていたし。
「今日はもう帰ろうか」
「あぁ、そうしよう」
本来であれば、和菓子を一緒に食べる予定だったが、そのようなことをする気力もない。
俺らはバラバラになって帰路に着くことにした。
「綾鷹は帰らないのか?」
「か、帰るよ。ただ……」
「ただ……?」
立ち尽くしたまま動こうとしない綾鷹に俺は声をかける。
「ただ、う、運命ってやっぱり、か、変わらないんだなって。か、悲しくなっただけ」
「なんだまたその話か?今日白餡が連れ去られることも分かってたってか?」
「い、いや。それは分からなかった。わ、私は知りたいことを的確に知れるわけじゃない」
「あっそ。まぁ別にいいけど」
綾鷹はまたその運命論の話を持ちかけてきた。正直、俺はその話が嫌いだ。
人が運命に縛られてるなんて、そんなことあるわけがないと思う。
「じゃあな。綾鷹も暗くなる前に帰れよ」
「う、うん。またね」
またね……か。
そういえば白餡の言葉はさよならだったなと思いつつ、使う挨拶なんて気分次第かとも思った。
しかし、次の日白餡は学校に来ることはなかった。
────────────────────────
♡
「あれは部活とやらで出来た友人かね」
「……はい」
運転席から聞こえてくる声に私は反応する。
「お前はもう忙しいんだ。一般庶民としての生活はしていられなくなる。おとなしくあの者たちとの縁は切りなさい」
「っ!しかし……」
「分かるだろう。これから先お前はお偉いさんの夫人として世界中で支えになってもらうんだ。余計なことをしている暇は無い」
「……」
『はい』という言葉の意味を広辞苑で調べたことがある。
そこには、要約すれば『質問に対する肯定の意』というようなことが書かれていた。
私がそれに新しく第2の意味を追加したい。
『はい』の意味、それは『諦め』だ。
「今日はお前に木曜日に行われるお見合いの相手を選別してもらいたい。どれも皆私の知り合いである政治家や社長の息子さんで優秀な方だ。好きな人を自由に選ぶといい」
「……はい」
自由……。そっか、私は自由に選べるのか……。それは嬉しいことだなぁ。
「早い時期に決断が出来て良かった。まだ夫の候補となる方がこんなにも沢山いるのだからな。お前も金に不自由なく、順風満帆な生活が保証されるだろう。お前は幸せ者になれる権利がある」
「ありがとうございます」
幸せになれる権利──そんなものがいつ私の元にあったことがあるのだろう。
でも、そうだ。世界には満足に最低限度の生活を営めない人だってたくさん居る。
アフリカに行けば飢えに苦しむ者がいて、日本でも生活保護を受給しながら必死にその日暮らしをする大人だっている。
もし世界が完全なヒエラルキー階級になってしまったとしても、私が今から向かうであろう人生はピラミッドの頂点に位置するのだろう。
そんな世界に生きてる中で私の悩みは本当に贅沢だ。そして、そんな事で悩んでいる自分にすら嫌気がさしてくる。
でも、もう少し、もう少しでいいから本当は──
──自由に生きてみたかった。
「そうだ。今私の鞄の中に、お見合いを希望している人達の情報が記載されたファイルが入っている。家に着くまでの間、眺めていると良い」
「分かりました」
私は漆黒の鞄の中から無地のファイルを取りだし、適当な所からパラパラとめくり始める。
大手銀行の社長息子──現官僚の息子──名誉医師の息子──親の職業は様々、国を動かす人達の集まりだ。年収も数億はくだらないのだろう。
だが、それがどうしたというのだ。親が素晴らしかったら息子も素晴らしいというのか。そんなわけが無いだろう。
現に私だって優秀な父親の『失敗作』としてこの世界に産み落とされたのだ。
このリストにある人間は皆、容姿が悪いという訳では無い。小さい頃から私のようにマナーにはうるさく育てられてきたのだろう、清潔感は満点とも言える解答を叩き出している。
じゃあ、果たしてこの人達と結婚して、楽しい結婚生活は送れるというのだろうか?
アイスにやってるみたいに冗談を言い合ったり、軽口を言って笑い合う関係になれるのだろうか。
「……って、なんでここでアイスが出てくるんだよ」
私は相当参ってしまっているようだ。何でこの一例として出てくるのがあいつなんだよ。
私はふと、ファイルを1度閉じ、最初のページからめくり始める。
「木部……周防……五月雨……」
中身は何も見ていない。顔写真も見ていない。ただ、ファイルに記載されている名字を確認しては次のページを開くという作業。
もし、この世界が物語なら。少女が皆憧れる昔話なら。
このファイルには一縷の希望があるはずなのだ。
私はその希望を求め、ファイルをめくり続ける。
「峯岸……羽生……七五三……あっ」
だが、その希望虚しく、七五三という名字を確認したあと私の視界に飛び込んできたのはファイルの裏表紙。真っ黒なプラスチックの素材だ。
「ははっ、そうだよな」
私に王子様は存在しない。そしてこの前分かったはずじゃないか───
───王子様が存在したとしても、私は姫じゃない。
────────────────────────
水曜日。今日も白餡は学校に来なかった。
「ったく、明日誕生日だってのに。まだ何やるかすら決めてねぇよ」
白餡の誕生日会をやろうと決起したのは良いものの、結局いろんなことがあったせいで何も形にはなっていない。
これならいっそけいちゃんに任せておいた方が良かったのだろうか。
「いやいや、けいちゃんに迷惑はかけられない。──それにしても凄い雨だな」
時期は梅雨だ。雨の頻度が多いため、最近の綾鷹には毎朝天気予報を送って貰っている。
今日も午後から急に土砂降りの雨が降ってきたが、綾鷹はきちんと当てている。降り始める時間まで当てているのが本当に怖い。天気予報では降水確率30%だったと言うのに。
「部活、行くか」
白餡が居なくても別に化学室は開く。
放課後このままぼーっとしているのも微妙だし、誰かいることを求め、化学室へ向かうことにした。
歩きながら、月曜の放課後のことについて思いをめぐらせる。
あの時点ではただの仮説でしか無かったが、やはり白餡が抱えている問題は家族関係のことで間違いなさそうだ。
そして、まっちゃの言う通り、進路調査に関することで決め打ちしても間違いないだろう。
本当はこの問題は誕生日までに解決しておきたかったのだが。
そんなことを考えていると、化学室に着いたので、戸を開ける。
「お、綾鷹1人か。珍しいな」
「お、おつかれアイス」
化学室にいたのは綾鷹1人だけだった。
そもそもこの化学部は特になにか決まった活動はなく、ただ駄べるためだけの部活だ。
基本的に集まる際は誰かを誘うことが多い。ひとりで化学室に存在するのは稀だ。
それに、綾鷹は実験器具をお湯沸かしのためだけでなく、何かしらの実験をきちんとするために使っていた。
「綾鷹何やってんだ?それ」
「そ、そのうち分かるよ」
そういうと、綾鷹は何かを調合し終えたコニカルビーカーを別のテーブルの上に置き、保護メガネを外す。向かいに座れということなのだろう。
「いや片付けろよその実験器具」
「あ、あとで。それより、来たんだここ」
「ん、あぁ。暇だったし。誰か居たらいいかなって思ったんだけど、まさか綾鷹1人とはな」
「わ、私1人じゃ不満か」
「いや別にそういう訳じゃ無いけど」
お互いに話すことがなくなり黙る。ほら気まずい。
俺はいつも話題を提供する側ではないし、綾鷹も特段自分から話したいとは思っていないタイプだ。
その2人が集まったところで会話を続けろという方が難しい。
綾鷹はなんかもうバッグから文庫本を取りだして読み始めちゃったし。
と思うと、文庫本を片手で開いて持ち、読みながら綾鷹はこちらに語り掛けてきた。
「あ、アイスは行かなくていいのか。ぶ、部長の所」
「ん、あぁ白餡?こいつ今日も休みでさ。これで2日連続よ」
「そ、そう」
綾鷹は黙る。なんなんだもう!綾鷹は綾鷹で思っていることが分かりにくいから会話が繋げづらい!
「あ、アイスは私を、し、信じるか」
「信じるか信じないかでいえば信じるけど。今日だって綾鷹を信じたから猛烈な雨に備えて傘を持ってきたわけだし。でも、こんなに風も強かったら傘の意味ないかもだけどね」
「そ、そう」
再び黙る綾鷹。だが、その顔は確かに何かを言いたげにはしていた。
すると決心したように本から視線を外し、綾鷹はこちらを向いてきた。
それと同時に、コニカルビーカーの中の透明な液体が真っ黒な液体へと変化する。ヨウ素時計反応だったか。
「あ、アイス」
「どうしたってんだよ」
言うのか言わないのかはっきりしないような様子の綾鷹にじれったくなってしまい、俺は綾鷹を急かすようになってしまう。
そして、彼女はようやく重い口を開いた。
「き、今日、部長は自殺する」
化学室の中の空気が凍る。
今、こいつはなんて言った……?情報を飲み込むのに時間がかかる。
「冗談にしてはさすがに笑えないが 」
「じ、冗談でこんなこと言わない」
「じゃあ本当だってのか!?」
俺は声を荒らげる。綾鷹を少し驚かせてしまうことにはなっただろうが、そんなことを気にする余裕は無い。
「う、うん」
「それも、お前がよく言う運命ってやつなのか」
「そ、そう」
「今までお前が言ってるその予報が外れた確率は」
「0%、だって決まった運命が伝えられているだけだもん。アイスだって、私の天気予報信じてるでしょ?」
「それはいつから分かった」
「土曜日、あの活動の後から」
俺は頭を抱える。何が起きているのかも分からない。どうすればいいのかも分からない。
ただ混乱している。これが本当の情報なのかも分からない。
だから、おそらく感情任せの俺のこの返しも間違っている。
「なんでもっと早く言わなかった!!」
「言ってどうするの?何回も言ってるでしょ、運命は変わらないの。例え部長さんに明日あなたは自殺するよと伝えたって、部長さんが自殺する運命は変わらない。」
「そんなの分かるわけ……」
「ロックの予定説は知っているでしょう?全ての出来事は人の意思でさえこの世界の思うように『予定』されているの。人は誰一人としてそれに逆らうことは出来ない。ね、ずっと私の天気予報を信じてたんだから分かるでしょ?それに、ただ運が良いだけで、サイコロの出目を30回以上連続で当てられるわけないじゃない」
「お、お前……」
綾鷹はいつもこの考えに取り憑かれている。人は運命には逆らえないのだと。
確かに間違ってはいないのかもしれない。人はミスをした時、成功をした時、どちらも運命と言って片付けることが出来るだろう。
ただし、悪いことが起きると知っているのであれば、それが運命だとしても、抗い続けるのが人間だ。
「この一週間で俺はお前を嫌いになった」
「な、なるほど。こういう流れで嫌われるわけか」
「チッ!」
俺に嫌われることも分かっていたかのような口ぶりが更に俺のイライラを助長させる。
だが、ここで口論していても仕方ない。
もし仮にこいつの言っていることが本当なのだとしたら、俺が取るべき行動はただ一つだ。
「じゃあな!」
「変えられるといいね。運命」
俺は即座に荷物をまとめて化学室を後にする。
雨が降っていようと関係ない。傘を差していたら走るのに不都合だ。
俺は駅まで全速力でダッシュをする。
7章 父親は終わってる
の更新は翌日となりそうです。お待ちください。
コメント、レビュー、評価、等して頂けると励みになります。よろしくお願いいたします。