プロローグ
難しいことが書いてあります。読み飛ばして頂いても本編は楽しめます。
人間は誰しも「仮面」を被っている。
「仮面」とは人類文化に普遍的に見られるものでは決してない。しかし、地域と時代を問わず、「異界」の存在を表現するものとして、今日まで伝わってきた文化であることには違いない。
異界の力に対する人々の憧憬、異界からの来訪者への期待を胸に、人々は「仮面」を利用してきた。
何故人々は「仮面」を被るのか。ある哲学者は「人の存在にとっての顔の核心的意義」を指摘することによってこの疑問を解消したらしい。
難しい話をする必要は無い。人間は皆「自分の顔を見ることが出来ない」という点に少なからず、不安感を覚えているはずだと言うのがこの人の提説だ。
「顔」とは特定の人物を表象する際において、必要不可欠な要素に違いない。ある者が他者を認識する際はその要としてまずは顔から情報を得るだろう。「この人悪そう……」「この人は優しそう……」という感想は、少なくとも「顔」を見た上での第一印象であるはずだ。
しかし、ある哲学者の指摘の通り、自分の「顔」を自分自身は見ることが出来ない。他の体の部分であれば鏡を通さず見ることができるのに、自分の「顔」だけは、鏡を通さないと見ることが出来ない。
もっと言えば、自分の目をつぶっている「顔」なんてものは、写真や映像を介さないと見ることが出来ない。ハードルが高いものだ。
私の人格の座であるはずの「顔」が私にとって最も不可知な部分として、終生、私に付きまとうことになる。この事実に人々が不安を覚えるのも不思議な話ではないだろう。
そんな時、「仮面」は他者と私との間の新たな境界となる。今まで「顔」が担っていたその境界としての役割を「仮面」が交代することにより、他者の自分の認識を「自分の目で確かめることが出来る」。
「仮面を被ると、それまでの自分とは違った自分になったような気がする」という人々が漏らす感想も、表面的なものではなく、「自分が初めて固定」されたことによって得られる感想に他ならないのだ。
さて、ここまではとある本の内容を要約したものである。
この本においては「仮面」と「憑依」は異なるものとして認識されていた。「仮面」は実際に自分の顔を覆い尽くすことに意味があるのだという。
しかし、現代社会においてそれは本当にそうだろうか。
現代社会を生きる人間は自分を偽り、本当の自分を隠しながら生きている。加工アプリ、SNSの裏垢、生きていく上での建前。
こういった、「本当の自分」を偽り、自分でも認識できる「仮の自分」を自らの意思で作り上げ、その「仮の自分」に無意識中になりきり、それを演じ切る。これは今の現代社会を生きる高校生が常日頃行っている「憑依」に過ぎない。
これは「仮面」を被っていることと何が違うのだろうか。
要するに今の若者は皆、「仮面」を必死に被り、「本当の自分」を認識されることがないよう願っている。
なぜ?
──本当の自分を認識されるのが怖いから?
──いじめられたくないから?
一元的な答えは出せないだろう。
ただ、世界はこんなにも「仮面」で溢れていると。知っていただきたい。
引用:吉田憲司「仮面と身体」より、一部抜粋。