紅羽と朱鷺②
水田を抜け、ひらけた岩場へと進むと、空気に微かな違和感が漂っていることに気づいた。
紅羽は足を止め、静かに目を閉じる。
肌を撫でる風の流れがどこかぎこちない。
まるで、空間に張られた薄い膜が剥がれかけているような、不安定な気配——。
「……やっぱり。」
微かな息とともに、紅羽は鋭い視線を周囲へと走らせた。
彼女の目には、普通の人間には見えない力の揺らぎがはっきりと映る。
隣で朱鷺が心配そうに覗き込んだ。
「紅羽様、どうしました?」
「結界が……薄くなってる。」
その声には、隠しきれない緊張が滲んでいた。村を守る結界の一部が、確実に弱っている。
岩場には小さな石妖たちが住んでいる。しかし、彼らの動きだけで結界が壊れるほど脆いはずがない。
それなのに、確かに結界の力は失われつつある——。
紅羽は深く息を吸い、両手をゆっくりとかざした。
指先に意識を集中させると、わずかに温かな光が灯る。
「……今から修復する。少し離れてて。」
「はいっ!」
朱鷺は素直に後ろへ下がり、じっと紅羽を見守る。
この結界は、天穹院の祖先が祭神の力を借りて貼ったものだ。
強力な妖怪が村へ入り込むことを防ぎ、人間と妖怪が共存するための境界線として機能している。
しかし、結界が弱まれば、その均衡が崩れる危険性があった。
紅羽は目を閉じ、全身の力を込めた。
空気が張り詰め、冷たい風が頬をかすめる。
結界の裂け目を感じ取りながら、そこへ己の力を流し込んでいく。
——ギリギリと、内側から締め付けられるような感覚。
額に汗が滲む。呼吸が乱れる。それでも、力を緩めるわけにはいかない。
「……っ!」
その瞬間、光が結界全体に広がり、綻びが静かに閉じられていった。
じわりと光が広がり、結界の歪みがゆっくりと修復されていく。
周囲の気配が落ち着きを取り戻し、冷たい風がゆるやかに流れる。
「……できた。」
しかし、その過程は思った以上に遅かった。
以前なら、こんな小さな綻びならすぐに直せた。それが今では、ひどく時間がかかる。
「すごいです!紅羽様!」
紅羽が力を抜くと、どっと汗が噴き出した。
膝が崩れそうになるのを必死にこらえ、深く息を吐く。
朱鷺がぱっと顔を輝かせ、嬉しそうに飛び跳ねた。
「やっぱり紅羽様はすごいです!これでしばらくは大丈夫ですね!」
その言葉に、紅羽は微笑もうとした。しかし、その笑みはどこかぎこちない。
——本当に、大丈夫だろうか?
朱鷺の無邪気な喜びとは裏腹に、紅羽の胸には焦燥が募っていく。
(結界の力は、年々衰えている。このままじゃ、いつか——。)
紅羽の力では、これはただの応急処置にすぎない。
どれほど手を尽くしても、根本的な解決にはならないのだ。
(私の力がどこまで持つか……わからない。でも——。)
紅羽は拳をぎゅっと握りしめ、静かに息を整えた。
(それでも、できる限りのことをするしかない。)
それが、天穹院の者としての役目なのだから。
「……さ、戻ろうか。」
「はいっ!」
朱鷺は満面の笑みを浮かべ、紅羽の手を引いた。
その手の温もりが、少しだけ彼女の疲れた心を癒した。