裏切りの巫女④
紅羽は、自分を包む白い光が静かに揺らめきながら進むのを感じていた。
風を切る音だけが耳に響き、視界には闇と揺れる光の影が広がる。
やがて、足元にひんやりとした感覚が戻り、紅羽の体がそっと地面に降ろされた。
「……ここは?」
周囲を見回すと、そこは深い山の奥だった。
高くそびえる木々が月明かりを遮り、わずかに漏れる光が足元をぼんやりと照らしている。
遠くから風が吹き抜け、木々の葉を揺らす音が静寂の中に響いていた。
先ほどまでの炎の轟音や村の喧騒は、まるで夢の中の出来事だったかのように思えた。
(北の山の中だ。)
紅羽が息を整え、辺りを見回していると、彼女の前で白い光が集まり始めた。
その光は空中に渦を巻き、やがて一つの形を成していく。
まばゆい光が薄れ、やがて現れたのは、この世のものとは思えない美しさを持つ青年だった。
長く流れるような銀色の髪は、月の光を反射している。
その肌は磁器のように白く、琥珀色の瞳が紅羽を観察するように見据えていた。
威厳に満ちたその姿に、紅羽は息を呑んだ。
(この人は…?)
彼の周りには、わずかに白い靄のようなものが漂い、足元から立ち上る煙のように見えた。
まるで彼自身が、この世と異界の境目に立っているかのようだった。
「お前が……天穹院の末の者か。」
青年は紅羽をその目に留め、低い声で告げた。
感情の欠片も宿っていない、まるで石像が話しているかのような声だった。
「あなたは誰なの?…もしかして、私を助けてくれたの?」
紅羽は震える声で問いかけた。
その場から立ち上がろうとするが、足がまだ言うことを聞かない。
「私は村に戻らなきゃいけないの。家族を助けなきゃ!」
紅羽は必死に訴えた。しかし、青年はその言葉にも、まるで異質な生き物を観察するかのように、わずかに首を傾げるのみだった。
「お前の父と母はもう助からん。あの屋敷は炎に飲み込まれ、今さら戻っても骨の欠片しか残っておるまい。」
その言葉は、紅羽に真実を突きつけるかのようだった。
紅羽の心情など考慮する様子はみじんもない。慰めも同情も含まれていない声だった。
「そんな…。」
紅羽の体は小さく震え、それまで堪えていた悲しみが一気に押し寄せて来る。
何も考えられない。心の奥で何かが崩れ落ちるような感覚に襲われた。
青年は眉を動かし、ただ冷静に紅羽を見つめる。
「お前のお気に入りの小鬼も、あの巫女にどうされていることか。それに俺はお前を助けたわけではない。」
言葉の意味を理解する前に、青年は紅羽の顔のすぐ近くに迫った。
唇が僅かに開き、細い牙のようなものが一瞬だけ見える。
「お前もこの場で殺してやろう。一人生き残るよりも、家族と共にあった方が良いに違いない。」
その言葉に、紅羽の心臓が一瞬止まったように感じた。
身体の芯から冷えていく。頭の中が真っ白になり、呼吸が止まりそうになる。
しかし————
『紅羽様!』
紅羽は目を閉じ、一瞬だけ深く息を吸い込んだ。
愛しい朱鷺の笑顔を思い出す。パッとまるで花が咲くような笑顔だ。
(朱鷺…。)
家族を失った悲しみが彼女を押しつぶしそうになるが、最後に残った希望を手放すことはできない。
その絶望の淵で、彼女の心に何かが灯った。
涙が頬を伝い落ちるのを感じながらも、紅羽は再び瞳を開いて青年を見据えた。
その瞳には、もはや恐怖はなく、強い決意が浮かんでいた。
「私の命が欲しいのなら、いくらでも差し上げます!」
青年の眉が僅かに上がった。無機質な顔に、初めて驚きの色が浮かぶ。
「でも、せめて朱鷺だけでも助けたい!私の大切な家族なのです!」
紅羽の言葉が山の深い静寂の中に響き渡った。
「そのためなら、この命がどうなってもいい!」
紅羽は冷たい夜風に吹かれながらも、一歩も引くことなく続けた。
その言葉に、青年の瞳がわずかに輝くように見えた。
「家族、と申すか?あの何の力のもない小鬼を…」
青年はじっと彼女を見つめた。その琥珀色の瞳は、紅羽の顔をじっと観察するかのように揺れている。
その表情からは何も読み取れない。風だけが二人の間を通り過ぎていく。
青年の長い睫毛が瞬きひとつせず、まるで時が止まったかのようだった。
やがて、青年は僅かに身を引き、深い溜息をついた。
しかし、何かが変化したように、紅羽には感じられた。
「気が変わった。お前の仇討ちを手伝ってやる。」
彼はその冷たい声を少しだけ和らげた。その言葉に、紅羽は目を見開く。
紅羽は不思議と緊張が解けたような気がした。肩の力が抜け、呼吸が楽になる。
「我が名は白耀。その名を告げよ。天穹院の娘。」
青年が有無を言わさぬ口調で重く告げた。
しかし、その言葉に紅羽はギョッとする。
「まさか…。」
白耀—その名前は、村で祀られている祭神の名前と同じだ。
天穹院家が何世代にもわたって敬い、加護を求めてきた存在。
まさか目の前の青年が———
「何を驚くことがある。俺をあの場に留めたのはお前の先祖だろう。」
紅羽は言葉を失くし、呆然と目の前の男を見つめた。
頭の中で様々な考えが衝突し、理解しようとする思考と、理解を拒もうとする本能が戦っている。
しかし、驚きと疑念が入り混じる中、紅羽は確信した。
目の前の男の正体は祭神そのものなのだ。
「私は天穹院紅羽と申します…。」
紅羽はゆっくりとその場に跪いた。
「祭神様とは知らず…ご無礼を…」
額を土につけようと、頭を下げる。
しかし、その時———
「祭神などと呼ぶな。」
白耀は美しい顔を歪めて、心底嫌そうな顔をした。
その声には苛立ちと何か苦々しいものが混ざっている。
「お前の一族とは契約を交わしている。俺を敬う必要はない。」
紅羽はゆっくりと顔を上げる。
そう言いつつも、威圧するような青年の雰囲気は変わらない。
「天穹院紅羽。お前の覚悟、俺が見届けてやる。」
この青年の前では、どんな虚飾も意味をなさないような気がした。
まるで全てを見通されているかのように。




