長江、二度目の別れ
わたしは高熱を出し、うなされていたらしい。
生死の境をさまよいながら夢を見た。
長江を見下ろす丘の上でわたしは尚香を待っている。人目を気にしながら、見つかりはしないかとわずかな風の音にもおびえながら。そこへ彼女が飛び込んでくる。鳶色の瞳を生き生きと瞳を輝かせて。
「月英!」
両腕をひろげ、わたしは彼女を迎え入れる。その手が、何か大きなものを抱えている。ずっしりと重く、濡れている。
首だ。
男の首。今切られたばかりの断面から鮮血が滴り落ちている。
「持ってきたよ。結婚相手の首」
輝くばかりの笑顔で告げる尚香。
「これで一緒にいられる。ずっと一緒だよ」
首は、劉備殿。
暗転。今度は諸葛亮がいた。わたしに背を向け、長身をかがめて何かに取りすがっている。これ以上ないほど悲痛な嘆きの声が満ちる。死を悼む慟哭。劉備殿の亡骸を抱えているのだ。亡骸には首がない。首は尚香が持ち去ったから。諸葛亮の慟哭は深山幽谷を裂き、聞く者すべてのはらわたを裂いて響き渡る。
――身勝手な恋の末路を見ろ。
浅い眠りは絶えまなくわたしに悪夢を見せる。出口の見えない迷路のように。早く覚めたいのに目覚めない。否、本当は覚めたくないのかもしれない。覚めたら現実と向き合わなくてはならないから。
気がつくと、わたしは誰かに手を引かれてけもの道を急いでいた。雑に結われた髪と風采の上がらない後姿は、龐統のものである。小枝や下草が肌を傷つける。逃げているのだ……何から?
突然龐統は立ち止まり、隻眼でわたしの目をじっと見つめた。
「お前の隣にいるのは、俺ではいけない」
ふわり、と龐統は微笑んだ。泣いているのかと思ったほど、悲しそうな笑顔だった。龐統のこんな顔は見たことがなかった。
思わず頬に触れようとした時、忽然と、龐統は消えた。
「……!」
声にならない声を上げると同時に、夢は醒めた。
誰かが手を握っていた。長い指をした大きな手の感触に覚えがある。ほのかに漂う墨の匂い。
「ああ、月英。私が分かりますか」
目の前に、少しやつれた顔色の諸葛亮がいた。
一瞬どこにいるのか分からなかった。長い悪夢を見すぎて、どこまでが夢か分からない。甘露寺に行ったことも、尚香に会ったことも、すべて夢だった気がする。だがそんなはずはない。
付き添っていたのが尚香でも龐統でも九娘でもなく、諸葛亮だということにわたしは戸惑った。
「よかった。熱は下がっても意識がずっと戻らないので、心配しました」
諸葛亮の言葉の背後で、がしゃん、と何かを取り落とす音がした。
九娘だった。九娘は薬湯の盆を放り出し、飛びつくようにわたしに抱きついてきた。化粧気のないきりりとした顔がみるみる崩れていく。九娘が子供のように泣くのをわたしは初めて見た。九娘でも泣くのだ。声は出なくとも。
九娘からは濃い薬湯の匂いがした。目の下には黒い隈がこびりついている。幾夜もの間、夜通し看病してくれたのだろう。わたしは彼女を抱きしめた。九娘には負担ばかりかけている。
「なぜ孔明さまがここに」
「士元が知らせてきました。お前がここにいるべきだ、と」
苦虫を噛み潰したような、幼馴染の顔が浮かんだ。士元はどんな気持ちで諸葛亮を呼んだのだろう。すべて話してしまったのだろうか。わたしの思考を読んだかのように、諸葛亮が言った。
「士元はいませんよ。襄陽です。婚礼があるので」
「婚礼?誰の」
「もちろん士元の。あまり気乗りしない様子でしたが…月英は聞いていないのですか?」
初耳だった。
自身の婚姻のことを、龐統は何も言っていなかった。何も言わず去った。彼らしいと言えるのかもしれない。龐統の夢を見た気がするが思い出せなかった。
わたしはゆっくりと身を起こした。
まだ倦怠感が強く、汗ばんだ体に黴臭い寝具が重くのしかかる。無理に起きると、ゆらゆらと揺れている感じがした。眩暈のせいかと思ったがそうではなかった。
「揺れるでしょう。舟の中です」
「舟……」
「貴女が目覚めないので、黄家で療養するため帰るところでした」
甘露寺の華やいだ光景が浮かんだ。倒れてしまったから尚香がどうしているのか分からない。熱が見せた悪夢が気にかかる。無性に彼女の消息が知りたかった。
「ずっとうわごとを言っていました。尚香、と」
思わず顔色を変えたわたしに、諸葛亮は一通の文を差し出した。
「九娘が持っていました。貴女宛てです」
その言葉を聞いた途端、九娘は弾かれたようにわたしから離れた。
彼女がなぜわたし宛ての文を持っていたのだろう。今までわたしの私物に手を触れることはなかったのに……胸騒ぎがした。
一読し、わたしは文字通り崩れ落ちた。
文は、尚香からだった。
(この場所に来て。月英。一緒に逃げて)
場所は船着き場。書かれた日付はとうに過ぎていた。
目を上げると、九娘は目を伏せている。意図的に文を隠したのだと悟った。
「孫夫人とごく親しい仲だったのですね、月英」
諸葛亮が穏やかに問いかける。孫夫人、という呼び方はわたしを更に打ちのめした。
「尚香は、今どこに」
「いろいろありましたが…正式に婚礼を挙げました。孫夫人は劉備殿について行き、もう呉にはいません」
今の今まで、縁談が罠であってほしいと願っていた。この言葉を聞くまで、一縷の望みをかけていた。でも婚姻は成立したのだ。本当に。
否、最初は罠だったかもしれない。少なくとも尚香に本気で嫁ぐつもりはなかった。でなければわたしにあんな文は書かない。
わたしが行かなかったから。熱なんか出して、夢に逃げ込んで、尚香に応えなかったから。だから尚香は劉備殿に。
――わたしのせいだ。
身を焼くような後悔の波が押し寄せてきた。堪らずわたしは小さな叫び声をあげた。
不意に諸葛亮は長い腕を伸ばし、わたしを抱き寄せた。
骨ばった体は前より痩せたようだった。彼も苦悩したのだと思い至った。
劉備殿の婚姻は、殿に想いを寄せる諸葛亮にも望ましいものではない。頭では理解していても、婚姻という事実は重い。理屈ではない。彼が呉に来たのは、婚姻などせず同盟だけ成立させる策を探るためだったのかもしれない。しかし諸葛亮の切なる願いも、劉備殿の意志の前では無力だ。
甘露寺で尚香の姿を見たとき、わたしは見てしまったのだ。
尚香を見た時の劉備殿の目。策を弄する武人の目ではなかった。不安定さを残す尚香を包み込むような、優しい目だった。あの時劉備殿は、尚香を娶ると決めたのだろう。
そして心に傷を負った尚香は、あの包容力に抗えなかった……
わたしは諸葛亮の首筋に顔を押し付けた。
「わたしは、尚香と去るつもりだったの」
言ってしまってから、言うべきではなかったと後悔した。しかし諸葛亮は静かに微笑んだ。
「貴女の想い、私にも分かります。私も、殿に会いに来なければよかったと思いましたから」
責める気配はなかった。むしろ痛ましい色を帯びていた。彼も何かを見て傷ついたのかもしれない。会いに来なければよかったと思うような何かを。
道ならぬ想いを抱える者のみが持つ連帯感のようなものが共鳴する。張りつめていたものがゆるゆると解けていく。
「わたしを…許してくれるんですか」
「許されるかどうかは問題じゃない。貴女は何に許されたいんですか。私ですか。世間ですか」
はっとした。そうだ。わたしは許されたいわけじゃない。そんなことは問題じゃない。世間など捨ててもいいと思っていたはずだ。
この人は、なぜ、わたしのことをこんなに分かってくれるのだろう。奇跡のように。
「まだわたしと夫婦でいてくれるのですか」
「私たちは夫婦です。ずっと」
諸葛亮の腕に力がこもった。
「夫婦の形もいろいろある」
静かに頬を涙が流れた。冷たい涙だった。
「私たちは、いい夫婦になれるはず」
流れる涙に溺れて死んでしまいそうだった。諸葛亮の前では心を偽る必要もない。初めて、諸葛亮が夫でよかったと心の底から思った。
恋よりも愛よりももっと重い、共犯者の絆が、わたしたちを強く結びつけるだろうと思った。
舟が船着き場に近づくにつれ、わたしは胸に重苦しさを感じるようになった。
これからは、劉備殿の夫人として尚香を見なければならない。諸葛亮が劉備殿のそば近くにいる限り、妻であるわたしが夫人と接する機会も増える。耐えられるだろうか。人妻となった尚香を間近で見て,、平静でいられるだろうか。
「貴女の気が進まないなら、襄陽に残っても構いません。どうしますか?」
諸葛亮はわたしの動揺を見抜いている。乱れた気持ちのまま同行するより、実家にとどまり心の傷が癒えるのを待つ方がいいのかもしれない。黄家の父はわたしに甘いから、戻れば歓迎してくれるだろう。でも。
わたしはまた、からくりばかり作る日々に戻るのか。
貂蝉さまの時と同じく、喪った日々を想いながら。物言わぬからくりだけを相手に。
でも尚香は貂蝉さまとは違う。尚香は生きている。
「いいえ」
わたしは諸葛亮の手を取った。
「一緒に行きます。孔明さま」
劉備殿の妻となった尚香を間近で見続ける。それは生木を裂かれる苦しみだろう。劉備殿に愛され、子を孕むであろう彼女を見なければならない。尚香の産んだ子に仕えることになるかもしれない。でも。
どんな形でも、尚香のそばにいたい。
何故なら、尚香は生きているから。
舟が大きく揺れ、目的地に到着したことを告げた。