再び甘露寺へ
「甘露寺?」
思わずわたしは呟いた。尚香との思い出の地ではないか。尚香はそこで結婚するというのか。あまりに裏切り行為ではないか。
「周瑜殿、月英を連れていくとはどういうことです」
龐統が低い声で問うた。わたしは知っている。彼が憤りを溜め込んでいる時に出す声だ。周瑜殿には伝わらなかったようだ。にこやかな返事が返ってきた。
「黄月英さまは尚香と知り合いなのだろう。会いたいなら会わせて差し上げようじゃないか」
しかし、そのあと周瑜殿が小声で付け加えるのを、わたしは聞き逃さなかった。
「機密を知られてしまったわけだし」
一瞬だったが、氷のような冷徹さを感じた。
わたしははっとした。周瑜殿は今、機密と言った。尚香の縁談は機密、つまり謀略なのではないか。
周瑜殿の申し出は親切に見えてそうではない。これは人質の意味合いを持っている。必要とあらば、この人は躊躇なくわたしを殺すだろう。
さっきまで縁談を受けた尚香に憤りを感じていたが、そういうことではなさそうだ。わたしはようやく息をついた。今度は尚香が心配になってきた。
龐統も隻眼でじろりと周瑜殿を睨んだ。空気に緊張感が走った。
「月英に何かあったら、黄承彦さまが黙っていませんよ」
「はは、怒るなよ。襄陽の黄氏を怒らせる気はない」
周瑜殿は龐統の眼光にひるんだ様子もなく、闊達に言った。龐統が陰なら周瑜殿は陽だ。陽の気は陰の気を圧倒する。龐統はもごもごと口を動かしたが黙ってしまった。こういう時に口下手になるのが彼の悪い癖だ。おかげで才能の割に損をしている。
龐統を黙らせた周瑜殿はわたしに向き直った。
「挨拶が遅れてすまない、黄月英さま。私は周公瑾だ」
「お初にお目にかかります」
礼をすると、周瑜殿の視線が興味深そうにわたしの髪に注がれた。
「諸葛殿どのの妻女は個性的だと聞いていたが、なるほど。異国の血が入っているのかな」
胸の内がかっと熱くなった。触れられたくない話題だ。わたしが答えずにいると、周瑜殿は言った。
「尚香が君に会いたがっているんだ。来てもらえるか」
その言葉はわたしの全身の血を沸き立たせた。
何が待っているか分からないが、甘露寺に行けば尚香に会える。
「行きます。連れて行ってください」
周瑜殿は満足そうに頷いた。
「ではよろしく頼むよ、龐士元」
龐統が苦虫を噛み潰したような顔になった。
周瑜殿が衣を翻して颯爽と出て行くと、龐統が盛大にため息をつくのが聞こえた。
「…お前というやつは。危険だと分かっているのか?」
「もちろんよ」
「足が震えているぞ」
言われて初めてわたしは自分の体ががくがくと震えていることに気付いた。周瑜殿に圧倒されていたのだ。わたしは卓に手をついた。がちゃん、と茶碗が落ちた。
「お前を巻き込みたくはなかったんだが」
髪を掻きむしり、龐統はもう一度長いため息をついた。尚香が結婚すると言えばわたしが諦めて帰ると思ったのだろう。彼なりの優しさだったのか。でももう遅い。
龐統はふらりと外へ出ていき、その日はもう戻らなかった。
数日襄陽府に留め置かれたのち、わたしは船に乗せられた。
父に会うこともかなわなかった。九娘に文を届けさせるのが精いっぱいだった。周瑜殿の監視の厳重さには恐れ入る。みな心配していないといいのだけれど。
わたしは波立つ水面を見つめた。
長江の流れに身をゆだねていると、赤壁での日々が蘇る。再び甘露寺へ赴くとは思わなかった。
もう龐統は何も言わなかった。怒っているのかもしれない。あるいは呆れているのか。むっつりと腕を組んで黙っているだけだ。
尚香は何に巻き込まれているのだろう。甘露寺で何があるのだろう。考えることはたくさんあったが、心地よい揺れは眠気を誘う。いつのまにかわたしは眠りについていた。
到着は夜になった。
下船と同時に尚香の侍女だという娘が現れ、わたしは馬車に乗せられた。路地をいくつも曲がった先に小さな屋敷があった。護衛の兵士の姿が見える。貴人が宿泊している証拠だ。
侍女に手を引かれて奥に進む。人払いがされているのか廊下は無人で静まり返り、誰ともすれ違わなかった。
一番奥の小部屋に導かれ、戸を開けると、かぐわしい何かが勢いよく抱きついてきた。
「月英!」
きらびやかな衣装を身につけ、念入りに化粧を施されたその顔は、まぎれもなく尚香のものだった。
「会いたかった。あんな別れ方をして、ごめん」
若鹿のような体がぎゅっと縋りついてきた。小刻みに震えている。わたしは彼女を強く抱きしめた。
「わたしもよ」
「本当に来てくれたんだね。信じられない」
「周瑜どのから、貴女が会いたがっていると聞いたから」
「小喬嫂さんが伝えてくれたんだな。よかった」
小喬とは大喬の妹の名だ。周瑜殿の妻でもある。確かに大喬に意見できるのは小喬だけだろう。
「あれからどうしていたの?」
「最悪」
尚香は涙で濡れた顔をそむけた。
「大喬嫂さんの束縛はひどくなる一方だし、息が詰まって死にそうだった。大臣たちはあたしを政治に利用するだけ。この縁談は罠だよ。誰も本気じゃない。茶番だ」
うんざりしたような顔で豪華な衣装を見やり、尚香は大きくため息をついた。
「一緒に生きようって言ってくれただろ。嬉しかった。そんなこと言ってくれたの、月英が初めてだったんだ」
鳶色の瞳はきらきらして眩しいほどだった。ああ、この色。わたしに色彩が戻っていた。わたしの色は、尚香が与えてくれるのだ。
「月英に会わなければ、こんな気持ち、知らずにすんだのに」
不意に鳶色の瞳から大粒の涙がこぼれ落ちた。涙はみるみるうちにあふれ出し、尚香の頬を濡らしていった。
「ねえ、一緒に逃げてよ」
くらくらした。そんなにまっすぐ見つめないで。尚香の瞳は熱くて鋭くて刃のよう。
「ここから出たい。大喬嫂さんからも、縁談からも逃げたい。月英と一緒にいたい」
追い詰められたような、かぼそい声が耳を打つ。なんて甘美な誘い。
この言葉を聞くために、今まで生きてきたような気さえする。
しかしわたしが何か言う前に尚香は顔を曇らせ、わたしから手を離した。
「ごめん。嘘だよ。月英を困らせるつもりはないんだ」
胸が痛くなるほど寂しそうな顔だった。
「最後に会いたかった。それだけ。多くを望んじゃいけない」
尚香は分かっている。自分の立場を。運命を。逃げても孫権の妹である限り、彼女は確実に連れ戻される。逃げおおせることなどできはしない。
たった十六歳の少女の肩にのしかかるには、あまりにも重すぎる宿命だ。本当に方法はないのか。尚香を解放し、共に生きる道は。
わたしの目からも涙があふれた。何もしてあげられないのなら、わたしは何のためにここまで来たのだろう。わたしは尚香の手を固く握った。この広大な大地で、たった女二人、寄り添って生きることすらできないなんて。…否。
「ひとつだけ、方法があるわ」
尚香が最も忌み嫌っていた方法。でも、これ以外に尚香が呉の軛から逃れるすべがあるとは思えない。
「結婚相手を殺して逃げるの」
鳶色の瞳が見開かれた。
すぐにわたしは後悔した。こんなことを言うべきではなかった。尚香の唇が何かを言おうと動いた。その時。
「おい、誰かいるのか」
不意にばたばたと足音が聞こえ、扉が開かれた。わたしは心臓が止まりそうになった。護衛の兵士が、話し声を聞きつけてやってきたのだ。
立ちすくむわたしの手を誰かが引いた。侍女の一人がわたしを連れ出そうとしている。よく見るとその顔は九娘だった。変装して、屋敷に潜入していたのだ。
「月英、行かないで!」
尚香が声を上げる。九娘は鋭い視線を投げると、兵士に向かって体当たりをした。訓練された身のこなしだった。尻餅をついた兵士の顔をしなやかな足で踏みつけ、九娘はあっという間に血路を開いて夜の闇に飛び込んでいった。
夜目がきく九娘に手を引かれ、わたしは夜の街を走った。それは尚香と走ったあの時を思い起こさせた。尚香と会う時、わたしはいつも走っている。
右に左に進路を変えながら九娘は路地を抜けていく。一軒の古びた宿舎にたどり着き、ようやく九娘の足が止まった。わたしは息を整えた。
「来てくれたのね。ありがとう」
礼を言うと、九娘は怒ったようにわたしの顔を見た。口が利けたらたっぷりと小言を言われていたに違いない。しきりに首を横に振っている。駄目だと念押ししているのだ。
「尚香と関わるな、ということ?」
九娘は何度も深く頷いた。まるでわたしの心の内を読んだみたいに。一瞬でも大それたことを考えたことを九娘は察知したのだろうか。
わたしは天を仰ぎ、夜空を見た。
夜は深く、まだ明ける気配がない。もう一度戻って、尚香を連れて、襄陽まで逃げられないだろうか……
九娘が強くわたしの腕を引っ張った。
「分かったわ、九娘」
ただの妄想だ。そんなことはできはしない。
宿舎の前には龐統が立っていた。むっつりと腕を組んだまま、無言で佇んでいる。わたしの顔を見ると「気が済んだか」と言って中に引っ込んだ。一応、心配してくれていたらしい。
振り返ると、尚香の屋敷があった辺りに、白い月が出ていた。月は朧に霞み、涙を流すようにゆらゆらと揺れ、頼りない光を墨染の屋根に注いでいた。どこにも行けない尚香が流す涙を想起させた。
眠れない一夜が明けた。
最後にもう一度甘露寺に行かせてくれるよう頼むと、龐統は嫌そうな顔をしながらもついてきてくれた。地味な風貌の龐統は庶民に変装するのが得意だ。わたしたちは目立たないように甘露寺に向かった。
雲一つない晴天の下、甘露寺は華やかに飾り付けられていた。道行く人もどこか華やいで見える。遠方から貴人が来るのだと噂が流れていた。それが尚香の相手なのだろう。
その男を殺して逃げることは可能だろうか。
考えすぎて頭がずきずきする。
寝不足の頭にわあっと歓声が響いた。貴人の一行が到着したらしい。人垣の間から、尚香の相手を見るべくわたしは首を伸ばした。
わたしは息を飲んだ。
壮年の男だった。正装した姿は威厳に満ち、武人らしく体は引き締まって隙が無い。それでいて人好きのする親しみやすさが滲み出ている。何よりも、他を圧するオーラに包まれている。こんな人は他にいない。もしやと思っていたが、まさか。
貴人は、劉備殿だった。
わたしは迂闊だった。赤壁の戦が終わったと同時に、劉備殿との縁談も終わったのだと思い込んでいた。それが荊州をめぐる諍いが激化しているこの時期に、どうして。
――この縁談は罠だよ。茶番だ。
呉は、劉備殿を敵地に誘い込むため、あの縁談を蒸し返したのだ。
ひときわ豪奢な衣装を着た品の良い年配の婦人が、劉備殿を上席にいざなうのが見えた。あのご婦人は呉国太、尚香の母君だ。そしてその隣に控える、重そうな簪をたくさんつけた、可憐な衣装に身を包んだ少女は。
痛々しいほどあでやかに着飾った尚香が、こちらを見た。鳶色の瞳が縋るようにわたしを捉え、かすかに揺れた気がした。
目の前が白くなった。周囲の声が遠くなる。わたしは気を失った。