縁談
夢の中でわたしは、あの日の続きを見ている。
甘露寺で手に手を取って大喬から逃げ、赤壁の街を散策した最後の夜を、繰り返し、繰り返し。記憶が擦り切れるかと思うほど。
その夢では龐統は現れず、わたしと尚香はいつまでも一緒にいる。二人で住まない?というわたしの誘いに尚香は戸惑いながら喜びを滲ませ、大喬の手の届かないところへ引っ越しの相談をするのだ。
なんて甘くて苦い夢。
目が覚めて、すべてが夢だと分かった時の落胆と絶望。わたしは夜が来るたびに天国と地獄を味わい、枕を冷たい涙でびっしょりと濡らしてしまう。そして、体中の水分が全部出てしまったみたいに干からびて朝を迎えるのだ。
心が乾いていく。
赤壁に置いてきた心がどんどん乾いて、生気を失っていく。
あんなに好きだったからくり作りにも熱が入らない。工房に足を踏み入れることもめっきり減った。からくりはわたしの心の拠り所だったのに。工房に入っても、もう貂蝉さまの声が聞こえない。
「最近元気がありませんね、月英」
工房に行かなくなったわたしはよほど萎れて見えたのだろう。朝餉をとりながら、諸葛亮が問うた。
「江東から帰ってから、いつもの貴女らしくない。どうしましたか」
椀を置き、諸葛亮はわたしの顔を覗き込んだ。思わず顔をそむけた。察しの良い怜悧な瞳が、今は怖い。
「気分が晴れないだけです。少し疲れが出たみたいですわ」
「それだけですか?何かあるなら言ってください。夫婦なのだから」
諸葛亮の瞳はどこまでも純粋で、わたしを気遣う色に満ちていた。諸葛亮は優しい。
諸葛亮の優しさに触れると、時々、すべてをぶちまけてしまいたくなる。
彼なら分かってくれるのだろうか。
尚香への想いを、諸葛亮なら許してくれるだろうか。彼なら知っているはずだから。許されぬ恋をする苦しさを、叶わない願いに身を焼く痛みを、それを凌駕する甘美な愛おしさを。息苦しい儒教社会の中で、女の身で女を愛してしまう罪深さと苦悩を、同じ苦しみを知るであろう諸葛亮なら。
しかしわたしは静かに微笑んで口を閉ざした。厳しい儒教社会の中では、決して口にしていい話ではなかった。諸葛家の嫁として、襄陽黄氏の娘として、わたしは全身全霊で夫に仕えなければならない身なのだ。
「大丈夫です。お気になさらないで」
こんなに苦しいのに、社会通念というものに縛られて身動きの取れない自分が、滑稽ですらある。
諸葛亮を見送るために外に出ると、遠くで鳥の声がした。二羽の鳥が鳴きかわしながら東の空に向かって飛び去って行くのが見えた。あの空は江東に続いている。川を渡る風は、尚香のいる土地の匂いをわずかに運んでくる。
世界は鮮やかな色に満ちているのに、わたしの色彩は暗く沈み、鈍い色しか映さない。
江東から遠く離れた荊州の地で、わたしは、一人の時よりもずっと孤独だった。
赤壁での奇跡の大勝利に沸いたのもつかの間、呉との関係は悪化の一途をたどっていた。理由は荊州の帰属である。劉備殿と孫権は荊州の領有をめぐり激しく対立するようになっていた。
諸葛亮は以前にも増して仕事に精勤していた。隆中時代とは別人のように。水を得た魚のように。
それはそうだろう。あの時、劉備殿の出迎えを受けた諸葛亮の輝くような顔を見れば、彼の想いの深さがよくわかる。世間では劉備殿と諸葛亮のことを「水魚の交わり」と言っているのだとか。でもわたしから見れば魚は諸葛亮の方だ。のびのびと泳ぎ、みずみずしさを滴らせる。
とても羨ましかった。妬ましいほど。
好きな人のそばで、好きな人のために尽くせるなんて。
赤壁の夜から、わたしはうまく呼吸ができない。喉を焼くひりひりとした喪失感と焦燥感。その正体をわたしは知っている。
――尚香と離れるのではなかった。
頭では分かっている。こうするしかなかった。女二人で生きるなどできるはずもない。
なのにいまだに、街中で振り返る。鳶色の瞳が見えはしないかと。窮鳥のような男装の少女が突然飛び込んできたりはしないかと。路地の奥から「月英!」と闊達に呼びかけて飛びついてきたりはしないかと。
後悔ばかりが胸を焼く。
今度会えたら、絶対にその手を放さないのに。
決して彼女を、大喬のもとに帰さないのに。
それがどんなに非難されることであっても。
このままではだめになる。
わたしは決めた。
ここを出よう。あの子と繋がる土地へ行こう。
わたしの故郷には父がいる。そして襄陽は今、尚香の姻戚である周瑜殿が治めていた。
父に会いに行くと言うと、諸葛亮はすぐに賛成してくれた。
護衛をつけると言われたが丁重に断った。襄陽は呉の支配下とはいえ今は戦時ではない。同盟関係は一応保たれている。腕の立つ九娘がいればそうそう危ない目に遭わないだろう。わたしは九娘一人を伴って出立した。
久しぶりに戻った故郷は平穏な空気に包まれていた。懐かしい山河を見ていると、結婚したことすら夢だったように思えてくる。わたしは父に挨拶する前に、ある場所へ立ち寄った。
「月英?何でここに」
襄陽の政庁を訪ねたわたしを見て、龐統は驚きの声を上げた。
龐統は故郷に帰り、周瑜殿の下で働いていた。功曹だという。龐統は劉備殿に仕えるかもしれないと思っていたが、襄陽名士である龐家の地縁を優先したのだろう。彼が周瑜殿の下にいるのは幸運だった。
「父に会いに来たの。士元にも挨拶しようと思って」
「おい、片づけるから待てって」
「気にしないわ」
龐統の執務室は散らかっていた。書類や竹簡の束が山積みで乱雑さを極めている。でも本人だけはどこに何があるか分かっているらしい。昔から雑なのに有能な男なのだ。
龐統は少し慌てているようだった。
「急に来るなよ、くそ、茶はどこだ」
「手伝いの者を置いていないの?」
「一人でやったほうが早いんでね」
龐統がやるともっと散らかりそうだったので、わたしが茶器を見つけて茶を淹れた。あまり高級な茶ではない。それに古い。香りが少し黴臭い。来客がないのだろう。
茶で喉を潤すより早く、龐統はぶっきらぼうに言った。
「孫尚香のことは聞くなよ」
わたしはむせそうになった。
「どうして分かったの」
「お前のことなんかお見通しだ」
龐統は隻眼でわたしを眺め、ため息をついた。
「何やってるんだよ。こんなに痩せて、顔色も悪くなって。だから孫尚香のことは忘れろと言ったんだ」
「できないから来たのよ!」
思わず大声を出してしまった。わたしは情緒不安定だ。ずっと我慢していたのに、龐統の前だと子供の自分が出てしまう。情けない。涙があふれた。
「士元は知らないのよ。尚香は大喬といたら駄目になる。助けたいの。わたし、あの子のためなら何でも」
「月英」
強い口調で遮られ、わたしは口を閉じた。
「お前は何がしたいんだ。孫尚香を攫うのか?一緒に逃げるのか?孔明はどうなる」
「すべてをなげうっても、尚香を助けたい」
気がつくとそう口にしていた。自分でも驚いた。わたしはそんなことを考えていたのか。口にしてしまってようやく悟った。それこそがわたしの願いだった。だからわたしは、諸葛亮を置いてここまで来たのだ。父を訪ねるより先に、真っ先にここへ。
龐統は虚を突かれた顔をした。
「正気か!女と駆け落ちでもする気か」
「尚香が望むなら、そうするわ」
「…馬鹿」
龐統は髪を掻きむしった。
「孫尚香は結婚するんだ!お前の出る幕じゃない」
わたしは思わず茶器を落としてしまった。がちゃん。茶器が割れる音と水音が、とても遠くに感じられた。その音のせいだろうか。龐統ははっと我に返った顔をした。
「しまった。口が滑った。今の話は誰にも……」
「結婚?」
龐統の言葉を、わたしは聞いていなかった。ぐらりと世界が傾いだ気がした。
赤壁の時、劉備殿との婚姻からあれだけ逃げ回っていた尚香が。
政治の道具にされることを、痛いほどに潔癖に拒んでいた尚香が。
わたしと…生きることを望んでくれていたのではなかったのか。
「尚香に会う」
龐統はぎょっとしたようにわたしを見た。
「馬鹿を言うな。無理だ」
「お願い」
「月英」
「一目会わせて。それだけでいいの」
龐統は唸った。立ち上がり、足音荒く歩き回り、しきりに髪を掻きむしった。困らせていることはよく分かっている。でも引き下がれなかった。
その時、外で待っていた九娘が慌てた様子で入ってきた。同時に第三者の声がした。
「来てもらえばいいではないか」
よく通る涼やかな声。わたしたちは同時に振り返った。
扉を背に、すらりとした体つきの、非常に整った顔立ちの美丈夫が立っていた。
「甘露寺に同行してもらおう。諸葛どのの奥方、黄月英さまにも」
ただ立っているだけなのに不思議な威圧感がある。聞かなくてもすぐに分かった。この人が、呉の美周郎こと周瑜殿なのだと。