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東南の風、魂の炎

「何かまずいことを言ったか?」

「…いいえ」

夢から覚めた思いだった。

龐統に説明することも、尚香を追いかけることもできなかった。結婚を黙っていたのは事実だ。自分が既婚者だということをほとんど忘れかけていたのだ。潔癖な尚香は、騙されたように感じたかもしれない。

きっとわたしは尚香の信頼を失ってしまった。

こんな別れ方をするなんて。

「わたしね、尚香に会って少しだけ、色彩が戻ったの」

龐統の表情がわずかに動いた気がした。左目は蓬髪に隠れて見えない。

「孫権の妹には深入りするな」

言われなくても分かっていた。なのになぜ、涙が流れるのだろう。

龐統が腕を引き、川べりに連れて行くまで、わたしはされるがままになっていた。草の間の目立たない場所に小舟が繋いである。何も聞かれないのはありがたかった。この無骨な幼馴染が、実はとても優しい心を持っていることをわたしは知っていた。


半刻後、龐統とわたしは水の上にいた。

月も出ていない漆黒の夜だった。振り返ると、涙で潤んだ視界に街の灯火が揺らめいていた。

ここで別れたらもう二度と、尚香には会えないだろう。

冷たい北西の風とともに遠ざかっていく無数の光を見ながら、わたしはとめどなく涙を流していた。涙はあとからあとから流れ、止まらなかった。

龐統は何も言わず、ただ櫓を漕いでいた。


絹のようになめらかな川面には静寂が満ち、龐統が櫓を漕ぐ音だけが響く。

「甘露寺ではありがとう」

龐統は目だけ動かした。

「九娘が知らせたの?来てくれなければ死んでいたかもしれない」

「ああ。大喬さまがあんなに強いとは思わなかった。手こずっている間にお前を見失ったのは不覚だったぜ」

やはり龐統が大喬を足止めしてくれたのだ。おかげで尚香と楽しい時間を過ごせた。わたしは心の中で龐統に感謝した。

「あんたも強いわ。子供のころとは大違い」

「十五年も経てば人は変わるさ」

風が龐統の蓬髪を巻き上げ、隠れた左目がちらりと見えた。

龐統の左目には醜い傷跡がある。視力はほとんど無いはずだ。わたしのせいで。

小さいころ、わたしの工房に遊びに来た龐統は、たわんで弾けた竹の破片の直撃を受けた。裂けた竹は彼の左目をえぐり、深い傷を残した。大騒ぎになったが、龐統は誰と遊んでいたか決して言わなかった。わたしのせいだということは誰にも知られず、そのうちわたしは洛陽の名家へ行儀見習いに行かされた。

龐統の顔を見ると、今でも申し訳なさでいっぱいになる。

「曹操の陣営にいるって言ってたわね」

「見せかけだ。孔明と協力して裏工作している。軍船を連結させたり。見ろ、あれ」

龐統が遠くを指さした。黒々とした影がぼんやりと見える。大きな魏の軍船の塊が数珠つなぎになっていた。

わたしたちは魏軍のすぐ近くを通っているのだ。龐統の大胆さに呆れる。今更ながら恐怖が忍び寄ってきた。

「名付けて、連環の計」

「その呼び方はやめて」

龐統は黙った。

連環の計。その言葉は今でもわたしの心に血を流す。あの計に関わった男はみんな死ねばいいと思った。董卓も呂布も王允も。

こんなに時間が経ってもまだ、わずかなきっかけで、わたしの心はどす黒い血を噴き上げる。

忌まわしい死の都。皇帝のそばには、今は董卓の代わりに曹操がいる。

「あんたは曹操には仕えないのね」

「ああ。曹操は傑物だが弱者が見えてねえ。俺は弱者の味方でいたい」

「ここにいて大丈夫なの?」

「心配ない。俺も離脱する機会を狙っていた。潮時だ」

本当かどうか分からなかったが信じることにした。わたしのために危険を冒してくれたことに変わりはない。

龐統は櫓を漕ぐのをやめていた。無風だ。影のようにひそやかに、わたしたちの小舟は流れていった。

「お前は男に嫁がないと思っていた」

ぽつりと龐統が言った。

「お前は、その、…男が駄目なんだろう」

龐統は知っていたのか。そういえば龐家はわたしに婚姻を申し込んでこなかった。黄家と親交が深いのに。

「婚期が遅れただけよ。不器量だから」

「お前は美しいよ。器量も、髪色も、肌色も。そう思っているのはお前だけだ」

月は出ていない。龐統の表情は見えない。だからどんな思いが込められているのか分からない。

「女は嫁がないといけないのよ」

嫁ぐ以外に生きる道がないのがこの時代の女というものだ。自分の道を選ぶことなどできない。貂蝉さまを見れば分かる。

「孔明は、お前に優しいか?」

「ええ。とても」

どこまで知っているのだろう。夫婦のことを諸葛亮が話すとは思えないけれど、なんとなく龐統は感づいているような気がした。

「お前が幸せならよかった。月英」

きっと俺では幸せにできなかった、そんな含みがあった。気のせいかもしれない。きっと気のせいだろう。

鏡のような水面を小舟が進む。魏軍の軍船は彼方に霞んでもう見えない。龐統はまた櫓を漕ぎ始めた。魏の軍船は遠ざかりつつあった。


いつのまにか風が止まっている。

と思ったらまた吹き始めた。少し生暖かい風。髪を揺らし、吹きつけてくる方角がさっきと違う気がする。

わたしははっとした。

「士元、この風」

「ああ。孔明がやってくれた。……東南の風!」

龐統の右目が、刺すような光を放っていた。

「間一髪だったな、月英。とうとう反撃の始まりだ!」


同じ頃、黄蓋将軍が投降を装って魏軍に接近していた。火薬を積んだ船が突っ込むと同時に、呉軍は一気に猛攻を仕掛けた。魏の軍船はひとたまりもなく燃え上がり、連結されていたため退却することもままならず、次々と火だるまになっていった。

長江は火の海になった。水の上では、地獄のような阿鼻叫喚が繰り広げられた。

わたしたちが通過したわずか半刻後のことだった。

赤壁において、孫権劉備連合軍は歴史的な大勝利を収めたのである。


一夜明け、夏口は勝利の報に沸き立っていた。

夏口には劉備殿も出迎えに来ていた。

劉備殿は民に混じって気さくに話しながら歩いていた。親しみやすい雰囲気だが、鍛え上げられた体と隙のない身のこなしはさすがに歴戦の勇士らしさを感じさせた。かつて諸葛亮の草蘆を三度訪ねて来られた折、わたしもお会いしたことがある。独特の風格と魅力を放つ、人を惹きつけてやまない人だ。

「あれが劉備殿か」

人垣の隙間から、龐統も編笠を少し持ち上げて劉備殿を眺めた。

わたしたちが到着してから数刻後、趙雲将軍とともに諸葛亮が帰還すると、歓喜の声は最高潮に達した。

諸葛亮の帰還は予定よりだいぶ遅れたので心配した。東南の風が吹くと同時に呉陣を脱出したものの、周瑜提督の察知するところとなり襲撃を受けたのだという。趙雲将軍が来なければ危なかったと聞いてわたしはぞっとした。身の危険があると聞いていたが、これほど危ういとは思っていなかったのだ。

「あいつも今回はずいぶん危ない橋を渡ったな。周瑜殿は何が何でも孔明を殺す気だったから」

「そうなの?」

「ああ。だから孔明は風を呼ぶ名目で壇を作らせたんだ。人払いをするために。でなきゃ脱出は不可能だった」

諸葛亮でさえ、そうなのか。

おそらく龐統の分析は正しい。わたしは危うく寡婦になるところだった。もしかしたら龐統を呼びよせたのは、父の名を借りた諸葛亮だったのかもしれない。しかしその想念は群衆の歓声で霧散した。

死地を超えてきた諸葛亮の顔は輝いていた。

諸葛亮の目はまっすぐに劉備殿をとらえていた。気迫に満ちた意志の強い目。全身から立ちのぼる熱い想いが見えるようだ。

「臣亮、ただいま戻りました」

劉備殿一人に向けられるまなざしの、なんと強いこと。

切実に。焦がれるように。

諸葛亮の怜悧な瞳は、青みがかった深い色をしていた。冷たく静まっているようで実は火傷しそうなほど熱く、純度の高い魂の色。

青はとても熱い色だ。赤よりもずっと温度は高い。

あれが諸葛亮の魂。青くて熱い魂の色。

不意にわたしは悟った。

――諸葛亮は…殿を。

あれは誰かに、人知れず恋焦がれる者の瞳。

腑に落ちることがいくつもあった。わたしが彼をきちんと見ていなかっただけで。

彼が本当は炎のように熱い人だということを、わたしはずっと前から知っていた。

あなたも、わたしと同じ。

同じ業を背負っていたのか……

決して結ばれない恋をする。身を滅ぼすことになっても。その悲しみと覚悟と何物にも代え難い喜びを。

本当の、生身の諸葛亮を見た気がした。きっと彼の本当の姿を知るのはわたしだけだ。魂に射抜かれたことがある者だけが同類を知る。燃える魂の色を。


思い返せば、この瞬間が大きな転機だったのだろう。

「孔明のあんな顔、初めて見たな」

隣に佇む龐統のわずかな変化に、わたしは気づくことができなかった。

わたしはいつもそうだ。龐統の思いにも。諸葛亮の想いにも。気づくのがいつも遅すぎる。

編笠の下に隠れた龐統の右目が、諸葛亮と抱き合う劉備殿をずっと追っていたことも、その時のわたしの視界に入ることはなかったのだ。

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