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赤壁の別れ

尚香の背中は小刻みに震え、ちらりと見えた横顔は驚くほどこわばっていた。それでもわたしを守ろうとする腕に迷いはなく、勇気を振り絞ってくれているのが分かった。

「嫂さん、もうやめてくれ。この女性(ひと)は関係ないだろう!」

口調は強いが尚香の声には恐れが滲んでいた。恐れの中に潜むのは諦めの色。そして支配に慣れた者の色だ。尚香は大喬を恐れている。尋常でなく。

「あたしなら帰るから。もうどこにも行かないから」

尚香の声はほとんど泣きそうだった。なんて悲痛な声。痛々しくて見ていられない。わたしは全身で彼女の背中を抱きしめたくなった。

「…家から出るなと言ったのに。また言いつけを破ったのね」

ひどく冷たい声が返ってきた。

「あなたが私に敵うかしら。私は孫策様と互角に戦える女よ。あなたに武芸を仕込んだのが誰か忘れたの」

大喬が一歩前に踏み出すと、尚香が一歩下がった。

「嫂さんがあたしに武芸を仕込んだのは、策兄の身代わりだからだろ」

ちゃんとあたしを見てよ。本当はそういいたかったのかもしれない。でもその言葉が尚香の口から出ることはなく、代わりに尚香は強い調子でこう言った。

「家から出られないなら、何のための武芸だよ」

「だってあなたは女だから。女には女の戦い方があるのよ。外に出なくても、あなたの武芸は必ず役に立つわ」

身分ある女の役割の第一は婚姻。婚姻相手の死が利益になる時、尚香の武芸は役に立つ。大喬はそう言っているのだ。潔癖な尚香が最も嫌がる方法ではないか。大喬には分からないのか。

「もういいわ」

急に興味を失ったように、大喬は血のついた短刀を引っ込めた。もうわたしには一顧だにしない。柳眉を逆立て、大喬は尚香だけを見つめていた。背筋が凍るほどだった。

大喬が尚香の手に短刀を握らせるのを、わたしはぼんやりと眺めていた。何が起こるのか頭が働かなかった。

「これで、この女を斬って。そうしたら許してあげる」

尚香が息を飲む。大喬は微笑んでいる。悪夢を見ている思いがした。この二人はいつもこんな風なのか。

振り返った尚香は泣いていた。鳶色の瞳から、あとからあとから透明な涙が流れていた。綺麗だ、とわたしは思った。色のない世界の中で、尚香の瞳だけが燃えていた。

次の瞬間、鈍くかたい音がした。

何が起こったのか分からなかった。一瞬の間があり、大喬はゆっくりと、崩れるように倒れた。

「逃げろ!」

男の声がした。向こうの寺院の(いらか)に誰かいる。こちらからは死角になるので気づかなかった。編み笠を深く被っているので顔は分からない。でもどこか見覚えがあった。

――士元?

確かめるより先にわたしは尚香の手を引いた。まだ正気に戻らない尚香を引きずりながら、わたしは転がるように走り出した。


甘露寺を下る石段を、わたしたちは風のように駆けた。何度も転びそうになったが踏みとどまった。大きな岩のそばを通り抜け、蓮池近くのすべりやすい草を踏み、走りに走ってようやく街中に出たとき、わたしの息はすっかり切れていた。

尚香は手を握ったまま縋るような目でわたしを見つめていた。

「さっきの男は」

「たぶん、わたしの幼馴染よ」

十年以上会っていないが、多分彼だ。龐統(ほうとう)、字は士元。なぜここにいたのか分からないが、ともかく助かった。人通りの多い雑踏に紛れ込めば、大喬もおかしな真似はできないだろう。

大喬が追いかけてくる気配はなかった。龐統が足止めしているのかもしれない。

「嫂さんを一撃で仕留めるなんてすごいな」

「あいつは投石名人なのよ」

尚香が手を伸ばし、わたしの喉に触れた。傷が浅かったので血は止まっている。大喬は本気ではなかったのだろう。脅しにしては度が過ぎているが。

「ごめん。嫂さんがあたしの名で呼び出したんだろ。あたしのせいで…ごめん」

「いいのよ。おかげであなたに会えたわ」

「髪も…嫂さんが台無しに」

「こんな髪どうでもいい。好きじゃないし」

「何で。綺麗なのに」

不揃いに切られたわたしの髪を、尚香はいとおしそうに撫でた。

「これは燃える命の色だ。こんなに綺麗な色は初めて見たよ」

彼女の瞳にはどんな色が映っているのだろう。

わたしには、尚香の瞳の色こそが燃える命の色だ。

「わたしは色が分からないの」

「え?」

…余計なことを言った。

「甘いものでも食べましょう。買ってくるわ」

わたしは立ち上がり、通りに出た。戦で賑わいは以前ほどではないが、物流が止まったわけではない。営業している店もまだまだある。いつの時代も庶民はたくましい。

甘味店で甘豆羹(かんとうこう)をふたつ買って戻ると、尚香はもの珍しそうに甘豆羹を眺めた。

先にわたしが食べると、尚香もおずおずと口に含んだ。

「甘い」

甘豆羹は甘酒に煮小豆が入った庶民のおやつだ。尚香は外に出してもらえないから馴染みがないのだろう。わたしは食べ歩きが好きだから、庶民のおいしい食べ物なら尚香より詳しいかもしれない。

「もっとおいしい店も知ってるわ。行かない?」

尚香の顔が輝いた。おいしいものに目がないのはわたしと同じだ。嬉しくなった。

「あんたの粥より?」

「言うわね」

尚香をたたく真似をすると、尚香ははじけるように笑った。こんな風に笑うのを見るのは初めてだ。

「名前、聞いてなかった」

「そうだったわ。わたしは月英。黄月英よ」

わたしたちは手を繋ぎ、赤壁の街に繰り出した。


裏通りの衣裳店で地味な服を贖い、庶民に変装することから始めた。お揃いの服で歩くと心が浮き立った。尚香がわたしの髪に布を巻いてくれたので、わたしも組み紐で彼女の髪を彩った。さざめくような笑い声。露店で買った仮面をつけ、わたしたちは姉妹のように並んで歩いた。

飴細工の店で精巧な飴作りに感嘆の声を上げ、香ばしい串焼きにかぶりつく。歩き疲れたら茶屋で花の形をしたお菓子をいただきながら一休み。いつもは一人でする露店巡りだが、二人のほうがずっと楽しい。男装ではない尚香を見るのも新鮮で、年相応にはしゃぐ姿が可愛いと思った。

やがて薄闇が迫り、提灯に灯が入ると、尚香はみるみる元気をなくしていった。

「ずっと一緒にいられればいいのに」

帰りたくないのだ。帰れば大喬の叱責は目に見えている。

「悪い人じゃないんだ。嫂さんは、策兄が死んでから想いの行き場がないんだと思う。でも……」

それきり尚香は黙り込んでしまった。

大喬も哀れな人だ。

わたしたちは石段の一番上に座り込んで、長江の流れを見ていた。北西からの風が吹きつける。寒さが足元から忍び寄ってきたが、立ち上がらなかった。

「ずっと一緒にいましょうか」

気づいたら、そんな誘いを口にしていた。

「二人で住まない?どこかで小さな家を借りて」

尚香は目を見開いた。驚きと、喜びと、かすかな期待を帯びた目を。

実現不可能な夢だ。女は嫁ぐもの。でももし、そんなことができたら。

その時、夜空に大きな烽火が上がった。

赤、黄、白。火薬の調合で烽火は色を変える。色によって伝える情報が違う。何かの合図なのだろう。赤い光が尚香の頬を照らし出した。…赤。

わたしは瞬きした。うっすらとだが、色彩が戻っていた。

鳶色の瞳。赤く染まる頬。

「尚……」

「探したぞ、月英」

突然、視界を遮るように、編み笠がぬっと現れた。

「のんびり観光してる場合か。お前、何でまだ赤壁にいるんだよ」

編み笠の下から現れた顔は、幼馴染の龐統のものだった。


どうしてここに、という言葉が出る前に、龐統はまくし立てた。

「お前が舟に乗ってないから、黄承彦(こうしょうげん)さまが心配して俺を寄こしたんだよ。まったく人使いの荒いおやじだぜ。俺は今、曹操の陣で謀略中だっていうのに」

もうばれている。わたしはため息をついた。思ったより早かった。父はわたしを溺愛しているから迎えが来ると予想していたが、それが龐統だとは思わなかった。

龐統は昔とあまり変わっていなかった。風采の上がらないところも、名士に見えない風貌も。隠密には最適だろう。久闊を叙したいところだが、かなり怒っていてそれどころではなさそうだ。

「ごめんなさい。どうしても用事があって」

「孫策夫人に会うことが?俺が助けなきゃ殺されかけてたようだが」

言いながら龐統はわたしの腕を引っ張った。

「とにかく行くぞ。一刻の猶予もならん。舟はあっちだ」

「ちょ、ちょっと待って」

「待てねえよ。そのお嬢さんと充分遊んだだろ?」

龐統は呆れ顔で、わたしと尚香を交互に眺めた。

「孔明の気遣いを無駄にしやがって。お前、諸葛家の嫁になった自覚はあるのかよ」

その途端、尚香の顔色が変わった。

「嫁?」

夜目にも尚香の表情が険しくなっていくのが分かった。急な変化にわたしは戸惑った。

「月英、結婚してたんだ」

突然、尚香は立ち上がった。

「帰る」

「尚香?でも」

「一人で帰れる!」

すっかり暗くなった街並みの中を、尚香は走り去ってしまった。

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