甘露寺で待つ女
あの日から、鳶色の瞳がちらついて眠れない。
草船借箭の夜以来、尚香の消息は絶えていた。孫家に密偵を送ったが便りは無い。
わたしは眠れぬ夜を工房で過ごしていた。秋の夜は長くて、時が経つのも蝸牛の如き鈍さである。床の上で転々と寝返りを打つより、工房でからくりに囲まれていた方がましである。
からくりの虚無の瞳はいつも、波立つ心を静めてくれた。でも今は以前ほど静まらない。
色彩のないわたしの世界は水墨画のような静寂だった。何にも染まらぬこの世界が好きだった。静寂の中でひっそりと生きていきたかった。なのにあの鳶色がわたしの眠りの邪魔をする。鮮やかな閃光の如き鋭さで。だから何度もあの色を思い出す。
あの鳶色は、燃える魂の色だ。
魂に射抜かれたら、血を流すより他はない。
思い返すうちに、あの時は気付かなかったことが見えてきた。闊達な瞳の中に滲んでいた陰鬱な色。美女が来た時の尋常でない様子。そういえば着替えさせた体にはいくつも生傷があった。やんちゃな子だから怪我も多いのだとあの時は気に留めなかった。だが本当にそうなのか。なぜか不安が募る。手を離してはいけなかったのではないか、と。
「もう一度会えば、不安も消えるかしら」
からくりの貂蝉さまに、わたしは問いかけた。もう一度。そう思うこと自体が既に執着の始まりなのだとうすうす気づいていた。もう一度会えば、もう一度会いたくなる。その繰り返しだ。
貂蝉さまは答えない。嫣然と微笑んだままだ。心がない女は心の苦しみを知らずに死んだ。それは幸せなことだったのかもしれない。
息苦しさを覚えて工房を出る。長江を渡る西風の上には、煌々と照る満月。月には嫦蛾が住むという。広寒宮はその名の通り寒いのだろうか。わたしの心のように。
わたしは寂しいのだろうか。
月明かりの下に、蹲っている人影があった。密偵の九娘だった。
九娘はわたしが工房にいたのを見て眉をひそめた。九娘はわたしがからくりに耽溺するのを快く思っていない。しかし何も言えない。彼女には舌が無い。前の主人に切られたのだ。草船借箭の詳細を知らせてくれたのは彼女である。黄家直属の密偵を無断で使っているから、後で父に叱られるかもしれない。
九娘の手を取って、わたしはぎょっとした。袖が濡れている。どろりとしたそれは、血だった。
「どうしたの、何があったの」
見ると、九娘の腕には矢が突き立っていた。背筋が凍った。九娘ほどの手練れが、傷を負わされるなんて。
「誰に射られたの?」
九娘は身振りで腕を差し示した。矢には文が結び付けられていた。見覚えのある矢の形。はやる心を抑え、わたしは文をほどいた。
その時、ふわりと手元が明るくなった。母屋に明かりが灯ったのだ。
丸い木枠の窓越しに、見慣れた長身の影がゆらゆらと動いているのが見えた。
諸葛亮が帰ってきたのだ。
文を袖の奥深くに隠し、わたしは急いで母屋に向かった。九娘は既に気配すら残さず姿を消している。傷の具合が気にかかったが、九娘なら大丈夫だろう。
諸葛亮はひどく疲れた顔色をしていた。わたしが外から入ってくるのを見て、彼は少し驚いた顔をした。
「月英、工房にいたのですか」
「眠れなくて」
着替えを手伝おうとしたが、諸葛亮は無用だと言って土間に腰かけた。彼の体からは埃と汗と、わずかに死臭がした。戦場の匂いだ。
戦況は膠着状態と聞いている。周瑜提督と黄蓋将軍が諍いを起こしたとも聞く。諸葛亮も苦労が絶えないことだろう。
「お疲れのご様子ですね」
「敵は河の向こうだけでなく、味方の内にもいるようです」
その言葉だけで、諸葛亮の立場の危うさが窺えた。十万本の矢の件だけでなく、幾度も命を危険に晒す難題を超えてきたのだろう。並の人間なら精神的に参ってしまうところだ。しかし諸葛亮は違った。
顔色は悪いが、眼の光だけは尋常でないほど強かった。強靭な精神と強靭な胆力が彼の知性を支えている。意志の強い人だったが、以前はこれほどではなかった。劉備殿に仕えてから諸葛亮は変わった。
「一刻も早く勝利して、殿のもとへ帰らないと」
今、劉備殿は夏口にいる。関羽将軍や張飛将軍と合流して江夏水軍を指揮しているのだ。赤壁に残っているのは諸葛亮ひとり。周瑜提督の存在もあり、危険と言わざるを得ない。だが諸葛亮の切実さはそれだけではない気がした。まるで何かに焦がれるように勝利を、帰還を願っていた。全身炎の如く。
「使うなら、火。だが決定的に足りないものがある」
諸葛亮の声に焦りが滲む。この季節、吹いているのは西北の風である。もし火計を仕掛けても炎は敵陣ではなく自軍を焼き払う。
「東南の風、ですね」
「そうです。私はその風と共に江東を離れる。恐らく、生きて戻れる機会はそれしかない」
諸葛亮は怖いほど真剣な目でわたしを見た。
「私はあなたを守れない。あなたは今すぐここを出て下さい」
「今すぐ、ですか」
わたしは虚を突かれた。それはもう尚香に会うことがかなわないということだ。
返事のできないわたしに、諸葛亮は小さな包みを押し付けた。通行証と路銀が入っていた。
「舟を手配しておきました。国境で黄承彦さまがお待ちです」
それだけ言うと、諸葛亮は腰を上げた。
「もう行きます。どうか無事で。黄家で会いましょう」
わたしの返事を聞く前に、諸葛亮はさっと闇に身を躍らせた。
長身が夜陰に紛れていく。このことを伝えるためだけに、諸葛亮は戻ってきたのだ。危険を冒してまで。胸が熱くなった。一瞬、これを愛と錯覚してもいいとすら思うほど。彼を愛することができたらよかったのに。でも貂蝉さまの死以来、わたしは男を愛せないのだ。
「…そうだ、文を」
やめようかとも思ったが、尚香の消息を知りたい気持ちに抗えず、わたしは文をひらいた。
飛び込んできた文字は、心臓を射抜くものだった。
(甘露寺にて待つ。弓)
急いで走り書きしたのか、文字は乱れていた。助けを求めているのか。尚香が痛々しい目で弓を引き絞る様子が目に浮かんだ。脳内の尚香が密偵の腕に矢文を突き立てる。確実にわたしに届けるために。鳶色の瞳の奥にゆらめいていた陰りを思い出し、心がうずいた。
わたしはきっと諸葛亮の思いを無駄にしてしまうだろう。抗えない運命のように。
甘露寺は街の喧騒を離れた山の上にある。
薄布を垂らした笠を目深に被り、わたしは指定された時刻に甘露寺を訪れた。眺めの良い山上に位置するこの寺からは、大河に展開する船団がよく見える。
昨夜、夜明けとともに出立する小舟に、わたしは乗らなかった。待っているはずの父は落胆するだろう。それでもわたしはもう少しこの地にいたかった。
すっかり葉を落とした大樹の陰で、わたしは孫尚香を待った。冷たい風が頬を打つ。西北の乾燥した風。これが生温い東南の風になるまで諸葛亮は帰れない。
人の気配に振り返り、わたしは声を弾ませた。
「尚香?」
しかし、鈴振るような忍び笑いとともに現れたのは、大輪の花の如きあでやかな美女だった。
わたしは血の気が引く思いがした。
「やはりあなただったのね。油断ならないこと」
甘露寺で待っていたのは、孫尚香ではなく、あの時の美女だった。
立ちすくむわたしの顔を、美女は楽しそうに眺めた。
「自己紹介がまだだったわね。私は喬国老の姉娘。大喬と呼ばれている者よ」
「…存じております」
喬国老の二人の娘は有名だ。姉は大喬、妹は小喬。大喬は孫策に嫁ぎ、小喬は周瑜に嫁いだ。尚香の嫂なら大喬をおいて他にいない。
「どうして私が来たか不思議?簡単よ。あの文を書いたのは私」
あでやかに笑っているのに大喬の瞳は冷たく、値踏みするような色があった。
「あなた、何者なの。探ったけど素性が全然出てこない。しかもあなたの密偵、なかなかの凄腕ね」
「恐れ入ります」
「死体にしてもよかったけど、外したわ」
恐ろしいことを言いながら大喬は優雅な動きで細い腕を伸ばし、わたしの笠を持ち上げた。
「変わった髪」
大喬の手が光るものを持っていることにわたしは気づいた。よける間もなく刃先はわたしの髪を切り裂いた。ばさり。髪の束が土に落ちた。わたしは声も出せず震えた。彼女には何をするかわからない怖さがある。
「尚香に近づかないで。あれは私のものよ」
ばさり。ばさり。髪が落ちていく。赤く縮れた醜い髪。でも尚香が綺麗だと言ってくれた、わたしの髪。
「尚香は私の孫策様。私だけの宝物なの」
短刀がわたしの喉に当てられた。大喬は迷いなくわたしの喉を裂くだろう。顔色一つ変えずに。
「だから、尚香さんを、閉じ込めているのですか」
声を絞り出すと、大喬の短刀が止まった。
「あなたに何が分かる」
すっと目が細められた。凄絶な美貌が研ぎ澄まされた刃のようだ。冷たい汗が流れた。でも言わなければ。喉を裂かれる前に。
「尚香さんは、あなたの孫策様ではありません。別の人間です」
「同じよ。知ってる?尚香が一番、孫策様に似ているの。私は尚香を孫策様にする。呉国太さまのためにも」
表情を消し、大喬は刃をわたしの喉に食い込ませた。
「もういい。あなたが何者でも、死体になればすべて終わり」
ぱっと鮮血が散った。わたしはかたく目を閉じた。足が竦んで動けない。ああ、諸葛亮の言うことを聞いて去っていればよかった。こんな異郷で、こんなおかしな女に殺されるなんて。
その時、ぐいっと誰かに肩を掴まれた。
「やめろ!」
わたしは目を開けた。目の前に、わたしをかばうように仁王立ちになっている尚香の背中があった。