家出娘、孫尚香
粥の匂いにつられたのか、小弓はほどなく目を開けた。
「気がついた?」
わたしは湯気の立つ粥を椀によそいながら、小弓の様子を観察した。まだ意識ははっきりしていない。服に違和感があるのか、しきりにもぞもぞと動いている。
「苦しそうだったから、ゆったりした服に着替えさせたの。どうして男の格好をしているの」
「!」
今の言葉で小弓ははっきりと目が覚めたらしい。鳶色の瞳が見開かれ、わたしを射るように見た。
「見たのか」
「目の前で倒れたんだから仕方ないでしょ。運ぶの、大変だったのよ」
小弓を工房から運び出すのは骨が折れた。華奢な見た目に反して意外なほど重量があったのだ。筋肉質の体だからだろうか。幸いからくりの運搬用に車輪を付けた手押し車を作っていたので、それに乗せて運んできたが、床に寝かせるまでは大変だった。もっと感謝してくれてもいいくらいだ。
「小弓って、偽名よね。矢を買いに来たから、名前が弓。安直だわ。本名は?」
「言えない」
ぷいと横を向いた小弓は、ふと何かに気づいたようにわたしを見つめた。
「その髪色、覚えがある」
小弓は記憶を辿るような目をした。彼女の鳶色の目にわたしは吸い寄せられた。そこにだけ色と、熱があった。
「そう、暑い日だった。一度見たら忘れない。あんたの髪は燃えるようで、炎のようで」
「ええ。変よね。赤くて、縮れて」
次に続く言葉は予想がつく。珍しい。異国の人かと思った。そんなところか。色彩を失ってよかったと思うことがあるとすれば、自分の髪色を見なくて済むことだ。
「…とても、綺麗だった」
「えっ」
綺麗と言われたことはなかったので驚いた。
鳶色の目と視線が絡まる。なぜか心臓の鼓動が早くなった。
小弓はさっと頬を染めた。
「なんでもない」
やおら椀をわたしの手からひったくり、小弓は猛烈な勢いで粥をすすり始めた。
「微妙な味だな」
「失礼ね」
確かに料理はあまり得意ではない。それでも諸葛亮の料理を思い出してがんばってみたのだ。奮発して干貝や肉も入れたのに。
「味がごちゃついてる。食材はいいのに」
「文句言うなら返して」
しかし小弓は椀を離さず、あっという間に空にした。ちょっと感動するくらい見事な食べっぷりだった。しかもお代わりを要求した。自分の作った料理にお代わりをされるのも、初めてだ。思わず唇に笑みが浮かんだ。
「あんた、襄陽の人だろ」
椀を啜りながら小弓が上目遣いに見上げてきた。やっぱり虎というより猫みたいだ。可愛いのに失礼な猫。虎ではなく猫の面をつけた方がよほど似合いそうだ。
「話し方に襄陽訛りがある。一人で住んでるのか?」
「そうよ」
諸葛亮の妻であることは避けた方がいいと判断してわたしは答えた。黄氏の名も出さない方が賢明だろう。孫権の父は黄祖に殺されている。黄祖はわたしの父の親戚だ。
会話が途切れ、粥を啜る音だけが響く。三杯目を空にする頃、ぽつりと小弓が言った。
「…結婚から逃げて来たんだ」
わたしは息を吐いた。予想はしていたが、やはり。
「お相手が嫌なの?」
「そんなんじゃない」
「じゃあ、何故?」
「あたしは殺し屋じゃない」
ああ、とわたしは悟った。つまり小弓の結婚は相手を殺す使命を帯びている。疑念が確信に変わった。結婚と暗殺が結びつく縁談はひとつしかない。この子は、
――孫権の妹、孫尚香。
思わずわたしは尚香の頬を両手で包み込んだ。なんと過酷な使命なのだろう。まだ結婚に夢を見る年頃なのに。強がっているが、彼女はほんの十代の少女なのだ。
尚香はぴくりと肩を揺らした。彼女の頬は、思ったよりずっと熱かった。
しかし次の瞬間、鳶色の目に鋭い光が宿った。空気が変わり、さっと温度が下がった。殺気、と思った途端、わたしは尚香に飛びかかられて馬乗りにされていた。首筋に冷たいものが当てられている。短刀だった。
「今のは忘れろ。素性も聞くな。おとなしく矢を作るんだ」
わたしは猫と思ってとんでもない虎を引き入れてしまったらしい。尚香は手練れだった。小柄なのに体幹がしっかりしているのだろう。押さえつける腕はびくともしなかった。
「こんな狼藉をして、無事に済むと思っているの」
「ああ。あんたは他国者で一人暮らし。あたしがここにいることは誰にもばれない。あんたが矢を作る間、あたしが身を隠すには最適だ」
短刀の切っ先が喉に食い込む。痛みより冷たさを感じる。尚香はさっきの親密さから豹変し、虎の顔になっていた。恐怖よりも、なぜか痛々しさを感じた。必死で弱さを隠そうとしている獣みたいだ。わたしはかすれた声を出した。
「どうして、矢が要るの」
「諸葛亮が周瑜と賭けをした。三日以内に矢を十万本用意できなければ、どんな罰も受けると。周瑜は諸葛亮を亡き者にしようとしているんだ」
諸葛亮。賭け。わたしは頭がくらくらした。…何をやっているんだ、あの人は。
「諸葛亮を助けたいのね。呉の人なのに」
「卑怯な手は大嫌いなんだよ!」
尚香は叫んだ。潔癖なところは若さを感じさせる。血気盛んで、男勝り。女でなければ良将になっていただろう。だが尚香は女だ。どんなに適性があっても将にはなれない。その鬱屈した苛立ちもあるのか。
その時、表の戸が勢いよく開かれた。
「誰だ!」
尚香が誰何した。諸葛亮が帰ってきたのかと思ったがそうではなかった。
ぱっと室内に花が咲いたような華やかさが広がった。入ってきたのは、高価そうな絹の衣服をまとった美しい女性だった。
色覚のないわたしでも分かる。息を飲むほどの美女だった。江東中探しても、否、中華全土を探してもこれほどの美女はお目にかかれないだろう。一瞬、貂蝉さまが入ってきたのかと思ったほど。
「やっと見つけた」
美女は大輪の牡丹のように微笑むと、つかつかとわたしたちの所に来て、尚香の腕をいとも簡単に捻り上げた。
「うわっ」
「悪戯は終わり。帰るわよ」
あの威勢のいい尚香が、蛇に睨まれた蛙のように動けなくなっていた。
「い、痛い嫂さん」
「私の心はもっと痛いわ。可愛い妹に逃げられたんだから」
美女はあっさり尚香の手から短刀を取り上げ、形の良い脚でぽんと蹴った。すかさず尚香が腰に手を当て、何かを取ろうとした。が、既に美女の手が尚香の腰から細帯を奪い取っていた。
「弓腰姫も、得物がなければただの小娘ね」
美女が細帯を遠くに放り投げる。尚香が悔し気に唇を噛んだ。細帯に付けられていたのは、ずらりと並んだ矢と弓だった。わたしが拾ったものと同じものだった。
「あなたは女なのだから、家でおとなしくしていればいいのよ。余計なことはしないで」
「嫌だ、あたしは」
「義弟の邪魔をするな、と言っているの」
ひんやりとした声だった。尚香が黙る。
「何度も家出して、我儘ばかり。甘やかしすぎたのかしら。義弟たちには黙っていてあげるから……」
美女の唇に凄絶な笑みが浮かんだ。
「来なさい」
うっ、と尚香が腹を抑えて蹲った。美女が鳩尾に一発入れたのだ。
唖然としているわたしに向かって、美女は優雅な仕草で礼をした。
「怖い思いをさせてごめんなさいね。この子の言ったことは全部、嘘よ」
ぞっとした。嘘ではない。尚香の言ったことが嘘とは思えない。なのにわたしは声が出なかった。
尚香は全くの無抵抗だった。
美女が尚香を立たせて一緒に出て行くまで、私は動けなかった。嵐が過ぎ去ったような沈黙が訪れた。
わたしはよろよろと戸外へ出た。いつの間にか小雨が降り始めていた。霧のような雨の中、二人を乗せた馬車が遠ざかっていく。底冷えのする空気が足元に忍び寄り、寒気を感じた。
尚香を行かせたことを、わたしは後悔し始めていた。何故か尚香が、美しい絡新婦の網にかかった羽虫のように思えた。とても不穏な気がした。
美女が亡き孫策の妻で、大喬と呼ばれる女性であることを、その時わたしは知らなかった。
その夜、濃い霧が出た。
一寸先も見えぬ濃霧の中を、一艘の小舟が向かって進んでいく。提灯のぼんやりとした光の下、管弦の音色がかすかに漂う。こんな時に舟遊びをするとは命知らずな物好きもいたものだ。しかしその舟には、実は楽隊も舞姫もいなかった。代わりに積まれていたのはたくさんの藁。乗っていたのは、呉の重臣魯粛と、諸葛亮であった。舟はゆっくりと、しかし確実に敵陣に近づいていった。
黄氏の密偵を使い、わたしはこれらのことを知った。諸葛亮の状況と、彼がしようとしていることも。
翌朝、市場は諸葛亮の噂で持ち切りだった。
草船借箭。諸葛亮が、魏軍に矢を射させて藁舟で受け止め、十万本の矢を手に入れたのである。