赤壁の戦いと十万本の矢
その夜の諸葛亮は珍しく酒を嗜み、わたしにも勧め、快活によく話しよく笑った。本を見て諸葛亮が作った料理は、本の通りの江東料理なのかは分からなかったがとても美味しかった。揚げた魚には程よく酸味と塩味の効いた餡が絡み、白身に散らした香辛料が食欲をそそる。蓮根の汁物は青魚の団子から出た出汁が旨味を引き立たせている。香りのよい油で炒めた蝦入りの青菜はわたしの知らない菜だったが、素朴で優しい味がした。
「こんなに料理が上手だなんて知りませんでした」
口の中でほろほろと崩れていく魚の味に陶然としながら、私は賛辞を贈った。普段は簡単な羹や屋台で贖った油餅のようなものしか食べていないから余計沁みる。もっと料理を習っておけばよかった、と言うと、諸葛亮は苦笑しながらわたしの皿に新たな料理を乗せてくれた。
「やってみるとなかなか面白いものです。料理は奥深いものだと知りました。いろいろ試してみたくなります」
「孔明さまは器用なのですね。何でもお出来になる。羨ましいわ」
「無心になりたかっただけです。商店を回って、本を探して…気づけばこんなに買い物をしていた」
「無心になりたいことでもあったのですか」
「まあ、いろいろと」
諸葛亮は自分の杯に酒を注ぎ、一息に呷った。いつもより酒量が多い。憂いを払おうとしているように見えた。
「ここも平和ではなくなる。覚悟して下さい、月英」
わたしははっとした。杯を置いた目は真剣そのものだった。諸葛亮はこれを告げるために戻ってきたのかもしれない。
「私に何かあったら、長兄を頼って下さい」
「何か、とは」
諸葛亮はそれ以上言わず、市場での買い物のことや希少な古書を見つけたことなどを話し始めた。しかしその中に、米麦の値が急騰していること、鍛冶屋の手間賃が上がっていることなどが入っていることをわたしは聞き逃さなかった。戦の兆候だった。
もうすぐ大戦がやってくる。強い予感にわたしの手は震えた。
工房に入ると心が落ち着く。
等身大のからくり人形が、虚ろな目でわたしを見つめている。
ここはわたしの城だ。仮住まいであっても、わたしは一隅に必ず自分用の工房を設けた。これは結婚の条件でもあった。からくりはわたしの命、わたしの人生そのもの。ここに入るとわたしは十四歳の少女に戻ってしまう。
「貂蝉さま、どうしましょう」
薄暗い室内に灯火をつけると、からくりの女たちが並んでわたしを出迎えた。艶やかな長い髪、陶器のような肌にくっきりとした二重瞼の目、貂蝉さまを模した人形たち。その中のひとつを膝に乗せ、わたしは気弱な声を出した。
「また戦が始まってしまう。貴女が命を捧げたのに、どうして戦火は止まないのでしょう」
人形は答えない。貂蝉さまなら何と答えてくれるだろう。人形の虚ろな目には高価な玻璃の玉が嵌っている。西からの交易品だという。さぞ美しいのだろうがわたしには色が分からない。
わたしは人形の脚の間から糸を引いた。中の歯車が回り、人形はきしむ音を立ててゆっくりと立ち上がった。ぎこちない動作でも、動きがあると生命の気配を感じることができる。偽りの命でも、からくりは美しい。
――貴女はまだ、色のない世界にいるの?
貂蝉さまが問うた気がした。そうです。わたしの色覚は貴女に捧げてしまいました。五感すべてを捧げてもよいくらいでした。
人形の唇に唇を這わせると冷たい木の味がした。不器量なわたしを可愛いと言ってくれたただ一人の人。わたしは人形の首の後ろに手を回し、鑿を当てた。細部まで作り込まなくてはならない。完璧な貂蝉さまをこの手で作り出さないうちは死ねない。このからくりが魂を宿すまで。
ふと少女の鳶色の瞳を思い出した。人形たちのうつろな目とは全く違う、生命力にあふれた瞳。あの瞳が欲しい。魂はきっと目に宿る。
背後では、からくりの人形たちが同じように虚ろな目でわたしたちを見つめていた。美しかったが、どれも貂蝉さまではなかった。
諸葛亮の予言通りだった。
建安十三年、秋。曹操が八十万もの大軍を発し、この地に攻めてきたのだ。
のちに赤壁の戦いと呼ばれるこの戦のことを、わたしは決して忘れることができない。
坂道を転がり落ちるように、平和だった江東は一気に戦一色に染まった。道は封鎖され、河は軍船で埋まった。劉備が曹操という戦神を連れてきたのだ、と人々は噂した。実際は劉備と同盟を結ぼうが結ぶまいが江東は曹操に狙われていただろうが、市井の民にそこまでは分からない。それにしても八十万とは。曹操の本気を感じずにはいられない。孫権もよく開戦に踏み切ったものだ。
その孫権の妹と劉備殿との縁談は進展していないようだった。なんと孫尚香が行方をくらましているのだとか。こっそり話してくれた諸葛亮は、緊迫した状況下であるのにどこか嬉しそうだった。安堵だけではなさそうだった。
相変わらず諸葛亮は多忙を極め、周瑜や魯粛といった呉の重臣たちと謀議を重ねていた。劉備との同盟の立役者が、他ならぬ諸葛亮であることは周知の事実であった。噂によると、諸葛亮は居並ぶ呉の重臣の前でかなり大胆な演説をしたらしい。その胆力を褒める者もいれば、無礼だと怒る者もいた。毀誉褒貶喧しい。彼が家に帰らぬのは、わたしをいざこざに巻き込まない配慮かもしれなかった。
市場の様子は一変していた。物資の輸送は滞り、あらゆる物の値段が高騰していた。市場を行き交う人々の表情は暗く、商人たちは命と財を天秤にかけて難しい選択を迫られた。
「くそっ、こんなに物の値が上がったんじゃ、誰が買うんだよ」
「武器も武具も足りねえって噂だぜ。あっちは矢を雨のように降らせて来るってのに」
「曹操の水軍はとんでもねえ大兵団だってよ、怖い怖い」
「周提督たちががんばっているが、持ちこたえられるかねえ」
「いっそのこと降伏しちまえば」
「何言ってる。あの悪辣な曹操の支配下になったら、俺たちだって何をされるか分からんぞ。聞いたか、徐州での曹操の暴虐ぶりを」
わたしは男装の少女がまた横道から飛び出してくるのではないかと思ったが、あれから彼女の姿は見かけなかった。
諸葛亮から矢傷のようだと言われてから再度あの装飾を見ると、鋭い金属は確かに矢尻だった。あの子は腰に本物の矢の飾りを付けていたのである。まるで武装である。良家の子女にしてはずいぶん勇ましいことだ。女らしくせよと叱られたりしないのだろうか。まして男装して町を出歩くなど、儒教道徳に外れる行いだろうに。
もしまた会ったら確かめたいことがあった。色だ。一瞬だけ戻ったわたしの色覚は、あの瞳の色をまた映すのか。しかしそれを確かめる機会はないまま、不穏な気配だけが濃厚になっていった。
そんなある日、わたしの工房に、客人が来た。
朝から工房に籠っていたわたしを訪ねる声がしたのは、今にも雨が降り出しそうな曇天の空が広がる日だった。戦況は膠着し、気分が鬱鬱とする。戸を少しだけ開けると、虎の面を被った人物が立っていた。
「工房があると聞いて訪ねてきた。主人はあんたか」
虎面は挨拶もなしにいきなり言った。わたしは客人を見た。身なりは悪くないが礼儀がなっていない。華奢な体つきはまだ年若い少年のようだ。貴人の子弟だろうか。
「矢を作ってもらいたい。できるだけ早く、できるだけ多く。金はいくらでも出す」
「わたしは武器は作りません。作るのはからくりだけ」
わたしは戸を閉めようとした。戦争ごっこにでも使うつもりか。しかし少年は足を挟んで閉めさせようとしない。
「職人なら矢も作れるだろ。国の一大事なんだよ」
「わたしは職人じゃないの」
「頼むよ。みんな断られて、どこもやってくれないんだ」
猫科の生き物を思わせる敏捷さで、客人はするりと中に入ってきた。強引さにわたしは呆れた。
「入らないで。わたしの城よ」
少年はわたしのからくりを眺め渡した。
「すごい。これみんな、あんたが作ったのか」
「そうよ。武器はない。分かったらさっさと帰りなさい」
「こんなに腕がいいのに、矢が作れないわけない」
世辞ではなかった。少年の言葉はまっすぐで、わたしの自尊心をくすぐった。そういえば子供の頃は、精巧な弓矢を作って親戚の龐士元などを驚かせていたものだった。その辺の職人より器用だという自負がある。図面を引けば作れるのではないか。いや作ってみたい。もの作りの血が騒ぎ、わたしはつい聞いてしまった。
「いくつ必要なの」
「十万本。三日以内」
わたしは仰天した。
「冗談言わないで」
「作れなければ諸葛亮が死ぬ。他国者のあんたは知らないだろうが、死なせるのは惜しい人物なんだよ」
今度こそわたしは絶句した。この子は諸葛亮を知っているのか。ここが諸葛亮の家だと知らずに来たのか。何より、諸葛亮が死ぬとはどういうことか。
「あなた、何者なの」
少年はおもむろに虎面を外した。薄い色の髪がこぼれ落ち、鳶色の瞳が現れた。
わたしは息を飲んだ。この色に覚えがある。
――あの時の、男装の少女。
「訳あって素性は言えない。小弓、と呼んでくれ」
その時、小弓の腹の虫が盛大に鳴った。小弓はばつが悪そうな顔になった。
「あと、悪いが食べ物を…それと、少しだけ、匿って……」
言い終わらぬうちに、小弓はわたしの目の前で倒れた。力尽きたような倒れ方だった。
「え、ちょっと!」