長江に死す
船の上に若い女がいた。傍らに身なりの良い男の子がいて、不安そうに彼女を見上げている。
女とわたしの目が合った。
鳶色の瞳が、驚愕で見ひらかれるのをわたしは見た。
唇が何か言っている。げつえい、という形に見える。
「尚香!」
わたしは声を限りに叫んだ。
雨音を裂き、大音声が響いた。
「夫人、阿斗さまをこちらに!」
一回り大きな船が、水しぶきを立てて向かってきていた。
先端には、端正な顔の武将が仁王立ちになっている。雨を受けた横顔はひどくこわばり、総毛立つほど恐ろしかった。
護衛として城に残っていた趙雲将軍が、追いかけて来たのだった。
二隻の船の距離はみるみるうちに縮まり、ついに並んだ。
水中に衝撃波が走り、ばらばらと細かい木片が散った。二つの船がぶつかり、軋む音が河岸まで響いた。
雨が小降りになり、奇妙な静けさが訪れた。尚香と趙雲将軍は、船の上で対峙していた。
「お願い、見逃して」
風に乗って彼らの声が流れてくる。わたしは全身を耳にして彼らを見守った。全身を打っていた雨がふっと止んだ。うしろから九娘が傘を差しかけていた。
「いいですよ」
聞き違いかと思った。意外なことに、趙雲将軍の端正な顔には笑みが浮かんでいた。
「貴女に用はない」
冷たい言葉だった。趙雲将軍の笑みがどこか不穏な空気を醸し出す。
尚香が何か言ったが聞き取れない。しかしそれを聞いて趙雲将軍の形良い唇がゆがめられた。怒りの形だった。
「殿に会うことはできません。それなら貴女は死ぬべきだ。今ここで」
はっきりと聞こえた。
これが趙雲将軍の言葉とは、にわかには信じがたかった。
そういえば彼は以前、麋夫人を死なせたことがあった…あの時も阿斗さまだけが助かって、まさか……
「死んでください。殿のために」
一瞬の出来事だった。
弓をつがえ、趙雲将軍はまっすぐに尚香に向けて矢を放った。
わたしの目の前で、尚香の小柄な体が宙に浮き、舟の外へ落下した。
尚香が射られた。
反射的に、わたしは水中に飛び込んだ。
水のあまりの冷たさに震え上がったのもつかの間、わたしは尚香に向かって泳いだ。泳ぎなら自信がある。小さい頃はよく野山を駆け川で遊んだ。龐統よりずっと泳ぎは上手だったのだ。わたしは増水した水をかきわけて進んだ。自分のどこにこんな力が潜んでいたのか分からないほどの力が出た。
水の流れは思ったよりずっと早く、わたしは何度も水を飲んだ。流されそうになりながら無我夢中で水をかき分けた。もう少し、もう少しで尚香に手が届く。
水中に、女物の着物がゆっくりと沈んでいくのが見えた。
「月英、やっと来てくれた」
尚香の声がした。手が触れた瞬間、二人で見た出来事が鮮やかな色彩で閃いた。走馬灯だろうか。
ようやく会えた。ようやく触れられた。貴女の手に、貴女の肉体に、死に向かう冷たい水の中でようやく、
わたしはずっと、この時を待っていたのかもしれない。
わたしたちが思うように生きられる世界。わたしたちが縛られない世界。それはこの世にはない。
色彩があふれていた。わたしが失って久しい色彩が鮮やかに世界を彩っていた。だからここは既にこの世ではないのだろう。
――お前は、馬鹿だ。
なぜか龐統の声が聞こえた。最期に聞くのが彼の声だなんて、おかしなこと。
実際は、水に入ってすぐわたしの心の臓は止まっていたらしい。
枕元に諸葛亮が座っていた。
暖かい宿の部屋にわたしは寝かされていた。苦い薬湯の匂いがする。ここはあの世ではないのか。
目で尚香を探し、わたしは悟った。死ねなかったのだ。
「すみません。私は知っていたのに何もしなかった。こうなると分かっていたのに」
憔悴した顔で諸葛亮が言う。
「九娘は助かりませんでした」
頭がうまく働かない。九娘が死んだ?あの九娘が、わたしを置いて?
九娘はわたしを追って水中に飛び込み、亡くなったのだという。わたしが夢中で追いかけ、捕まえたと思った女の着物は、九娘のものだったのだろうか。
「貴女は十日も目を覚まさなかった。心の臓が止まっていたんです。蘇生できたのは奇跡だ」
「どうして…助けたの」
蘇生などしないでほしかった。一人だけ生き残って何になるのか。死なせてくれた方が慈悲になるのに。
「口止めされていましたが…貴女を蘇生させたのは士元です」
「士元……」
「もういません。軍に戻りました。顛末を殿に報告するために」
龐統は、尚香の件で劉備殿から極秘に派遣されていたのだと知った。ここに来たのは任務だから。でもなぜか、それだけではない気がした。
記憶のどこかに、ずぶ濡れの龐統の顔が残っている。水中で聞いた声は現実だったのかもしれない。
龐統の言うとおり。わたしは馬鹿だ。
「孫夫人のことを聞かないのですか」
わたしは首を振った。
至近距離で趙雲将軍の矢を受けて、あの冷たい水中で、助かるとは思えない。
「実は消息不明なんです。阿斗さまは保護されたのですが、夫人の姿はなかった。趙雲将軍は何も知らぬというばかり。水夫たちは皆殺されて目撃者がいない」
趙雲将軍は何も言わないだろう。尚香を殺したのは彼だ。
思えば趙雲将軍はずっと機会を伺っていたのかもしれない。敵の妹を排除する機会を。そして殿が不在の絶好の機会を得た。
ここは尚香にとってはどこまでも敵国。何かあっても表には出ない。真相は闇に葬られる。
かわいた笑いが喉の奥から込み上げてきた。もう涙も出ない。わたしはすっかり乾いてしまった。
灯火に照らされた諸葛亮の横顔に濃い影が落ちている。少しためらったのち、彼はぽつりと言った。
「知っていましたか。九娘は貴女を想っていたと」
そうではないかとずいぶん前から気づいていた。知らないふりをすることで、わたしは彼女を縛りつけていた。
わたしは顔を覆った。これは罰だ。尚香を愛したわたしへの。
諸葛亮はそんなわたしの手をやわらかく握った。
何も考えられなかった。今はただ、何も考えず眠りたかった。
ひと月以上たってから、ずっと下流の方で若い女の死体が上がった。顔はほとんど判別できない状態だったが、身に着けていた衣服は上流貴族のもので、身分ある女性と思われた。
女の死体が上がった夜、わたしはひと月ぶりに寝台を出た。そして鏡台の前に立ち、うねうねと波打つ赤い髪を切り落とした。
明朝、わたしは身なりを整えて諸葛亮の前に立った。冷静な諸葛亮はであったが、わたしの姿を目にするとさすがに驚きの声を上げた。
「月英、その姿は」
「長らく伏しておりましたが、ようやく回復いたしました」
髪を耳下まで短く切り、男の格好をしたわたしは、性別不詳の異国の者に見えたことだろう。
この国には短髪の者などいない。男も女も髷を結うため髪を長く伸ばしている。親にもらったものを切るのは不孝だと教え込まれている国なのだ。
異様な姿になったわたしを前に、諸葛亮は次の言葉が出ないようだ。
「わたしは国を出ようと思います」
「国を出て、何処に?」
「商隊に入り、異国を旅してみようと」
父に頼めば伝手を探してくれるはずだ。叱責されるだろうが、父はわたしには甘い。からくり作りの才があるので商隊では重宝されるはずだ。
わたしの風貌はこの国では目立ってしまう。ましてや女の身は生きづらい。もっと早くそうすればよかった。これ以上、尚香を殺した場所にいたくなかった。
「長らくお世話になりました」
わたしは深々と頭を下げた。離縁状は諸葛亮から出してもらう。後悔はなかった。
海の近くには初めて来た。
独特の磯の匂いと潮の香り。べとついた潮風は馴染みのないものだ。
波止場は荷を運ぶ水夫や乗客でごった返していた。見送りの者も多い。人混みをかき分けてたどり着いた商隊は、いまにも海へと出港しようとするところだった。顔を覆う頭巾を深く被ったまま、わたしは彼らに近づいた。
商隊の長は、彫りの深い異国の顔立ちと、わたしと同じ赤い髪をしていた。父の文を渡すと、男は頭巾の隙間からちらりとわたしの赤髪を見て、了承したように頷いた。
ここから東へ。海の向こうの国に行く。
見回すと、もう一人男装の女がいた。かなり若い。屈強な男ばかりの中では場違いだったが、本人は楽しそうに溌溂と働いていた。
目が吸い寄せられた。女の風貌は、尚香にそっくりだった。
思わずわたしはその女の腕を掴んだ。女は怪訝そうな顔をした。
「誰?」
鳶色の瞳はわたしを映しても何の揺らぎもない。初対面の顔を見るようだった。
「あたし、記憶がないんだ。知り合いだったらごめんよ」
――まさか。
わたしはある可能性に行き当たった。
あの時、本当は、尚香も引き上げられていたのではないか。
九娘は尚香と自分の服を取り換えたのではないか。わたしが水中で見たのは、尚香の服を着た九娘だったのではないか。九娘は尚香になりたかったのではないか、尚香としてわたしと死にたかったのではないか……
考えすぎかもしれない。でもあの場には龐統がいた。彼なら細工ができた。
不意に女はわたしの髪に手を伸ばし、眩しそうに目を細めた。
「あんたの髪、きれいだね。燃えているみたいだ」
「あなた、名は」
「英。小英と呼んで。響きが好きなんだ」
わたしはまじまじと女の顔を見た。
「きっと大事な人の名前だったんだ。覚えてないけどね。お姉さんの名は?」
「わたしは……」
強い海風が潮の香りを含んで吹きつけてきた。わたしは目を細めた。茫漠たる大海原が、突然、溢れんばかりの色彩で彩られた楽園に変わったのを、わたしは見た。
(了)




