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連れ戻された母子

侍女たちを見たとき、尚香の境遇が分かった。呉から来た侍女たちは皆同じ顔をしていた。命令に忠実な兵の顔だ。その中の数人に見覚えがあった。大喬が連れていた者だ。

尚香はまだ大喬の手の中にある。

尚香がなぜわたしのところへ来たのかずっと考えていた。これが答えだ。荊州に尚香の味方はいない。そして呉にも。

「さあ奥方さま。こちらへ」

女たちはわたしなど存在しないかのように尚香と阿斗さまを連行していく。わたしが何者か調べはついているだろうに、挨拶の一つもなかった。彼女たちが去っていくのを、わたしはなすすべもなく見送った。

一度だけ、尚香がわたしを振り返った。印象的な鳶色の瞳がわたしの目に焼き付いた。

その瞬間、世界に色彩が満ちた。

儚くも悲しい、しかしこの上なく豊饒な色の世界が。

もし劉備殿が不在がちでなければ、尚香はわたしのところに来なかったのだろうか。

――尚香。あなたの本当の願いは?

川面を渡る風が冷たい。青く茂る柳の陰で、この日最後の太陽が沈もうとしていた。

きらめく落日の胸焦がすような美しさを、その後わたしは何度も思い返すことになる。


川の向こうに尚香がいる。

船に乗って川を下っている。阿斗様も一緒だ。

わたしはその船を追って走っている。声を上げて尚香を呼ぶ。だが尚香には届かない。船も止まらない。

後ろからもう一人、走ってくる人影がある。馬に乗った武人だ。ふりかえるとそれは護衛として荊州に残っている趙雲将軍だった。

逃げて、とわたしは叫ぶ。早く逃げて。捕まってしまう。

趙雲将軍が弓を構えた。きりりと引き絞られた弓矢が正確に尚香を狙っている。とっさにわたしは趙雲将軍の前に飛び出した。

船が大きく揺れた。悲鳴が響き渡る。

大丈夫。一人にしない。わたしが一緒にいる。一緒に行く。

大きな流れがわたしたちを飲み込んだ。冷たい水の感触。水中で、わたしたちはしっかりと抱き合った。

目が覚めた。

真冬だというのに夜具がびっしょりと湿っていた。まだ動機がしている。やけに鮮明で、現実と見まがうばかりの夢だった……


あれから尚香には会っていない。阿斗さまが駆け込んでくることもない。

阿斗さまに会ってから、子供のいる生活を夢想するようになってしまった。愚かなことだと思いつつ。

子どもの好きそうな菓子を調べて作ってみたこともあったが、出来上がったものは食用には程遠い代物で九娘に笑われた。つくづくわたしの手は工作にしか向いていない。妻には不向きな女だと思い知る。

わたしに子ができないので、諸葛亮に妾をすすめる者もいるらしい。当然のことだ。諸葛亮が妾を置くとは思えないけれど。

先月、劉備殿は劉璋どのに招かれて巴蜀に赴いた。五斗米道を率いる漢中の張魯が巴蜀に侵攻したため、救援を求められたのだという。尚香は今まで以上に孤独な日々を送っていることだろう。

その日は朝から雨が降っていた。

わたしは書物をめくる手を止め、窓の外を眺めた。冬の冷たい雨は見る者の心を沈ませる。どんよりとした空から降る無数の雫は、空が涙を流しているようだ。

庭の樹木から水がしたたり落ちるのをぼんやり眺めていたら、九娘が帰ってくるのが見えた。

「おかえり。早かったのね」

わたしは立ち上がり、九娘から濡れた傘を受け取った。胸騒ぎが止まらないので、城まで尚香の様子を見に行かせていたのだ。阿斗様の好きそうなからくり玩具を持たせたので、その反応も聞きたい。

「尚香の様子はどうだった?阿斗さまは?」

わたしは九娘の様子がおかしいことに気づいた。舌が無い彼女は文や身振りで言いたいことを伝える。なのに今日の彼女は身じろぎもせず青い顔をしている。

「何かあったの?」

九娘を問いただす必要はなかった。すぐに来訪者を告げる侍女の声がしたからだ。

「月英、いるか?在宅か?」

大声を出しながら慌ただしく居室に入ってきたのは、幼馴染の龐統だった。


龐統に会うのはほぼ一年ぶりである。彼が妻帯してからは会わないように避けてきた。最初はうだつが上がらなかった彼も今では順当に出世し、諸葛亮と肩を並べる俊才として活躍していると聞く。劉備殿に帯同して巴蜀に行ったと思っていたのだが、どうしたのだろう。

「急用で帰ってきた。それよりも、お前、大丈夫なのか」

「大丈夫って何が」

龐統ははっとしたように口をつぐんだ。

「何でもない。邪魔したな」

言うなり龐統は身を翻して帰ろうとした。

「待ってよ!」

わたしは龐統の袖をつかんだ。

「呉から何か聞いたの?尚香のこと?」

「なぜそう思う」

「あんたがわたしのところに来たからよ。あんたが戻るなんて相当のことだわ。もしかして阿斗様にも何か」

龐統は髪を掻きむしった。

「お前は察しが良すぎる」

やはりそうだ。龐統が情報を探りに来るほどの事件があったのだ。龐統には呉に友人がいる。呉、つまり尚香に関わる何か重大なことを聞いたから、彼はわたしのところに来たのではないか。

雨の音が大きく聞こえる。沈黙が如実に事実を語っている。

「尚香に会うわ」

「お前は行くな」

聞いたこともない真剣な声だった。強くはないが有無を言わさぬ男の声。並の女なら竦み上がっていただろう。でも。

考えるより先に体が動いた。わたしは彼の手を振り払い、傘も持たずに雨の中へと飛び出した。


川は水かさが増していた。あの日三人で乗った小舟は影も形もない。町は道行く人もまばらだ。

打ち付ける風雨でわたしはすぐにびしょぬれになった。車を呼ぶべきだった。とりあえず商家の軒先に身を滑り込ませると、囁くような噂話が耳に流れ込んできた。

「じゃあ、城は大騒ぎなのかい」

「そうらしい。孫夫人が阿斗様を攫ったとか何とか」

「俺も聞いたぞ。趙雲将軍が顔色変えてすっ飛んでいったって」

門の前で、暇そうな車夫たちが無駄話をしていた。市井の者はいつだって勝手なことばかり言う。どこまでが真実でどこからが尾鰭なのかわたしには分からない。

「おお怖い。呉の女は怖いねえ。殿が不在なのに勝手なことを」

「家族が危篤だって聞いたぞ」

「本当かどうか知れやしねえ。こんな時代、同盟なんて信用できねえのさ」

わたしは平静を装って彼らの前に立った。

「車を出してちょうだい。城までお願い」

わたしが車に乗り込もうとした時、女が一人するりと同乗してきた。九娘だった。息を切らしながら、わたしに文を差し出す。

「お前、わたしの後をつけてたの?」

九娘は目をそらした。さっきは文など渡さなかったのに、と思いながらひらくと、見慣れた女文字が飛び込んできた。尚香だ。九娘は、尚香からの文を隠していたのだ。

――大喬嫂さんが帰れって。阿斗も連れて来いって。もう迎えが来る。月英、どうしよう。

大喬。

頭の芯を殴られた気がした。尚香は大喬に逆らえない。恐怖と支配が染みついているのだ。侍女たちの顔が蘇った。大喬の侍女たちに囲まれていてはなすすべがない。

車夫たちの噂が本当なら、尚香は今頃。

雨の中、車は城に向かっている。わたしは車夫に声をかけた。

「行き先を変えるわ。船着き場に向かって」

「船着き場、ですか」

そう。長江。あの雄大な流れのどこかに尚香がいる。


雨の降りしきる船着き場には人影ひとつ無かった。転がるように車から降りると、わたしは川向こうに目を凝らした。対岸近くに何かが見えた。それを船だと認識した時、わたしは走り出していた。

「尚香!」

船はかなりの速さで下っていく。九娘が必死に止めようと袖を引く。九娘ごと引きずりながらわたしは全力で駆けた。


走る、走る、走る。

わたしは女の名を呼びながら裾を乱してひた走った。大きな雨粒が頬に当たって痛い。走るのに邪魔でわたしは自分の裾を大きく捲り上げた。どれほど不作法に見えても構わなかった。

あの子は目を離したら死んでしまう。

みんな何故分からないのだ。痛々しい小鳥のようなあの子の心が。強気な瞳の奥に隠した縋るような色が。

大人たちがあの子の心をずたずたにしてしまった。

「尚香!」

ああ、わたしは何故こんなに懸命に走っているのだろう。以前のわたしは空っぽだったのに。空っぽの心を抱いて死んでいくはずだったのに。

かつて愛した人の心は空っぽで、だからわたしは、人の心はどれも空っぽなのだと思っていた。

人というものはこんなにもよく泣き、よく怒り、歓喜するものだと、溢れるほどの激情が渦巻いているものだと、あの子に会うまで知らなかった。

九娘が出ない声を振り絞って懸命に何かを言おうとしている。アウ、アア、と必死な声がする。でも止まれない。

ねえ、尚香。

全部あなたのせい。あなたに会ったから、私は変わってしまった。

わたしと一緒に死にましょうか。こんな世の中では、生きるのも死ぬのも、大して変わりないじゃありませんか――

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